文学のなかの生命

第2回 生命の時間

2014.10.07更新

 第1回の連載で、人間が「生命」という雑多で多様な領域から「心」というひとつのモデルを取り出して発明した過程を書いた。文学とは「心のモデル」から、こぼれ落ちてしまった「魂の剰余」を描き続けてきた営みではないか。それがこの連載のテーマでもある。仮に文学がそれを救おうとしているのなら、単に「主人公の心」にそれを込めるだけではできない。なぜなら、現実の人間の心はすでにそれだけでどんなモデルにも回収できない複雑さを持っているからだ。

 芸術が単に自然の模倣ではないように、文学も単に人生の模倣ではない。文学の描く魂の剰余は、様々な形態によって表現される。時に物語全体の構造によって、あるいは一行の言葉の象徴性によって、また時に主人公の心によって。ゆくゆくの連載で紹介していくつもりだが、たとえばジャン=ポール・サルトルの『嘔吐』はまさに主人公が生きることそのもの中に魂の剰余を包む生命があり、カート・ヴォネガットの『タイタンの妖女』は物語全体に生命の秘密が隠されている。

 そうした様々な形態を通じて描かれる生命らしさを、連載全体の中でぼんやりと書き綴っていきたいと思うのだが、今回は「作家が明示的に語った生命」を取り扱ってみたい。「生命」という視点を通じて見る文学の楽しみ方を提案できたらいいなと思う(正直に言うと、作家の語る「生命」について一言紹介しようと思っていたら、書いているうちに物語全体がこれに貫かれているような気がして終わらなくなってしまったのだ)。


ニュートンの時間、生命の時間

 三島由紀夫の『金閣寺』に、こういうシーンがある。京都の鹿苑寺金閣に、狂気とさえ言える美の完全を見る主人公と、足に不具を抱えて世を達観する柏木という青年が、夜の金閣を前に語らう場面だ。

" 柏木を深く知るにつれてわかったことだが、彼は永持ちする美がきらいなのであった。たちまち消える音楽とか、数日のうちに枯れる生花とか、彼の好みはそういうものに限られ、建築や文学を憎んでいた。 "   
(三島由紀夫『金閣寺』)

 柏木は「建築や文学を憎んでいた」。彼が夜に現れたのもそのためだ。建築の象徴たる金閣も、夜ならば月明かりの光が照らすひと時に微かに存在することしかできない。真昼の光に照らされて露になった不動の建築など、彼には御免だったのである。柏木は、沈黙に包まれた夜の金閣の前で尺八を口に当て、「御所車」という小曲を吹く。

" それにしても音楽の美とは何とふしぎなものだ! 吹奏者が成就する短い美は、一定の時間を純粋な持続に変え、確実に繰り返されず、蜉蝣のような短命の生物をさながら、生命そのものの完全な抽象であり、創造である。音楽ほど生命に似たものはなく、同じ美でありながら、金閣ほど生命から遠く、生を侮蔑して見える美もなかった。 "

 ここで音楽と重ねて語られている「生命の時間」は、あまりにも的確であるように思う。おそらく、「純粋」な「持続」という言葉を使ったこの一節は、生命における時間の本質を語ったフランスの哲学者アンリ・ベルクソンを引いているのではないかと思案することができる。

 ベルクソンは、「時間」を「空間化」して捉えることを徹底的に拒否した哲学者である。空間化とは、対象を外部から計測可能な不連続な量として扱うことだ。例えば、時計の針が示す区切られた時間は、時間を数直線という目盛を持った不連続な空間上にプロットしなおしたものであって、生命の時間は決して空間の上に配置されるようなものではない。時間はそれ自身が絶えず流れるものである。ベルクソンはそれを「純粋持続」と呼んだ。

 情報工学者ノーバート・ウィーナーは、この空間に配置された客観的な時間を「ニュートン的時間」、時間自身が持つ純粋で主観的な時間を「ベルクソン的時間」と呼んで、機械の時間と生物の時間の深淵な対立を描いた (*1)。ウィーナーによれば、科学が扱う時間は空間的な時間で、典型的には天文学からスタートして物理学という形式化に収束する。彼はこのことをおもしろい比喩を使って説明している。

 同じ軌道を周り続ける惑星の運動をビデオにとって逆回しに再生しても、ニュートン力学に矛盾しないが、入道雲の中の渦乱流などの気象の運動を逆回しに再生すると、上昇気流のあるべきところに下降気流が見えたり、雲が変化する前に稲妻が発生したりと、奇妙な時間が見えるはずである。ウィーナーにとって、惑星の時間はどの地点で切り取っても同じ運動を続ける「可逆的な時間(巻き戻し可能な時間)」であり、気象のような複雑な現象は時間が一方向に流れる「不可逆な時間(巻き戻し不可能な時間)」であった。それゆえ、ニュートンが天文学をモデルに構築した力学では、時間は「変数t」の名の下に、それを「負」に変換することが可能な「不変の時間」として仮託されたのだ(*2)。他方で、気象において発生する時間は、逆回しにするとその振る舞いを説明できない。こうした渦の構造や熱現象といった不可逆な現象は生命においてこそ典型的に発生する現象であり、彼はここに生命の鍵があるのではないかと考えた。

" 物理学の可逆的時間では新しいことが何も起こらない。他方、進化論や生物学の非可逆的な時間では、たえず新しいことが起こってくる。ベルグソン(Bergson)はこのちがいを強調したのである。 "
(ノーバート・ウィーナー『サイバネティックス』)

 「不可逆な時間」こそが「生命の時間」ではないか。ウィーナーは、何度も同じ軌跡を移動し続ける惑星の時間(可逆的な時間)に対して、一度起こったことは同じように繰り返されない生命の時間(不可逆な時間)を対置させたのだ。

 少し、脇道に逸れてしまったが、ここで先ほどの金閣の時間に戻ってみよう。金閣は、音楽が持つような「確実に繰り返され」ない、「生命の時間」を持っていなかった。金閣には「一定の時間」だけがあり、変化して流れる時間が存在しない。

" 今、私の聴いているのは、完全な静止、完全な無音であった。そこには流れるもの、うつろうものが何もなかった。金閣は、音楽の怖ろしい休止のように、鳴りひびく沈黙のように、そこに存在し、屹立していたのである。 " 

 おびただしい夜を超えて不動であり続けた金閣は「時間の海をわたってきた美しい船」であり、不変であるが故に生命の美を獲得できない。

 そこで、主人公は決意するのである。金閣は滅びなければならぬ、と。そのときはじめて、「頂きの鳳凰は不死鳥のようによみがえり飛び翔つ」だろう。そして、そうすることによって、「形態に縛められていた金閣は、身もかるがると碇を離れ」、生命の時間を獲得することができるのだ。

 彼は、戦争の空襲が京都を焼いてくれることを心の底で望んだ。しかし、京都に空襲は訪れなかった。しかも、まさに京都に点在する文化的遺産のために、いわばその不変の「美しさ」のために爆撃を免れてしまったのだ。

" 私はただ災禍を、大破局を、人間的規模を絶した悲劇を、人間も物質も、醜いものも美しいものも、おしなべて同一の条件下に押しつぶしてしまう巨大な天の圧搾機のようなものを夢みていた。ともすると早春の空のただならぬ燦(きらめ)きは、地上をおおうほどの巨(おお)きな斧の、すずしい刃の光のようにも思われた。私はただその落下を待った。考える暇も与えないほどのすみやかな落下を。 " 

 「金閣を焼かねばならぬ」。そして、主人公は自ら金閣を燃やしたのだ。

 もちろん、三島は金閣と生命を単純な「静」と「動」の美に対比させるだけでは終わらない。ここにはもうひとつ、「生命の時間の一回生」という問題が挟み込まれている。通常、人間の生こそが一回きりで、建築のような構築物は何度でも作りなおすことができる。しかし、三島にとって事態は逆である。 

 「生あるものは、金閣のような厳密な一回性を持っていなかった」と、彼は言うのだ。「人間は自然のもろもろの属性の一部を受けもち、かけがえのきく方法でそれを伝播し、繁殖するにすぎない」。人間は滅びやすい故に永生の幻のなかにあり、金閣は不壊(ふえ)であるが故に滅びの可能性を持つ。仮に「殺人が対象の一回性を滅ぼすためならば、殺人とは永遠の誤算」であり、金閣は不滅であるが故に消滅させることが可能な対象なのだ。そして、それゆえに、彼は「人間」を殺すのではなく、「金閣」を殺さねばならなかったのだ。

 三島由紀夫にとって、「生命の時間」は流れ続けるが故に終わりがない。一個の生命にとって時間は二度と訪れない一回性の時間であるが、生命全体にとっては、あるいはそれと接続する自然現象にとっては、一個の生命の時間の死は、これまで何度も繰り返されてきた、そしてこれからも何度も繰り返されるであろう、凡庸な死にすぎない。それは、いささかも世界を変えはしない。事実、彼は金閣の「和尚」を殺すことを断念する。和尚という一人の人間を殺したところで、また新たな人間は次々に生まれてくる。生命の時間はただただ常に変化し続けるだけであり、どこにも終わりがない以上、それを殺すことはどこまでも「永遠の誤算」なのだ。

 しかし他方で、「金閣の時間」は、いわばニュートンの時間である。どこの時間で区切っても、それはそこに存在し、無限の過去においても、あるいは無限の未来においても、それはすべて現在と同じ瞬間であり、不動である。世界はこのニュートン的時間に支えられている。三島にとって、いや、この主人公にとって、金閣は世界の前提と同義のものとして立ち現れたのだ。金閣の時間は、不変であるが故に無限の変数としてどこへでも現れる、世界の条件でさえある、あの「時間t」なのだ。

 もしこれを殺すことができたなら...そのとき、人々は「われわれの生存がその上に乗っかっている自明の前提が、明日にも崩れるという不安を学ぶ」だろう。だからこそ彼にとって、金閣を殺すことが唯一の「革命」だったのではないだろうか。「生命の時間」という観点からこの作品を見るとき、僕には『金閣寺』という文学がこのように迫ってきた。


これから

 この連載は、しばらくゆっくりと続いていく予定だから、「おわりに」ではなく「これから」と書いて文章を締めくくろうと思う。

 一般に文学の伝統において、三島由紀夫は戦後日本を代表する作家の一人として、つまり敗戦とアメリカ文化の流入に包まれた戦後日本の独特な空間における複雑な感情を体現する作家として、語られることが多い。1956年に書かれた『金閣寺』という作品こそはまさにその象徴でもある。金閣は日本の伝統の矜持でもあり、同時に日本を伝統に束縛する呪縛でもある。故に題材となった金閣も、初層は寝殿造、中層は武家造、上層は仏殿造で、浄土真宗と禅宗信仰、また公家文化といった異種混合のキメラ的造りをなした矛盾である。すなわち、金閣は日本の「歪な」「伝統」そのものであるにも関わらず、あるいは「歪」であるからこそ、そこに「完全」を見ようとするアイロニーが成立する。だから、「敗戦の衝撃、民族的悲哀などというものから、金閣は超絶していた。もしくは超絶を装っていた」のであり、後者に作者の本音がある。

 三島にとって金閣は、「丹念に構築され造型された虚無」に他ならなかった。そしてそれはまさに「日本」そのものだった。また、小説の内部においては、金閣は醜い自分と美をつなぐ唯一の媒介でもあり、「私を縛められている美の観念から...私の存在の条件から、ともかく出発しなければ」ならない実存の中心でもある。

 日本、美、罪、実存...この小説の中には幾らでもテーマがある。『金閣寺』を読んだ小林秀雄が、これは物語ではなく一種の抒情詩であると言ったように、あるいは「きみの才能は非常に過剰」だと言ったように、この作品には物語はないとも言えるし才能に任されて描かれたテーマが過剰にあふれているとも言える。だから、「生命」というテーマ、それもノーバート・ウィーナーという生命の時間に迫ろうとした科学者を側に置きながらこの小説を読んでみた今回の連載も、そうした一つの角度のひとつと言えるかもしれない。ぜひ、それぞれの読者も原作を読んで、考えてみてもらえたらと思う。

 三島が生命の持つ本質的な時間の性質に対してどこまで自覚的であったかは分からない。しかし、たしかにここには文学の中に描かれる、ひとつの生命の姿があったように思う。



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(*1)ウィーナーはここで対比的に機械の時間と生物の時間を比較したが、むしろ彼の理論的全体の構想においては、科学がこれまで扱ってきた機械的時間から生命的時間をどのように構成すべきか、という探求へと繋がってゆく。
(*2)もちろん、天体の運動も、完璧なニュートン力学に従うことはない。ウィーナーは、太陽や惑星の運動を「剛体」の運動として扱おうとする天文学も、例えば地球の中心より月に近い方の水は月に引かれるといったような「あまり大きくはない効果のために」、厳密には「重力の天文学でさえ運動を減衰させる摩擦過程を含んでおり、厳密にニュートンの図式に合うような科学は一つもない」と語っている。すなわち、天文学といえども正確には惑星の質量や時には潮の満ち引きにさえ微かな影響を受け、そのことによって不可逆な時間を構成する。しかし、物理学はこうした「誤差」を無視することで力学の体系を維持するのであり、「摩擦」や「空気抵抗」といった現実の現象の細部を意図的に排除することで成立するのである。これは、「心のモデル」から魂の剰余があぶれだしてしまったことと同型である。


参考文献
三島由紀夫『金閣寺』(新潮文庫)
ベルクソン『意識に直接与えられたものについての試論 −時間と自由』(ちくま学芸文庫)
ノーバート・ウィーナー『サイバネティクス −動物と機械における制御と通信』(岩波文庫)

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下西風澄(しもにし・かぜと)

1986年生まれ。東京大学大学院iii博士課程在学。ESMOD JAPON非常勤講師。専門は科学哲学。主にシステム論/現象学アプローチから生命や意識を探る哲学研究。 「むき出しの知性」(『建築雑誌』2013年9月号)、「色彩のゲーテ」(『ちくま』2014年8月号)など。

http://kazeto.jp

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