文学のなかの生命

第3回 幽霊たち

2014.12.02更新

そう、我々のまわりは幽霊たちであふれている。
Yes, there are ghosts all around us.
(『幽霊たち』ポール・オースター)


探偵

 子どもの頃、探偵小説が大好きだった。コナン・ドイルの『シャーロック・ホームズ』シリーズを夢中で読み、江戸川乱歩の怪人二十面相にドキドキした。

 探偵小説の最も興奮する場面といえば、なんといっても犯人が緻密に計算して練り上げた複雑怪奇な謎を、主人公の探偵が明解な推理を組み立てて見事に解決する瞬間にちがいない。

 しかし、ポール・オースターの書く探偵小説では、探偵は謎を解決しない。解決するどころか、謎を解決しようと推理すれば推理するほど、謎が次々に増えていく。そして、驚くべきことに、その謎は最後まで解けないばかりか、いつの間にか探偵自身が新たな謎を生み出す「犯人」になってしまっていることさえある。

 たとえば、「ニューヨーク三部作」の第一作目の『シティ・オブ・グラス』。ある不審な人物を追跡することを依頼された主人公の探偵クィン(*1) は、毎日その人物を尾行して行動を記録するが、その人物は何の事件も起こさない。来る日も来る日もただニューヨークの街中を歩くだけである。そして、あまりにも何の行動も起こさないこの人物を調べあげていくうちに、探偵クィン自身が狂い始めてしまうのだ。

 第二作目の『幽霊たち』では、主人公の探偵ブルーは、ブラックという人物を見張るように依頼を受けるが、これまたブラックも何の事件も起こさない。ブルーは毎日何もしないブラックをアパートの一室から24時間体制で監視し続ける。

 翻訳者の柴田元幸氏はオースターの小説を「事件の起こらない探偵小説であり、犯人のいない推理小説である」と語っているが、まさにその通りである。

 なぜ、オースターの作品では事件が起こらないのか。犯人がいないのか。それは、謎に理由がないからだ。普通の推理小説では、犯人の動機があり、事件があり、トリックがあり、それが謎を生む。しかし、オースターの書く謎には何も理由がない。

 僕たちは、物事には必ずなにがしかの理由があると考えることに慣れている。理由もない物事に僕たちは耐えられない。結果には必ず原因があるはずであり、行為には必ず目的があるはずである。ところが、なんの意味もない謎を追いかけるうちに発狂していくのがオースターの描く探偵クィンであり、ブルーだ。

 探偵とは、物事の原因を解きほぐし、理由を明かし、必ず謎を解決する職業である。しかし逆に言えば、探偵とは何も謎がないところに謎を見てしまう人間のことであり、何も理由のないところに理由を見つけてしまう人間のことでもある。

 巨額の金を払って監視を依頼した人物には、監視をする「理由」があるはずである。また、監視をされる不審な人物には監視をされるべきなんらかの「理由」があるはずである。

 そして、その信念―物事には必ずなにがしかの理由と解決があると考える信念―を支える探偵の根拠は、「観察」と「記録」である。探偵はすべての行動を「観察」し、観察したものを精確に「記録」する。与えられたデータを全て集めて記述すれば、自ずと物事はその意味を明らかにするのだ、と。

 しかし、まさにここに落とし穴が待ち構えている。


言葉と世界

" 報告書を書く日がやってくる。この手の文章にかけてブルーはベテランである。作成に手こずったことなど一度もない。あくまで外面的な事実から離れない、というのが彼のやり方である。一つひとつの言葉が、それが指し示す事物とぴったり合致するかのごとくに彼の出来事を描写し、それ以上深く考えないようにするのだ。彼にとって言葉は透明である。彼と世界とのあいだに立つ大きな窓である。その窓が彼の視界を妨げたことなど、これまで一度もなかった。"
(『幽霊たち』)


 探偵ブルーは言葉を信頼している。観察したものを精確に言葉で記録してゆけば、世界はそのまま写し取られ、謎は晴れ、必ず事実が明らかになってゆくのだと。しかし、事実は何も明らかにならない。焦りを覚えていくブルーは、何か見落としがあるのではないかと、ちょっとした細かい行動の裏を読み、意図を憶測し、解釈し、どんどんと記録は現実を超えた物語に膨れ上がっていく。そして、本当は何もしていないはずのブラックの行動の背後に、無数の物語を読み込んでいくのだ。

 そして、探偵ブルーは「幽霊」に出会う。もちろんこの小説には、お化けのような幽霊は出てこない。では、オースターにとっての幽霊とは何だろう。

 世界それ自体は完璧で満たされていて、ひとつの現実しかない。探偵はその世界を緻密に観察し、言葉でそれを記録する。しかし気づくと探偵は、端的な事実の背後に無数の物語を読み込んでしまう。その、現実には生きられなかった、実際には存在しなかった、世界(=言葉)の周りを漂う断片たちこそが「幽霊」(*2) なのだ。

 オースターにとって幽霊は、死者の亡霊ではない。幽霊とは、言葉によって書き尽くされた世界から、はみ出てしまったものたちのことだ。

 結局のところ、彼が書き続けた問いとは、言葉と世界の関係だった。言葉は世界を写し取れるか。例えば「傘」という言葉が傘を指し、「靴下」という言葉が靴下を指し、そうやってひとつずつこの世界を言葉に置き換えていった時、すべての世界は言葉の中に収まるのだろうか。

 『シティ・オブ・グラス』で探偵クィンが追っていた人物は、毎日ニューヨークでゴミのような壊れたガラクタを拾い集めている。しかし、彼は単にゴミを集めていたのではない。彼には使命があった。

"「そうしたものをどうするんですか?」
「名前をつけるんだよ」
「名前?」
「それにふさわしい名前を創るんだ」"
(I invent new words that will correspond to the things(*3)
(『シティ・オブ・グラス』)

 壊れた傘は、もはや雨を防ぐ「傘」ではない。「傘」ではないそのガラクタは、「傘」からはぐれ、世界(=言葉)の外側にはみ出してしまう。

"「傘から布をはがしてしまっても、傘はやっぱり傘なのか? 布のついていないスポークを開いて、頭上にさし、雨の中を歩き、ずぶぬれになる。それでも、この物体を傘と呼べるのか?」"
(前掲書)


 ゴミを集める男は、壊れゆくものたちを見つけては、それに新しい「名前」をつける仕事をしているのだと主張する。彼は毎日毎日、世界(=言葉)からはみ出てゆくものたちを集め、それに新たな言葉をあてがうことによって世界の綻びを一人で繋ぎ止めようとしていたのだった。

"「いいかね、世界はばらばらですよ、あんた。それを元通りにつなぎ合わせるのがわしの仕事なんだ」"
(前掲書)


 彼の仕事は、世界からはみ出してしまう「何か」を救う仕事だったのだ。そして、「世界があなたの両肩にかかってるんですね」と尋ねる探偵クィンに対し、男はこう答える。「まあ、そういうことだ。世界、あるいは世界の残りかすだ(The world, or what is left of it)」。それは、世界から取り残されたものたちだ。


機械の中の幽霊

 人工知能の研究は、まさにコンピュータの中に世界を言葉として書き尽くし、そのことによって心を作ってしまおうとする発想のもとに行われている。人工知能にとって、コンピュータの中に書かれない世界は存在しないことと同じである。人工知能はまさに、観察(入力)された記録(データ)を論理(記号)によって推理(推論)することによって思考を創りだす装置である。

 しかし、人工知能のプロジェクトは、オースターの探偵と同じように(?)、世界を言葉で書き尽くしても届かないようないくつかの難題を抱えている。

 たとえば、認知科学に「マリーの部屋」と呼ばれる思考実験がある。色彩に関する神経科学的な全ての知識を持つ天才神経科学者マリーは、生まれたときからずっと白黒の部屋の中で暮らしている。部屋の中には一つも色彩がない。生涯一度も色を見る経験をしたことのないマリーが、このモノクロの小部屋から扉を開けて色彩のある外の世界に出たとき、彼女はなにか新しい発見をするだろうか。

 これは、「クオリア」と呼ばれる概念を考えるための思考実験だ。クオリアとは、意識感覚の独特の質感のことである。今目の前にあるリンゴの「赤らしさ」という質感は、単に「赤」という言葉(記号)には還元できないような性質を持っているのではないか、という議論である。換言すれば、クオリアとは「記号に回収できないもの」のことである。もし、記号に書き下せない経験が存在するならば、人工知能は世界を経験することができるだろうか。

 これは人工知能研究の難題の一つである。人工知能の発想は、(脳を含む)「身体」というハードウェアの上に「心」というソフトウェアを実装しようとする試みだが、ここには身体と心が別物の存在者であるという形而上学的前提がある。

 デカルトは身体と心を区別して、身体は機械である言ったが、哲学者のギルバート・ライルはこれを揶揄して「機械の中の幽霊」と呼んだ。もし、身体が機械であるならば、機械のどこを探しても心はない。これでは、心は機械(身体)の中に住まう「幽霊」になってしまう、と。

 オースターの浮かび上がらせた「幽霊」は、こうした難題、あるいはその不可能性の靄と、図らずも交錯しているように見える。世界を記号に置き換えて、それを推論によって思考しても、それでも残ってしまう何かがあるのではないか。

 ニューヨーク三部作をそうした視点で読むと、こうしたモチーフは端々に隠れている。

" 言葉はもはや単なる言葉ではなかった。それは奇妙な沈黙の記号であり、表で言われている事柄の周囲をふわふわと漂いつづけるコミュニケーションだった。"
(『鍵のかかった部屋』)

 仮に世界と言葉がぴったりと全て対応していたとしても、それでもそこに「残りかす」のように、あるいは事物と言葉の周囲をふわふわと漂う「幽霊」のように、あぶれてしまうものがあるかもしれない。

" 世界とはそういうものだ。一瞬たりとも多すぎず、一瞬たりとも少なすぎない。" (Such is the way of the world: not one moment more, not one moment less.)
(『幽霊たち』)

 世界は多すぎもせず少なすぎもせず、すべてが「ぴったり」と合致するはずであるにもかかわらず、私達は幽霊から逃れられない。


あるいは

 世界と言葉の決定的な歪、それこそがポール・オースターにとっての幽霊だ。

 しかしあるいは、哲学者ドレイファスが言ったように、人工知能のプロジェクトは単なるコンピュータ技術の進化ではなく、世界を論理によって表現しようとする西洋思想を貫く根本的な欲望の結晶であったとすれば、西洋思想の一つの到達点である近代を生きる我々は、皆こうした思想の圏内に生きている。

 世界のデータを集めて推論によって真実を明らかにする探偵という職業は、近代に生きる全ての人間が持っているひとつの病かもしれない。探偵とは、謎を解くことに取り憑かれた人間のことであり、謎のないところにも無理やり謎を見出さざるを得ない人間のことでもある。

 ポール・オースターの書く探偵は、謎なき謎を追跡し、いつの間にか狂ってしまう。世界を読み取って推論によって記述し尽くしてしまおうとする近代の人間の欲望がある限り、僕たちは誰しもが「探偵」であり、誰しもが「幽霊」に鉢合わせしてしまう運命にあるのかもしれない。

 そう、我々のまわりは幽霊たちであふれている。


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(*1)正確に言えば、クィンという人物は作家である。そこに、間違い電話で探偵の依頼が来るのだが、クィンは面白そうだからと探偵になりすまして依頼を受けてしまうのである。
(*2)オースターの「幽霊」は、「存在していると同時に、存在していないこと(三浦雅士)」として読み取られることが多いかもしれない。世界の謎を解こうとする探偵は、世界を記述し解釈していくうちに、いったいどの地点から記述しているのか分からなくなって書きながらにして自らが消えてゆく。
(*3)翻訳では意訳してあるが、この箇所は「ふさわしい名前」というだけでなく、より強く、「word(言葉)」が「things(事物・物)」と「correspond(一致)する」という表現になっている。

参考文献
ポール・オースター『幽霊たち』(柴田元幸 訳,新潮文庫)
ポール・オースター『ガラスの街』(山本楡美子,郷原宏 訳,角川文庫)
ポール・オースター『鍵のかかった部屋』(柴田元幸 訳,白水社)

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下西風澄(しもにし・かぜと)

1986年生まれ。東京大学大学院iii博士課程在学。ESMOD JAPON非常勤講師。専門は科学哲学。主にシステム論/現象学アプローチから生命や意識を探る哲学研究。 「むき出しの知性」(『建築雑誌』2013年9月号)、「色彩のゲーテ」(『ちくま』2014年8月号)など。

http://kazeto.jp

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