文学のなかの生命

第4回 人間の土地

2015.02.11更新

飛行機乗りの身体

 サン=テグジュペリは飛行機乗りだった。

「ぼくら人間について、大地が、万巻の書より多くを教える。理由は、大地が人間に抵抗するがためだ」という書き出しで始まる小説『人間の土地』は、彼の飛行機乗りとしての体験を元に書かれている。

『星の王子様』の作者でもあるテグジュペリの作品には、宇宙や星、空の旅などのテーマから一種のロマンチシズムが想像されるが、一度彼の小説を読んだ者なら、その作品が徹底したリアリズムに貫かれていることが分かる。

 この小説の舞台であり、彼が飛行機乗りとして仕事をした1920年代の航空技術は、実際に命の危険を伴うものだった。バッグ一つで空港に向かい、電車に乗るように飛行機に乗る現代においては想像することさえ難しい空の危険というものがあった。

 飛行機製作技術の乏しさだけではない。人類史上最大の戦闘機による全面戦争となった第二次世界大戦を迎える以前、どこに高山が聳え、気流と雲が発生するのか、そういった航空路はまだまだ未開拓だった。その意味で、テグジュペリが飛んだ「郵便飛行」でさえ、遠くの町に誰かの言葉を届けるだけではなく、どの航路が安全か危険か、身を持って確かめて航空路を開発する使命も担っていた。

 命を託す飛行機への感覚は文字通り命がけの身体感覚として研ぎ澄まされている。操縦士がエンジンをかけると発動機が全開になり、機体の離陸を腰の振動によって感じ取り、操縦桿の金属が浮力の伝道者として肌に圧力をかける。自らを包むこの機械との緊密な同一化によって、飛行機は大地を飛び出し、空へ向かって滑空するのである。

 もはや僕たちが触れなくなって久しい、緊張した人間と自然の関係がここにはある。死と隣合わせの飛行機乗りは、どんな些細な変化も見逃さない集中力で自然と対峙する。テグジュペリの感じたリアリティは、どこまでも具体的な身体感覚として捉えられている。

"たとえば、乗客の目には退屈で単調なあの窓外の眺めにしても、すでに、乗務員にとっては、別個の意味をもつのである。地平線をふさぐあの雲塊にしても、乗務員にとっては、すでに単なる背景ではなくなって、直接に彼の筋肉に関連し、さまざまな問題を投げかけるのである。" 
(『人間の土地』 堀口大學 訳)

 一旦空に飛び出た飛行士は、機体を超えて、風や雲でさえ、自分の「筋肉」の一部のように感じ取る。実際、生態心理学者のJ.J.ギブソンは、飛行士が飛行中に大地に注ぐ光の肌理を直接に知覚して平衡感覚や着陸の角度を判断していることを明らかにしている。飛行機乗りの見る風景、そしてリアリティは、もはや僕たちの知覚とは全く異なる次元へと昇華されているのだ。


リアリティ、メッセージ

「ぼく」は研修の訓練を終えて初めて飛行機に乗る前夜、不安で夜も眠れなかった。彼のミッションはスペインの山を超えてトゥールーズ=ペルピニャン間の短距離往復を行う慣熟飛行であったが、実際に飛行中に死んだり行方不明になったりする先輩たちの先例が、彼に死の恐怖を与え続けていた。

 そんな折、友人のギヨメがぼくに「不思議きわまる地理学の講習」を授けてくれる。彼はスペインの山脈についても、気象についても語らない。「ギヨメはぼくに、スペインを教えてはくれなかった、彼はスペインをぼくの友達にしてくれた」。

 なんらかの対象を理解するということの本質が、その対象についての知識が増えることではなく、その知識をありありと自分のものにすることだとすれば、その先にある最高の理解の形態は「友達になる」ことかもしれない。

"彼は、水路のことも、人口のことも、家畜賃貸のこともまるで語らなかった。彼はまた、ゴーデスについても言わなかった、ただゴーデスの近くに、ある原っぱを囲んで生えている三本のオレンジの樹について、〈あれには用心したまえよ、きみの地図の上に記入しておきたまえ......〉と、言った。するとたちまちにして、その三本のオレンジの樹が、地図の上で、シエラネヴァダの高峰より幅を利かすことになるのだった。"

 それから、ギヨメは小さな村に住む農夫、彼らが飼っている三十頭の羊、その近くを流れる小川の話をして、ぼくはそこにペンで目印をつける。そして、「地理学の先生たちがなおざりにした、あの羊飼いの女を、その正当な位置においた」。

 こうしてぼくの不安はようやく晴れていった。飛行機乗りにとって、はるか高みの天上から俯瞰的に眺めた大地と正確な幾何線と記号によって置き換えられた地図よりも、空からは小さすぎて目に見えないような詳細こそが何よりも強いリアリティだったのだ。まるで、空を飛ぶ身体が、毛細血管のように大地に根を張り、一つ一つの細部を明らかにしていくように。

"やがてすこしずつ、ぼくの地図のスペインが、ランプの灯かげのもとで、おとぎの国になってくるのであった。"

 こうして全体のリアリティがミクロな知覚と想像力によって構成される身体感覚を手に入れると、今度は逆にミクロな出来事からそれに接続する自然全体への見え方が変わってくる。

 例えばある時、砂漠で野営しているテグジュペリが飛行準備をしていると、ふいに一匹の蜉蝣がランプに突き当たる。この瞬間、「なぜというわけもなしに、この蜉蝣がぼくの心臓をつねる」。テグジュペリは、外へ出る。風も涼しく、空も砂も落ち着いている。しかし彼は、このはるか遠くより飛来した蜉蝣から「熱砂の嵐がくる」と予感するのだ。

"いまぼくを原始的な悦びで満たしてくれているのは、天地間の秘密の言葉を、言葉半ばで自分が理解した点だ。未来がすべて、かすかな物音としてだけ予告される原始人のように、ある一つの足跡を自分が嗅ぎつけた点だ、この天地の怒りを一羽の蜉蝣の羽ばたきに読み取った点だ。"

 テグジュペリは、自分の外側へと広がってゆく感覚の中から、ついには自然の細部をいわばメッセージとして、「天地間の秘密の言葉」として、感じる境地に至る。こうした彼の身体感覚に基づくリアリティは、単に飛行機文学における表現技術であるというよりは、テグジュペリの文学的なテーマそのものに結びついている。


 サン=テグジュペリ作品のテーマは、飛行機文学という面の他、第一次世界大戦中に青年期を過ごし、「人間性」を問いなおそうとした作家として読まれることも多い。その意味でテグジュペリの小説は、孤独な空の旅と究極的な状況における人間の矜持とヒロイズム、そこで連帯する人間の絆を描く友情物語でもある。

"愛するということは、おたがいに顔を見合うことではなくて、一緒に同じ方向を見ることだと。ひと束ねの薪束の中に、いっしょに結ばれないかぎり、僚友はなく、同じ峰を目ざして至り着かないかぎり、僚友はないわけだ。"

 しかし、彼の身体性へのリアリティを中心に読んでいくと、彼の「友情」や「連帯」、そして「絆」は、単に精神的な繋がりを希望的に語ったものではないことが分かる。彼は「スペイン」とも「友達」であったのだ。彼にとっては「雲」が「筋肉」であり、「オレンジの樹」は「山脈」より大きく、「一匹の蜉蝣」は「嵐」のメッセージであった。

 テグジュペリにとっての「絆」とは、確固たる個人が独りの人間として手を繋ぐことの友情であるよりは、はじめから自分と共にある他者との否応なき繋がりに気づくこと、あるいは引き剥がし難い自然との連続性を知覚することに支えられている。

 何よりも象徴的なのは、身体の哲学を切り開いたメルロ=ポンティの主著『知覚の現象学』がテグジュペリの文章で締めくくられていることだろう。メルロ=ポンティが引用した小説の一節を見てみよう。

"君の息子が炎に包まれていたら、君は救け出すことだろう......もし障碍物があったら、肩で体当たりするために君は君の肩を売り飛ばすだろう。君は君の行為そのもののうちに宿っているのだ。君の行為、それが君なのだ......君は自分を身代わりにする......君というものの意味が、まばゆいほど現れてくるのだ。それは君の義務であり、君の憎しみであり、君の愛であり、君の誠実さであり、君の発明なのだ......人間というのは、さまざまな絆の結節点にすぎない、人間にとっては絆だけが重要なのだ。" 
(『戦う操縦士』 堀口大學 訳)

 メルロ=ポンティにとって「身体」とは、単にこの世界にモノのように存在する一個の事物ではなく、むしろ世界がそこにおいて始めて現れ、構成されるような場であり、世界と意識を媒介する構造である。

 山本和道氏は「サン=テグジュペリにおいては、知性は分析する力であり他者と分離した個人を作り出すのに対して、精神は総合する能力なのである」と語っている。テグジュペリの言う「精神(l' Esprit)」は、超越的な宗教性でも、合理的な知性でもない(*1)。それは、まさにメルロ=ポンティが指摘したような、意識と世界の媒介性としての身体性に支えられた力に他ならない。もちろん、身体を単に皮膚に覆われた物理的な身体に限定してはいけない。これまで見てきたように、身体は機械や自然へと拡張し、媒介し、一体となる。テグジュペリはそれを「絆」と呼んだのであり、だからこそ「人間というのは、さまざまな絆の結節点にすぎない」と語ったのだ。

 テグジュペリのヒューマニズムは、人間精神固有の高尚な思想でも、自然崇拝の蒙昧な畏敬でも、機械文明への単純な批判でもない。それは、人間と自然の断ち切れない関係性に根ざし、機械さえ知覚の延長として取り込む、どこまでも具体的な身体性としてのネットワーク(絆)にあったのではないだろうか。


雲の峰へ

 1944年7月31日。グルノーブル・アヌシー方面へ偵察のためにボルゴ基地から飛び立ったテグジュペリは、そのまま消息を断って還らぬ人となった。彼もまた、『人間の土地』の主人公のように、砂漠に不時着して孤独の中の神秘を、そしてまた孤独の中の絆を、感じながら死んでいったのだろうか。

"ぼくは、自分の職業の中で幸福だ。ぼくは、自分を、空港を耕す農夫だと思っている。......ぼくには、何の後悔もない。ぼくは賭けた。ぼくは負けた。これはぼくの職業の当然の秩序だ。なんといってもぼくは、胸いっぱい吸うことができた、爽やかな海の風を。"


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(*1) 「l'Esprit(精神)」には、「神の霊」という意味があり、「精神の風が、粘土の上を吹いてこそ、はじめて人間は創られる」という一文で締めくくられるこの小説には、宗教的な力による人間性への示唆もあるが、例えば『ジッドとサン=テグジュペリの文学』(山本,2010)では、「l'Esprit(精神)」の「カリスマとしての霊」という意味に注目し、人間自身の力を引き出す「賜物」という解釈の可能性を提示している。本稿では、身体性への着目によってその力を具体的に描いてみることを試みている。

参考文献
サン=テグジュペリ『人間の土地』(堀口大學 訳,新潮文庫)
サン=テグジュペリ『星の王子さま』(河野万里子 訳, 新潮文庫)
M.メルロ=ポンティ『知覚の現象学』(竹内芳郎,木田元,宮本忠雄 訳,みすず書房)
山本和道『ジッドとサン=テグジュペリの文学』(学術出版会)

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下西風澄(しもにし・かぜと)

1986年生まれ。東京大学大学院iii博士課程在学。ESMOD JAPON非常勤講師。専門は科学哲学。主にシステム論/現象学アプローチから生命や意識を探る哲学研究。 「むき出しの知性」(『建築雑誌』2013年9月号)、「色彩のゲーテ」(『ちくま』2014年8月号)など。

http://kazeto.jp

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