文学のなかの生命

第5回 漱石の「椿」

2015.05.05更新

枕元を見ると、八重の椿が一輪畳の上に落ちてゐる。代助は昨夕床の中で慥かに此花の落ちる音を聞いた。彼の耳には、それが護謨毬を天井裏から投げ付けた程に響いた。夜が更けて、四隣が静かな所為かとも思つたが、念のため、右の手を心臓の上に載せて、肋のはづれに正しく中る血の音を確かめながら眠に就いた。
(『それから』)


 夏目漱石『それから』の冒頭、代助が明け方に門前に響く下駄の足音に目を覚ますシーンだ。数多ある小説のなかでも、もっとも美しい冒頭だと思う。

 春も終わりになると、庭先には茶色く枯れ朽ちた椿の花がぽつぽつと見え始める。無垢で静かな春の雨は赤い花びらを土に溶かし、固い深緑の葉はつやつやと陽光を反射させる。この季節、僕は漱石の「椿」をよく思い出す。

 真夜中にはっきりと椿の落ちる音を聞いた代助は、体に脈打つ心臓の音を確かめる。

" ぼんやりして、少時、赤ん坊の頭程もある大きな花の色を見詰めてゐた彼は、急に思ひ出した様に、寐ながら胸の上に手を当てゝ、又心臓の鼓動を検し始めた。寐ながら胸の脈を聴いて見るのは彼の近来の癖になつてゐる。動悸は相変らず落ち付いて確かに打つてゐた。彼は胸に手を当てた儘、此鼓動の下に、温かい紅の血潮の緩く流れる様を想像して見た。是が命であると考へた。自分は今流れる命を掌で抑へてゐるんだと考えた。"


 紅い椿は、代助の命であった。弾力あるゴム毬のような音を響かせた、ぽったりとしたその大きな椿は、彼の全身に血潮を送る「血を盛る袋」であった。

 「真夜中に落ちる椿の音」という冒頭のこの一事に、この先に代助が経験してゆく、生きていくことの不安、また生きていることの不安、その全てが要約されている。

 夜に聞こえた椿の音は、一種の唐突さ、驚きを含んでいる。なだらかに静まる真夜中に与えられた突如の点、不連続、区切り。思い起こせば紛れも無く聞こえた慥かな記憶の一点。それは、眠り(死)を心臓の鼓動(生)へと向かわせる新たな契機であった。

 この花は、一つの音を響かせる。


椿の音

" 見ていると、ぽたり赤い奴が水の上に落ちた。静かな春に動いたものはただこの一輪である。しばらくするとまたぽたり落ちた。あの花は決して散らない。崩れるよりも、かたまったまま枝を離れる。枝を離れるときは一度に離れるから、未練のないように見えるが、落ちてもかたまっているところは、何となく毒々しい。またぽたり落ちる。"
(『草枕』)


 花びらが一枚一枚崩れ、ゆったりとした春の風に舞う桜は「はらり」と「散る」かもしれない。しかし、花が一体となって重みをなし、枝の根本で固く結ばれている椿は「ぽたり」と一挙に「落ちる」のだ。

 言語学の大家フェルディナンド・ソシュールは、言葉の意味(シニフィエ)と言葉の音(シニフィアン)は、偶然に結びついているのであって、その対応関係に必然的な理由はないと考えた。「毛むくじゃらの四本足の動物」を表現する音は、「犬(inu)」であっても「ドッグ(dog)」であってもなんでもよい。

 しかし、文学者はこの世界と言葉の偶然の結びつき、その膨大な可能性の網目の中から、か細い糸を手繰り寄せるように、必然の音を一点において呼び降ろさなければならない。椿は確かに「ぽたり」と落ちるのだ。

 「ぽたり」。「ぽ」という破裂音。閉じた唇が離れてぱっと開き、空気を振動させる。突如の開始点。「た」。tの小さな破裂の響きを引き継ぎながら、aでゆるやかに空間を広げる。「り」。舌を上口につけた水気をもって口を萎めて締めくくる。

 椿の「ぽたり」と落ちる音。それは、唐突さを持って始まり、その豊かな大きさをさっと重力に委ね、血液にも似た赤い毒気を含んで地に落ちる。この、真夜中の唐突な音と命への重なりを集約した描写に、漱石の天才はある。

 かつてアリストテレスは、生きていることは血が巡っていることであると考え、魂の在り処は心臓に違いないと考えたが、赤い椿の落ちる様は、まさに血の滴りである。漱石は、椿のぽたりと落ちる風景に、その身体を同化させ、自らの肉体の血が、命が、「ぽたり」と落ちていくように感じたのではないだろうか。

" また一つ大きいのが血を塗った、人魂のように落ちる。また落ちる。ぽたりぽたりと落ちる。際限なく落ちる。"
(『草枕』)

ためらい

 一年程前に、引っ越しをした。新居には小さな庭があって、白と赤の椿が咲いている。

 四月の半ばになって、庭の椿が枯れ落ちたと思ったら、もう新しい緑の葉が芽を出し始めて驚いた。今からまた来年の春に向けて少しずつ実を結んでいくのだ。

 自然は一切停止しない。僕たちはつい花が咲いたり枯れたり目立つところに目がいくけれど、樹にとってはどの瞬間も生きているのであって、全ての生成は等価だ。だとすれば、むろん僕たちの生も、止まること無くすべて等価だ。

" 世界はためらいも欠如も弱点もなしにそれがあるようにあり、その実在性には断層も裂け目もない。"
(『言語と自然』メルロ=ポンティ)


 漱石の見た紅い椿、漱石の聞いた椿の音は、心の臓を一層大きく響かせる。椿の音は、夜中に響く、不連続の区切りであった。しかし、それでも自然は終わらない。生を終えて地に落ちる音さえ新たな生命の契機であり、裂け目なく続く自然の生にためらいはない。

 僕は春の終わりの緑の新芽に、あの大きな不連続音へと向かってドクドクと鳴り続ける、沈黙にも近い椿の鼓動を聴いた。


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参考文献
夏目漱石『それから』(夏目漱石全集四巻,岩波書店)
夏目漱石『草枕』(夏目漱石全集二巻,岩波書店)
フェルディナンド・ソシュール『一般言語学講義』(影浦峡,田中久美子 訳, 東京大学出版会)
メルロ=ポンティ『言語と自然』(滝浦静雄,木田元 訳,みすず書房)

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下西風澄(しもにし・かぜと)

1986年生まれ。東京大学大学院iii博士課程在学。ESMOD JAPON非常勤講師。専門は科学哲学。主にシステム論/現象学アプローチから生命や意識を探る哲学研究。 「むき出しの知性」(『建築雑誌』2013年9月号)、「色彩のゲーテ」(『ちくま』2014年8月号)など。

http://kazeto.jp

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