文学のなかの生命

第6回 幸せと豊かさについてー桜、檸檬、水の音

2015.08.04更新

 幸せと豊かさは違う。僕はそう考えている。一見近そうな言葉。幸せであることは豊かな世界で生きることのように思われるし、豊かであることは幸福であることのように思われる。しかし、この二つの言葉は、近しい言葉であるどころか、ある見方によってはまったく逆のことを意味する言葉であるかもしれない。
 
 幸福が現実の安定性であるとするならば、豊かさとは現実の不安定性である。ある意味では、時に幸福は退屈であり、時に豊かさは悲劇でさえある。そう考えて、一人の作家の作品と生涯を眺めてみたい。


不安で豊かな世界

 梶井基次郎の『桜の樹の下には』という小説は、「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」という、少しぎょっとする書き出しで始まる。唐突に始まるこの告発は、読む者を否応なく不安にさせる。あの美しく爛漫と咲く桜、人びとが集まり酒を飲んで笑顔を交わすあの桜の下には、悪臭放つ死体が埋まっているというのだ。

"俺にはその美しさがなにか信じられないもののような気がした。俺は反対に不安になり、憂鬱になり、空虚な気持ちになった。"
(『桜の樹の下には』)


 たしかに、春に咲く妖艶で甘美な桜の情景には、どこか狂気めいたものを感じる。冬が終わり、風が少し生温くなってくる季節、背後からふわっと体を包む春の風には、死の匂いがべったりとまとわりついているような気がする。梶井基次郎は、この美しい世界の背後に、憂鬱と狂気を読み取った。

"この渓間ではなにも俺をよろこばすものはない。鶯や四十雀も、白い日光をさ青に煙らせている木の若芽も、ただそれだけでは、もうろうとした心象に過ぎない。俺には惨劇が必要なんだ。その平衡があって、はじめて俺の心象は明確になって来る。"


 文学の眼差しとは、人を幸福にするというよりは、人を不安にさせるものだ。『桜の樹の下には』という小説は、最初のたった一行でこの不安の世界を呼び醒ます。美の背後に死を、幸福の背後に惨劇を、いわば一言で暴いてしまった作品でもある。

 僕は、この不安な気持ちこそが、豊かさと呼ばれるものと結びついでいるのではないかと思う。つまり、豊かさには「良し悪し」などなく、端的に世界の多様性(diversityというよりは、まさに日本語の「多数の様相(muluti modality=複数の様相)」)を示すもののことではないか。

 漢文学者の白川静によれば、「豊」という漢字はもともと、「豆」の字形で表された食器の上に、たくさんの禾穀(稲などの穀物)が供えてある形を示し、「多い」という意味を持つ。今目の前に見えているこの世界、ただ一つの安定した現実、その背後には、もしかするとまったく別の世界が隠されているかもしれない。世界を複数のレイヤーの重なりとして見ること、それこそが豊かさではないか。


崩れ去る現実感

 梶井は『筧の話』という小説の中で、はっきりと現実の二重性を見ている。

"私は物体が二つに見える酔っ払いのように、同じ現実から二つの表象を見なければならなかったのだ。しかもその一方は理想の光に輝かされ、もう一方は暗黒の絶望を背負っていた。そしてそれらは私がはっきりと見ようとする途端一つに重なって、またもとの退屈な現実に帰ってしまうのだった。"
(『筧の話』)


 杉の梢が光を遮るひんやりとした山径。時折、梢を漏れた陽が弱い日向を作っている。この道は、伊豆の湯ヶ島で療養していた梶井が好んで歩く散歩道だった。水の流れる「筧」(地上に水を流す竹や木でできた樋(とい))の幽かな音に耳を澄ましていると、「変な錯誤」が感じられる。その水の音を聞いていると、なぜだか「露草の青い花」を見る時の感情が沸き起こってくる。

"聴覚と視覚との統一はすぐばらばらになってしまって、変な錯誤の感じとともに、訝しい魅惑が私の心を充たして来るのだった" 


 一つの同じ現実に、二つのイメージが重なっている。筧を流れる水の音と、露草の青い花。それは一種の錯誤であり、知覚の混乱である。

 通常、現実感というのは、視覚や聴覚、嗅覚、触覚などの感覚が一つに統合されることで与えられる。たとえば今、眼前に見えているアイスコーヒーは、カラカラと氷の音を鳴らし、ほんのりと香り、触れば冷たく冷えている。こうした諸感覚の統合性こそが、現実を安定したものとして支えている。

 梶井が杉林で経験した混乱は、聴覚と視覚の連絡の途切れによって生じた。そこではおそらく安定した現実が綻び、パラレルな様相として複数の世界が混ざってしまっていたかもしれない。しかしそれゆえ、彼は「水の音」を「青い花」として経験する豊かな世界に入り込むことができたのだ。


知覚と世界

 リアリズム小説の志賀直哉、幻想の詩人ボードレール。この二人を尊敬したからこそ、梶井基次郎は現実と幻想を重ねる世界を描けたのかもしれない。しかし、この世界の多層性とも言うべき独特の世界観は、文学上の技術であるというよりは彼の切実な体験に基づいている。

 たとえば彼が、桜の下に見た死体。それを可能にしていたのは、想像力というよりは、もはや知覚に近い。

"何があんな花弁を作り、何があんな蕊を作っているのか、俺は毛根の吸いあげる水晶のような液が、静かな行列を作って、維管束のなかを夢のようにあがってゆくのが見えるようだ。"
(『桜の樹の下には』)


 梶井はこれを「美しい透視術」と呼んでいるが、彼はまさに「見た」のであり、まるで他の感覚器官が忘れ去られてしまったように、視覚だけが突出して現実構成に強い力を与えている。彼のこの強烈な体験、知覚が現実を立ち上げてしまうことのリアリティは、『ある心の風景』という短編の象徴的な言葉に集約されている。

"視みること、それはもうなにかなのだ。自分の魂の一部分あるいは全部がそれに乗り移ることなのだ" 
(『ある心の風景』)


 徹底した没入。いや、もはや没入でさえなく、見ることが即ち世界への参加であり世界の形成である。生物学者のフォン・ユクスキュルは、生物はその知覚器官に応じたそれぞれの世界に生きていることを明らかにした。視覚も味覚もないダニは、嗅覚と温度感覚によって世界を拓き、ウニは明るさと暗さだけが描く世界地図の中を生きている。

 つまるところ、現実とは知覚に制約づけられた意味世界に他ならない。そして、意味とは連続的な世界への切れ目であり、その裁断者こそが生命である。

 物質の世界において、石は石であり、桜は桜でしかない。檸檬は檸檬でしかなく、影は影でしかない。しかし、生命は知覚を通じて常にそこに意味を読み取る。意味を読み取ることによって世界に差異を生み出し、また差異を見出すことによって意味を創りだす。神経生物学者のフランシスコ・ヴァレラは、「生きることは意味を作り出すことだ("living is sense making")」と言った。こうして現実は、生命という契機によって複数のレイヤーに分割されるのだ。


些細さのなかで

 現実が綻びはじめるきっかけは、常に些細なことがらである。山路を歩く時に聴こえる水の音、ふと目に入った桜の樹。そして、『檸檬』。

 「えたいの知れない不吉な塊」が青年の心を始終圧えつけていた。彼は果物屋でなんとなく檸檬を見つける。「レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたような色」、肺を病み熱を帯びる体に浸み透るような冷たさ、手に心地よい紡錘形の形と美しい重さ。これを摑んだ瞬間に、彼の気持ちはふっと緩み、心が軽やかになる。

 そして、彼は日頃気詰まりをして避けていた丸善書店の本の上に、檸檬を「爆弾」に見立てて置いてくる。この檸檬もまた、単なる果実ではない。それは、鬱屈した青年の心を晴らす爆弾である。まったく些細な日常の一点が、彼においては一挙に別世界を呼びこむ契機となる。

 梶井基次郎の作品に短編の名作が多いのは、彼のこの些細さへの感度が圧倒的に優れていることによるのではないかと思う。ただ些細な現実の一点。巧妙に隠された、しかしそれでいて、一度気づけばなぜ今まで気づかなかったのかと思うほど明らかな、そうした一点。彼はそうした現実の綻びを見つける才に秀でていた。

 梶井は、十七歳で肺結核が発症し、生涯この病気に脅かされて生きる。京都四条大橋の上で酔っ払ったまま「肺病になりたい。肺病にならんとええ文学はでけへんぞ。」と叫んだその心は、アイロニーとしてのみ言葉にし得る悲しみが溢れている。三十一歳の若さで世を去ったこの作家の目には、いかに世界が不安定なものに見えていただろう。いつ、全てが崩れ去ってしまうか分からない。

 桜を見れば死の匂いを嗅ぎ、檸檬は晴れやかな爆弾と化す。月の影にはうごめく生物の相が浮かび、影は自己となって海へ導く(『Kの昇天』)。

 たった三十年あまりの短い人生は、いつ命を失うかも分からないという緊張に満ちていた。彼の産みだした作品は、そうした動的な緊張感のなかで書かれている。その鋭敏で繊細な生こそが、些細さへの感度を高めたのだろう。この夭折の作家を「それでも幸福だった」などと慰めるべきではない。しかし、不安定で揺れ動く生命を生きたその人生は、間違いなく「豊か」であったに違いない。

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参考文献
梶井基次郎『梶井基次郎全集』(筑摩書房)
白川静『字通』(平凡社)
フォン・ユクスキュル『生物から見た世界』(日高敏隆・羽田節子 訳, 岩波書店)

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下西風澄(しもにし・かぜと)

1986年生まれ。東京大学大学院iii博士課程在学。ESMOD JAPON非常勤講師。専門は科学哲学。主にシステム論/現象学アプローチから生命や意識を探る哲学研究。 「むき出しの知性」(『建築雑誌』2013年9月号)、「色彩のゲーテ」(『ちくま』2014年8月号)など。

http://kazeto.jp

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