文学のなかの生命

第9回 知性と深淵 アラン・ポーと動物

2016.05.10更新

物事を深く見つめすぎると、思考のほうも混乱をきたし弱ってしまうんだよ。 
―『モルグ街の殺人』(エドガー・アラン・ポー)


知性と「深淵」

 1996年。IBMの開発した人工知能「Deep Blue」がチェスチャンピオン、G.カスパロフを破った衝撃が20年の時を経ていま再び繰り返されている。Googleの開発した囲碁ソフト「アルファ碁」が、李世ドルを破った。最高峰の知性とも謳われるチェスや囲碁の棋士がコンピュータに敗れたことにより、人間的知性の意義を危ぶむ声も聞こえる。

 たしかに棋士たちは膨大な数の棋譜を記憶し、将棋「電王戦」においては1秒間に約3億手を読む人工知能と接戦を繰り広げた。彼らが常人の能力を遥かに超えた知性の持ち主であることは間違いない。しかし、ここで本当に問われているのは知性の優劣ではなく、知性の意味である。

 ミステリ小説の祖とも言われるエドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe,1809-1849)は、『モルグ街の殺人』をチェスの話から始めている。

"より高次の内省的知性がもたらす力というのが決定的かつ有効に決まるのはチェッカーのように地味なゲームによってであり、チェスのように小賢しいゲームではないということだ。チェスの場合は、駒ひとつひとつが異なる奇妙な動きを割り振られており、多様にして不定の価値を伴うため、たんに複合的にすぎないものがいかにも深遠のように誤解されることがある。"
―『モルグ街の殺人』

 時に将棋は「人生」に例えられ、囲碁は「宇宙」に例えられる。盤上に命を賭ける棋士たちにしか見えない「深淵」はたしかに存在する。しかし、ポーはそれを「小賢しいゲーム」と一蹴し、深淵は「複合性」(複雑さ)のもたらす「誤解」だと言う。この指摘は、単なる印象論ではない。現代の認知科学の言葉で言い換えるならば、ポーは棋士の見る「深淵」を「認知限界」だと言っているのだ。

 チェスや囲碁、将棋などの遊戯は、人工知能の研究領域では「二人完全情報確定ゼロ和ゲーム」と呼ばれる。ポーカーや麻雀などのランダム性のあるゲーム(「不完全情報ゲーム」)とは異なり、偶然性のないボードゲームはゲームが始まる前からその可能的なパターンがすべて決まっている。しかしその全可能性の数は尋常ではなく、たとえば将棋の指し手は約「10の220乗」手と言われる。これは先ほどの1秒に3億手読むソフトでも1年間かけておよそ「10の16乗」手しか読めない計算になるので、全パターンを計算するには「10の204乗」年かかる。仮にソフトが1万年計算し続けたとしても、まだ「10の200乗」年続けて計算し続ける必要があり、地球が滅びるまでにも計算は終わらない。

 将棋ソフトはすべての可能性を計算すれば完全無欠な勝利を得ることができるが、すべての手を計算するのは実質的に不可能であるから、指し手の最適化を図る「評価関数」を使って余分な計算を排除することで戦略を立てている。

 たしかに、将棋やチェスの「深淵」は人間の認知能力と認知限界に関係している。私たちは、尋常の認識では捉えきれない複雑で未知の彼方に「深淵」を見る。もし仮に人間の脳が非常に限られた計算能力しかったとしたら、私たちは9つしかマスのない「○×ゲーム(三目並べ)」に「人生」や「宇宙」を見たかもしれないし、逆に人間の脳が非常に高い演算能力を有していたならば、将棋や囲碁は勝敗の決まったつまらないやりとりに思えるかもしれないのだ。

 もし人生が、与えられた選択の連続と可能的な生存戦略のパターンでしかないのであれば、人生の「深淵」など知性の欠乏にすぎない。果たして人間にとって深淵とは何なのか、あるいはそんなものが存在するのだろうか。また仮に深淵が存在するとしても、それは哲学者ニーチェが「お前が深淵を見つめるとき、深淵もまたお前を見つめているのだ」と言ったように、認知限界の向こうに横たわるそれは、眼前のコップを知覚によって観察するようには、一方的に覗きこむことはできない。


不安、恐怖、動物

 人間の推理や推論といった合理的思考の能力は、探偵小説において際立って描かれてきた。またそれゆえに、幾人かの推理小説家は推論的知性の限界を痛感している。第三回の連載『幽霊たち』(ポール・オースター)では、その例をひとつ考えてみた。

 合理的な知性がその能力を発揮するには、その知性の外側にまったく理性の及ばない、いわば「暗闇」がなければならない。その不確かな暗闇を知性によってひとつずつ紐解いて光を当て、事件を白日の下に照らすのが探偵の仕事であり、ミステリ小説にはいつもこの暗くて不安な通奏低音が流れている。

 たとえばドストエフスキーもポーの影響を受けた作家として知られ、とりわけ『罪と罰』などはミステリ色の強い小説であるが、主人公のラスコーリニコフの抱く不安や恐怖は、ポーの書くそれとは似ているようで異なる。ドストエフスキーの不安は人間の不安であり、ポーの不安は人間を超えた根源的な不安である。言い換えれば、ドストエフスキーの不安は不条理と実存の不安であるが、ポーの不安は無根拠で野獣的な不安である。

 そう考えると、ポーの作品では重要な場面で「動物」が度々登場し、そこで動物は人間の理解を超えた未知の象徴(あるいは到達不可能性)として描かれていることに気がつく。『モルグ街の殺人』では、人間には思いつかないほどの残虐な狂気の殺人が「オランウータン」によって行われ、『黒猫』では死の呪いを呼びこむ黒い「猫」が歩き、『黄金虫』では巨大な「コガネムシ」の背中に髑髏(どくろ)の模様が写っている。

 狂気、呪い、死(髑髏)。人間理性の全き外部としての「狂気」、人間悟性を支える因果の全き外部としての「呪い」、そして人間存在の全き外部としての「死」。ポーは、こうした人間を超えた存在の可能性を「動物」において描く。

 未知の存在たる動物に対して抱かれる不安は、詩人としてのポーにおいて極まる。彼の詩人としての評価を決定的にした「大鴉 The Raven」という詩は、ある肌寒い十二月の夜に部屋のドアを誰かがノックする場面から始まる。

"紫の絹のカーテンが さらさら悲しく揺れている かすかな音はふたしかで かつて覚えたことのない 異様な恐れが 胸を襲う
胸の高鳴りがやまなくて わたしはその場に立ったまま 落ち着くために何度もつぶやく
「きっと誰かが訪れて 部屋のドアを叩いている お客は夜中に遅れ来て 部屋に入れて欲しいのだ  ――そうきっと、ただそれだけのことなのだ(nothing more)」"  
―『大鴉』(拙訳)

 恐ろしい悪寒のなか、ドアを叩き暗闇から舞い降りたのは大きな黒い鴉(カラス)であった。私はこの大鴉に様々な言葉を発するが、不気味な鳥は何を聞いても「Nevermore」としか答えない。

 この詩において重要なのは、大鴉が「部屋の外」から到来するという点にある。大鴉は、自分の知覚や観察のおよぶ部屋=箱(意識)の「外部」から訪れる。姿も見えず「音」だけがその存在を暗示する。あらゆる問いかけは応えられず、「Nevermore」という一語(鳴き声)が、理解と認知の限界をつきつけるように繰り返し響き渡る。この一羽の鳥は、私を完全に拒否し、超越しているのだ。


黒猫と呼び声

 理解不可能性としての黒い獣。それは鴉だけではない。『黒猫』はとある奇妙な殺人事件を辿る短編小説だが、主人公は飼っていた黒猫「プルートー」(PLUTOはローマ神話の神。ギリシア神話においては冥界の国の神「ハーデス」)に、残酷な暴力を奮ってしまう。

 はじめのうちは、酒に酔ったり手を噛まれたりしたからと、黒猫を傷つける理由があるのだが、そのうち彼はとりたてた理由もなしにこの黒猫を傷つけ、ついには殺してしまう。いや、正確には理由があった。

"魂が魂自体の本質を痛めつけるという ―つまりは悪のためにのみ悪をなすという― この理解しがたい願望があったからこそ、わたしは罪もない動物にふるってきた暴虐をやめることなく、ますますエスカレートさせていったのである。"
―『黒猫』

 「悪のためにのみ悪をなす」。それが理由であった。この恐ろしい心をポーは「天邪鬼の心」と呼ぶ。

"この心(天邪鬼の心)に関する限り、哲学は何も説明してくれない。とはいえ、自分の魂が生きているのが確実だとするなら、天邪鬼こそは人間の心を司る最も原始的な衝動のひとつだと ―人間の人格を導く分割不可能な基礎能力ないし情緒のひとつだと― いうことも確実なのではあるまいか。"

 天邪鬼の心は「理解しがたい願望」でもある。これこそが、ポーの見た人間に深く突き刺す業である。倫理とは、善と悪を識別する行為ではない。善と悪の区別/判断を行う能力は、むしろ知性である。倫理の真なる問題は、善と悪を区別できたうえで、なぜ人間は善を選ばなければならないのか?という問いにある。ポーは問う。

"人間は、何かを「してはいけない」と熟知しているからこそ数限りなく最悪なる行動に出てしまうのではあるまいか?人間には、まさしく「破ってはいけない」とわかっているからこそ、いくら優れた判断能力の持ち主であったとしても、法律なるものを破ってしまう永続的な傾向があるのではないか?"

 私たちは、人工知能と人間の知性の問題からポーを読んできた。果たして、知性の彼方に深淵は存在するのか。たとえば知性が善と悪を区別したとき、そのどちらかを私たちに選ばせる力はどこに由来するのか?

 ポーが問うた「悪」は、単に禁忌ゆえに喚起される侵犯の欲望ではないように思う。理性では説明できない「天邪鬼の心」。意識の外側から訪れる「呼び声(Ruf)」。哲学者ハイデガーは、まさにこの人間(Dasein)にどこからか呼びかける存在開闢の契機を「良心の声(Stimme des Gewissens)」と名付けた。

 しかしポーを読む私たちは、それが「悪の声」でもあり得ることを知る。むしろ重要なのは、深淵から呼び声が聴こえるという事実そのものであり、その価値の決定不可能性こそが「深淵」と呼ばれるなにかではないだろうか。

"そう、何者かが吠えて、悲壮な金切り声をあげている、それは断末魔の悲鳴のようにも、勝利に酔いしれる歓喜の声のようにも聞こえる。"

 深淵から訪れる声は「悲鳴」でもあり「歓喜」でもある。ポーにおいてこの深淵は、動物に出会うことで開かれる。髑髏模様のコガネムシを見つけて狂人の如く振る舞う男、部屋の外から訪れる大鴉の前に言葉を失う男、黒猫に呪われて愛する妻さえ殺してしまう男。突如として訪れる恐怖と悪、そして根源的な不安を呼びこむのは動物である。

 私たちの意識の外側には、知性の及ばない深淵が闇を覆い、その決定不可能性の海からは呼び声が聴こえてくる。

 思い起こせばニーチェは「なぜわたしたちは真理ではなく、非真理を求めないのか?なぜ不確実を、なぜ無知を欲しないのか?」と問うていた。AIは真理を目指したとしても、あえて非真理を、不確実を、無知を目指すだろうか。あるいは逆に、AIに決定不可能な深淵からの、人間ならざる者の、呼び声を聴かせることができるだろうか。

 人間の知性も、あるいはその切実な歓喜や苦悩でさえも、もしかすると単純なパターンの組み合わせでしかないのかもしれない(たとえば「○×ゲーム」のように)。その薄っぺらな悲しみもまた一興ではあると私は考えている。しかしまた、他方でそれがどれだけ深淵のない表面的な乾いた知性や感情であったとしても、私たちはこれからも依然として喜び、苦悩し続けることに変わりはない。

 私たちは、いつもどこからか訪れる異様の声を聴く。いま、人間の知性と存在の、かけがえが問われている。

"しかし、ああ神よ、どうかわたしを魔王の毒牙から守りたまえ、救い出したまえ!...その響きはあまりに異様で人間ならざるもののようであった..."
―『黒猫』



【参考文献】
エドガー・アラン・ポー,『モルグ街の殺人・黄金虫』(新潮文庫)
エドガー・アラン・ポー,『黒猫・アッシャー家の崩壊』(新潮文庫)
エドガー・アラン・ポー,『ポー詩集』(岩波文庫)

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下西風澄(しもにし・かぜと)

1986年生まれ。東京大学大学院iii博士課程在学。ESMOD JAPON非常勤講師。専門は科学哲学。主にシステム論/現象学アプローチから生命や意識を探る哲学研究。 「むき出しの知性」(『建築雑誌』2013年9月号)、「色彩のゲーテ」(『ちくま』2014年8月号)など。

http://kazeto.jp

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