文学のなかの生命

第10回 さざ波の心 ――西行法師と二つの心

2016.08.22更新

 ときどき、数年前に見たとある光景を思い出すことがある。東京のある駅のロータリーを歩いていた夕べ。濃いオレンジと灰色が混ざったような夕暮れどきだった。

 古本買に立ち寄った帰り、ふと空を見上げると、何百にもおよぶムクドリの群れが、僕の頭上を夕暮れに向かっていっせいに飛び立った。鳥の群れはつきつ離れつ、まるで一匹の巨大な生き物のように飛んでいった。唐突に現れた一群の鳥たちの飛行の軌跡に、胸がざわついたことを覚えている。

 それからしばらくして、平安末期に活躍した異端の歌人・西行法師の歌を読んだとき、僕はこのときの風景を思い浮かべた。1000年以上の時を経て、町並みや風景もまるで違う。しかし、この歌を詠んだ西行に生じた心象風景は、僕の見た風景と変わらなかったのではないだろうか。


西行の風景

 心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ  ―西行

 私はもう心を捨てたと思っていた。喜び、悲しみ、希望、憂い。心のおかげで私は多くの喜びを知ることができた。しかしまた同時に、心は時に煩わしく、心のせいでいったいどれほど私は迷い、苦しんだことだろう。

 私はこの「心」というものに別れを告げようと思って旅立った。そうしていつしか私は、この心を心のままに、ただなすがままにすることを覚えた。まるで水の流れるが如く、風の吹くが如く、花の揺れるが如く。私はついに心に惑わされることなく、自然そのままに生きられるようになった。たしかに私はそう思っていた。

 しかし、ある日の秋の夕暮れ。独り寂しく山径を歩いていると、全景に広がる草原に、ちょろちょろと流れる一筋の細い川(沢)があった。沢にふと目をやり、水の音に耳を澄ましていると、夕闇の空に向かっていっせいに鴫(しぎ)が飛び立った。その瞬間、もうとうに心を忘れていたと思っていた私の胸が、ざわっと動いたのだ。私の身体はそれに否応なく反応してしまった。嗚呼、心なき私の身にもまだ、ざわめくさざ波のような心(あはれ)があったのだ!

 西行がこの一句を詠んだとき、こんな心象風景が立ち上がったのではないだろうか。僕はこの歌を読んだとき、一挙にこうした光景が目に浮かんだ。『新古今和歌集』に収められたこの名句には数々の解釈や読解が存在する。たとえば「心なき」という一節は、西行の出家の心を表すものとみなされることも多い。二十三歳で妻子を縁側から突き落として発心した逸話を持つ西行である。俗世との決別に悩んだ生涯にその解釈はふさわしい。

 しかし、僕がとりわけこの歌に感じ入った点は、次のようなところにある。西行はこの歌で「こころ」と「あはれ」を区別しているのだ。この一句に詠われているのは、私の「身」に「こころ」はないが、「あはれ」はあったという発見の告白である。さて「あはれ」とは何だろうか。日本人の耳にはよく聞き慣れたこの心情の意味を、いまいちど考えてみたい。


本居宣長とカント

 本居宣長が『玉勝間』を書いたとき(1793年)、ほぼ同時期に西洋ではカントが『純粋理性批判』(1781年)を書いている。奇しくも同時代に生まれ、洋の東西を隔てた二人の偉大な哲学者は、まったく異なる二つの「心のモデル」を考えた。あえて図式的に対比すれば、宣長にとって心は物に触れて感じる「動き」であり、カントにとって心は理性によって世界を把握する「形式」である。

 カントは『純粋理性批判』で「認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従う」と告発した。私たちの認識は、単に対象に触発されて生じるのではない。むしろ対象は私たちの認識能力が有するある枠組みのなかで現れる。認識の枠組みとは概念の形成能力であり、この認識の積極的な能力は「悟性 Verstand」と名づけられた。私たちはこの悟性という概念形成能力のおかげで、世界を混沌として曖昧なものではなく、あるまとまりをもった秩序ある世界として認識することができる。

 意識はさまざまな対象を思惟する。机上のコップを見る、昔の恋人を思い出す、宇宙の起源について考える。こうしたさまざまな経験は、それがいかなるものであれ、すべて「私が―考える」という枠内(形式)において思惟される。私たちの経験はすべてこの「私」という箱の中で行われる。カントはこの純粋な「形式」としての「私(自我)」を「超越論的統覚」と呼んだ。

 それぞれ多様で、バラバラで、個別的な経験が可能なのは、それらをひとつの枠内において経験させ得る純粋な形式としての自我(意識)があるためである。心はそれ自体では対象を経験することができない。対象が経験され得るためには、経験する心に対して、その上位階層にア・プリオリ(先天的)な、もうひとつの「形式」(経験の受け皿)としての心がなければならないのである。

 他方、本居宣長は『石上私淑言』(宝暦十三年)で「一松あはれ、旅人あはれ、あはれ其鳥などやうに、其物々にふれて心の感(うご)く時に、其あはれと歎ずる」と言った。一本の松、行き去る旅人、空を舞う鳥、それぞれの物に触れた時、心が動く、感ずる。それが宣長の「あはれ」である。「あはれ」とは「あぁ」という嘆息であり、曰く「物に感ずるが、即ち物のあはれをしる也」である。

 宣長は、冒頭に紹介した西行の一句を題材にこう語っている。

「めでたき花を見、さやかなる月にむかひて、あはれと情(こころ)の感(うご)く、即ち是物のあはれをしるなり。...うれしかるべき事はうれしく、おかしかるべき事はおかしく、かなしかるべき事はかなしく、こひしかるべき事はこひしく、それぞれに情の感くが物のあはれをしる也」

 そして宣長はこう結論づける。「されば物のあはれをしるを心ある人といひ、しらぬを心なき人といふなり」。

 ここで「心なき身にもあはれは知られけり」という西行の歌を見てみると、おもしろいことに気がつく。宣長は「(あはれを)しらぬ人」を「心なき人」と言っている。しかし、西行は「心なき」人であるにも関わらず、「あはれは知られけり」と言っているのである。つまり、宣長の解釈にしたがえば、この歌は矛盾を孕んだ一句ということになる。

 この矛盾は、宣長が「心=あはれ」という構図で歌を捉えていることに起因する。しかし、西行はむしろ「心/あはれ」の区別をしたことでこの歌を成立させ、しかもそのことに革新性があったのではないか。『山家集』から次の有名な二つの句を見てみよう。

「まどひきて さとりうべくも なかりつる 心を知るは 心なりけり」
「こころから 心にものを思はせて 身を苦しむる わが身なりけり」

 「心を知る心」。あるいは「心」に物思いをさせる「こころ」。西行はこれらの歌において、心を「二重化」させている。いわば、わたしたちが体験する、個別的・経験的な「心」に対して、それを把握して制御するもうひとつの高次の「こころ」がここには描かれている。たしかにここには、単純なひとつの心を持つ人間観から幾分か発展した、新しい心のモデルがあるように思う。また、次の一句。

「さまさまに おもひみたるる 心をは 君かもとにそ つかねあつむる」

 ここでは「様々に思い乱れる心」という自分では制御不可能な経験的な心に対して、「あなたのもとへとその心を束ね集めよう」という、それを制御するもうひとつの心が表現されている。ここには、単に風景や自然に動かされるがままの「あはれ」の心のモデルではなく、どこかカント的な、心を観察し、統御する「心の枠組み」、あるいは心にある種の階層を認めるような、別の心のモデルが現れ始めている。

 この西行において提示された、二つの心(揺れ動く「あはれの心」/心を観察する形式をそなえた「階層化した心」)が同居しているという点に、西行の真の苦しみがあったのではないだろうか。


さざ波としての心

 本居宣長がいうように、心が「あはれ」であるならば、ただ松を見て、あるいは鳥を見て、心が動くだけであり「苦しむ」必要などない。西行はこの二重化し、分裂した「こころ/心」を切実に経験したはじめての人間かもしれない (※1)

「こころから 心にものを思はせて 身を苦しむる わが身なりけり」

 分裂した心(こころ/心)を宿す「身(み)=身体」が「苦しむ」のである。西行は単に現実の苛酷さに心を痛めて苦しんだのではない。現実に否応なく突き動かされる心(あはれ)と、それをなんとかしようと思う、しかし何もできないもうひとつの心との「ずれ」にこそ苦しんだのだ。

 西行の厭世は、たんなる個人的な悩みや人間関係の煩雑さではない。平安末期から鎌倉の動乱への移行期。優雅な貴族社会から過酷な乱世の武家社会への転換期。自身も武家の家に生まれて出家を決意した西行は、連日連夜、死にゆく人びとを眼差しながら、残酷なまでの憂き世を思ったに違いない。

「あしよしを 思ひわくこそ 苦しけれ ただあらるれば あられける身を」

 死屍累々の戦と政争の世に放り込まれ、善や悪を考えてしまうこの心の揺れこそが苦しい。吉野に咲く美しい花のように、ただ在ろうとして在れば救われるかもしれない、しかし決してそれが叶わぬこの世のなかで、いかに花や月、自然の風景が彼の心を動かし続けたか。そしてまた、その動かされる心を見つめるもうひとつの心の不能に慄いたか。一方では自分の意志とは無関係に動く豊かな心(あはれ)、また他方ではそれを冷静に観察しながら、しかし見つめることしかできないただの箱のような形式としての空虚な心。この二つの心の同居が、西行法師を苦しめた。

 彼の「身の苦しみ」は文字通り「心が裂ける」ものであったに違いない。しかし、西行はそれを歌い続けた。その原初の心の揺れを消去することなく、身を苦しませながらもあはれを受け入れて、またそれを冷静に観察する心をも捨てず、矛盾をその身に宿しながら、歌を歌い続けることによって生き抜いたのだ。

 心の揺れ、心のさざ波、それは心の原初である。それは善でも悪でもない、ただ純粋な「動き」そのものだ。善や悪の観念が生じる以前の心の原初には、ただたださざめく動きがある。さざ波としての心は、寄せては返し、繰り返す。

 幾度となく繰り返された小さな波は、折り重なってあるときは激流を生み、またあるときは凪を生むだろう。しかし、いつもそのはじまりの場所には、ただ揺れる小さなさざ波がざわめいている。

「波のおとを 心にかけて あかすかな 苫もる月の 影を友にて」

 さざ波の音が心を揺らし、心はそれをじっと聴く。曇った月の影が落ちる海で、私は朝まで波を聴く。

 生きていると、ときどきどうしようもなく胸がざわつく光景に出会うことがある。僕はそんなとき、西行の歌を思い出しながら、さざ波のように揺れる心をただじっと見つめるのだ。

【参考文献】
西行,『山家集』(岩波文庫)
本居宣長,『石上私淑言』(岩波文庫)
カント,『純粋理性批判』(平凡社)

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(※1) 西行において「心」という言葉の使用法が変化していると幾人かの文学研究者は指摘している。唐木順三は『万葉集』では「見ゆ」など、身体器官による外的世界の知覚を基本に詩情を詠じる歌が多かったのに対し、『古今和歌集』『新古今和歌集』への移行期に「思ふ」など、内面的観察者からの視点が発生していて、その問題を自覚したのが西行であったと分析している(『日本人の心の歴史』)。また、吉本隆明は西行の「心」の使用において、それまでの仏教的・道徳的用法から、「比喩」のレベルへと転移させられることによって、外界の対象が心へと内在化していくプロセスを説明している(『西行論』)。

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下西風澄(しもにし・かぜと)

1986年生まれ。東京大学大学院iii博士課程在学。ESMOD JAPON非常勤講師。専門は科学哲学。主にシステム論/現象学アプローチから生命や意識を探る哲学研究。 「むき出しの知性」(『建築雑誌』2013年9月号)、「色彩のゲーテ」(『ちくま』2014年8月号)など。

http://kazeto.jp

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