実録! ブンヤ日誌

第10回 野人との2日間

2010.06.21更新

「そうだ、京都行こう」とひらめくのと同じ思考回路で「そうだ、岡野に会いに行こう」と思い立った。14日の午後のことだ。

「オランダ戦当日の紙面でなんかできねーか?」。デスクにお題を出された僕は、あれこれと思いを巡らせた末に提案した。「そういえば、岡野が一時期アヤックスの練習に参加していましたから『野人が占うオランダサッカー』的なカンジはどスかね? 元代表だし、ゴールデンゴーラーだし」。デスクは了承。取材が決定した。

調べてみると、37歳の岡野雅行はまだ現役選手だった。てっきり浦和レッズユースのコーチあたりに落ち着いているのかと思っていたが、JFL「ガイナーレ鳥取」のフォワードとして往年の快足を飛ばし、悲願のJ2昇格を目指しているという。

話はトントン拍子で進み、翌々日の午前8時には鳥取空港のロビーにいた。取材は午後1時だ。かき集めた資料にフムフムと目を通し、インタビューの策略を練る。そしていざ出陣、と席を立った時、ガイナーレの濱田広報から着信があった。

「申し訳ありませんっ! 岡野が風邪を引いたようでして、電話取材でお願いできないでしょうか!?」

・・・。まさかの宣告に言葉を失ったが、取材対象の体調ばかりはどうしようもない。とりあえず練習場に行って待つことにした。野人だけに驚異的回復を見せるかもしれない・・・と冗談抜きで期待したが、結局姿は見せなかった。

「せっかく東京からいらしていただいたのに・・・」と恐縮する濱田広報は優しい人で、僕を食事に誘ってくれた上に「良かったら砂丘に行きませんか?」と思いもよらない提案をしてくれた。

雲ひとつない快晴の下、人生で初めて砂丘を歩いた。何の因果だよ、と笑いたくもなったが、空と砂だけの幻想的な世界は傷ついた心(それほどでもないが・・・)を癒してくれた。ちょっと雰囲気を覗くだけと最初は思っていたが、僕も濱田広報もだんだんヤケになり、果ての海岸線まで完歩することにした。45度ほどの勾配がある大きな丘をゼエゼエと登り切り、青空を見上げて深呼吸した時、ふと思った。「このままじゃ帰れない」

1泊して翌日に再チャレンジすることにした。危険な選択だった。1泊2日にすれば、抱えまくった仕事はさらに遅れ、経費もかさむ。しかも岡野は「体のフシブシが痛い」と語るほどの状態で、1日待てば回復するという保証はどこにもなかった。後日、電話で話を聞いて写真も送ってもらう手筈も整っていたため、紙面としてはギリギリ成立する。なのに、もし2日間かけて会うことすらできなかったら・・・。

翌日、練習グラウンドに行くと、トレードマークだった長髪をバッサリ切った野人がいた。容体が回復したこともあるが、東京から来た取材者をそのまま帰すわけにはいかないと思ってくれたのだそうだ。


オランダについてのインタビューを終えると、やはりジョホールバルのことを聞いてみたくなった。97年11月、フランスW杯アジア最終予選第3代表決定戦は延長戦に突入。岡野の出番に国民が沸いた。

「もしW杯に行けなかったら、日本サッカー界はつぶれてました。こうしてる(W杯に沸いたり、ガイナーレというクラブが存在したりする)今もない。だからメチャクチャ怖かった。みんな胃薬飲んで、あの試合に臨んでましたよ。で、延長が始まる前、いきなり岡田さんに『オカノ、行くぞ』って言われて。それまで予選に1試合も出てなかったのに・・・。ピッチに立って初めて日の丸の重みを知って。これは戦争なんだと思いました。まるで夢の中みたいで。何やってるのかどうかもわからない。全部スローモーションなんスよ。ああ、人間って死ぬ時はこんな感じなんだろうな、って思いながらやってました。見てる人はいろいろ思ったかもしれないですけど、やってる方はホント地獄で」。

岡野は自慢の快足で再三の決定機をつくるが、全て失敗する。ゴール目の前でシュートを大きくふかしたり、キーパーと2対1の場面で中途半端な横パスを出したり。ピッチサイドの岡田監督も激怒していたが、日本列島の誰もが「岡野、打てよ!」と叫んだ。もちろん僕も。画面を通して見る岡野は、世界の終わりのような顔をしていた。表情は恐怖に怯え、不安に揺れている。僕は、あの時の岡野以上に「人間」をサッカープレイヤーに見たことはない。

転機は中田の言葉だった。

「ヒデがオレのユニホーム引っ張ってきてね、耳元で言うんですよ。『オレは出すよ、球。もう岡野しかいないんだから。大丈夫だよ。1点入れればチャラだから』って。それで少し落ち着けた」

そして岡野と日本サッカー界は黄金の瞬間を迎える。

「うれしいってのとは違うんですね。ただホッとしたってだけで。ようやくうれしさが沸いてきたのは2カ月後です。あれ以上の極限なんて人生にない。だから次の年のワールドカップでもカタくなるなんて全然なくて、楽しくってしょうがなかった。ああ、夢が叶ったんだって」

今でもジョホールバルの映像を見ると、震えが止まらなくなるという。

最後に現役にこだわる思いを聞いた。

「ホントは28ぐらいで辞めるつもりだったんですけど、少しずつ分かってきて楽しくなって。サッカーはオレにとって心臓のようなものだから。ボロボロになるまで闘いたいんですよ」

鼓動を続けていないと、生きていくことさえできない。失敗を続けてもゴールに食らいついた野人は、まだストライカーを続けている。

「若い頃よりはちょっとだけ遅くなったとは思いますけど、まだまだ走れますよ、オレ」

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北野新太(きたの・あらた)

1980年1月、石川県七尾市生まれ。
学習院大学法学部政治学科在籍中に雑誌「SWITCH」で雑誌編集を学び、卒業後の2002年に報知新聞社入社。以来、編集局勤務。担当遍歴は、日韓W杯—常総学院—柏レイソル—社会—映画—音楽—アテネ五輪—社会—読売巨人軍—和田アキ子 —NHK—社会(現所属)とムチャクチャ。猫背の完治が生涯の目標だが、巨人・原辰徳監督に「生き方が曲がってなければいいんだ!」とエールを送られたため、とりあえず先延ばし中。好きな言葉は「人間には、燃え尽きる人間と、そうでない人間と、いつか燃え尽きたいと望み続ける3つのタイプがあるのだ」

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