実録! ブンヤ日誌

第15回 ママを目指す涙

2010.09.06更新

8月25日、穏やかな午後だった。何も起きそうにない静かな一日ほど嫌な予感がするものだが、これでもかと言わんばかりに見事に的中してしまった。午後5時頃に舞い込んだニュースは「野田聖子元郵政相が体外受精で妊娠、50歳で出産へ」の一報。デスクは「カンベンしてよ~」と頭を抱えつつ、沈思黙考の末に「お前書け。1面かもしれん」と僕に指令を出した。

「まずは本記に何を盛り込めるか考えろ。あとは略歴に専門家の分析だろ? あ、そうだ、著名人の高齢出産表もつけよう。ジャガー横田あたりコメントくんねえかな?」。社会部の格闘は午前2時まで続いた。略歴と表が製作され、ジャガー横田の携帯に直電を掛け、体外受精の解説記事が書かれた。僕は原稿を3度、4度と差し替えながら、日本で初めて体外受精手術に成功させた89歳の老医師に談話を取り、1面をつくっていった。

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5年前、ジャイアンツの担当になる直前、野田の番記者を務めた時期がある。ちょうど郵政民営化法案に反対して「造反組」と呼ばれて自民党を離党していた頃だ。小泉純一郎首相が仕掛けた夏の郵政選挙で、刺客として送り込まれた新人の佐藤ゆかりと岐阜で対決した3週間、朝から晩まで汗びっしょりになりながら野田を追い掛けた。

選挙戦終盤の2005年9月3日、45歳の誕生日を迎えた野田にある質問をした。長年、子供を持つことを夢として語り、不妊治療を続けていた彼女が前年出版した著書「私は、産みたい」の中で「出産は45歳までがひとつの区切りになると思う」という趣旨のことを書いていたため、区切りの当日に胸の内を聞いておこうと思ったのだ。「まだ頑張る」と言えば「聖子 45歳でも妊娠目指す」という記事を書くことができるし「もう諦めた」と言えば「聖子 妊娠断念」という見出しを打てるという打算があったからだ。

夜、最後の演説会場の駐車場で待ち伏せ、単刀直入に聞いた。

「野田先生、かねてより45歳の誕生日を妊娠のボーダーラインとされていましたが、実際に迎えた今の心境はどんなものなのでしょうか」

すると、選挙用スマイルを浮かべていた野田の顔から表情という表情が消え失せた。そしてポツリともらした。

「あんたもずいぶん残酷なこと聞くのね・・・」

彼女は泣いていた。目尻にたまった涙を拭きながら言葉を探していた。

「でも、そうねえ、まだ走れるし元気だし、限界までチャレンジしていきたいの」

本音というよりは、諦めようとする自分から必死に逃れようとしているように聞こえた。

うまい相槌も思いつかないまま、僕は車に乗り込む野田を見送った。

8日後、野田は勝った。当選の挨拶の直後、お祭り騒ぎの支援者が渦巻く選対事務所の中で僕を見つけると「約束だったもんね」と駆け寄り、新聞に掲載するための直筆の色紙を書いてくれた。力強い筆使いで大きく「感謝」と書かれていた。

5年後の2010年9月3日。パートナーが変わっても、卵子の提供を受けるために米国に行ってでも、そして50歳になっても母親への夢を捨てなかった野田は、誕生日に開いた政治資金パーティーの壇上で妊娠を報告した。「新しい命を授かりました。ただ、私の生き様を多くの皆さんに真似てもらいたいとは思いません。私もできれば20代くらいに良い出会いがあって、自然に子供を授かれれば良かったのですが、大きな仕事を任されていたため、女性としては残念なことに普通のことができませんでした。だからこそ今は、どんな子でも自分たちの子だと。皆様のお役に立てる野田聖子2世をつくっていかなくてはならんなと思っています」

今後ゆっくり話す機会があれば、僕なりに伝えようと思う。実際に子どもを持つことが人生にもたらす喜びについて。そして「元気な赤ちゃん産んで下さい」と単純にエールを送りたい。今度は泣き顔ではなく、笑顔で「ありがとう」と言ってくれるだろうか。50歳のママが抱く赤ちゃんを僕は楽しみにしている。

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北野新太(きたの・あらた)

1980年1月、石川県七尾市生まれ。
学習院大学法学部政治学科在籍中に雑誌「SWITCH」で雑誌編集を学び、卒業後の2002年に報知新聞社入社。以来、編集局勤務。担当遍歴は、日韓W杯—常総学院—柏レイソル—社会—映画—音楽—アテネ五輪—社会—読売巨人軍—和田アキ子 —NHK—社会(現所属)とムチャクチャ。猫背の完治が生涯の目標だが、巨人・原辰徳監督に「生き方が曲がってなければいいんだ!」とエールを送られたため、とりあえず先延ばし中。好きな言葉は「人間には、燃え尽きる人間と、そうでない人間と、いつか燃え尽きたいと望み続ける3つのタイプがあるのだ」

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