実録! ブンヤ日誌

第17回 初めの一歩

2010.10.18更新

「あー、オレちょっとヤワラの原稿がデカくなったから、福見はお前が書いてくれ」

2002年4月14日の夕暮れ。報道各社のスタッフでごった返した横浜文化体育館のプレスルームで先輩記者に告げられた瞬間、僕の頭は真っ白になり、鼓動は急加速を始めた。「ハッ・・・ハイッ!」。記事を書くって、このボクが? 書き方なんてまだ誰にも教わってないぞ。どうしよう、どうしよう・・・アッ! 書いたものをどうやって会社に送ればいいんだろう!? えーと、えーと・・・ギエッ! もう締め切りは1時間後だ、とにかく書かなきゃ!

8年前。新聞記者になった僕の初仕事は、田村(現・谷)亮子が12連覇をかけて臨んだ柔道の全日本女子体重別選手権だった。4月1日に入社し、社内での研修を終えた後に配属された運動第2部(野球以外のスポーツを取材)で迎えた初日は、大会前日会見での先輩記者のサポートが任務だった。濃紺のスーツを着て地味なネクタイを締め、黒い革靴を履いて出掛けた当日。想像以上に小さかったことにビックリさせられたYAWARAちゃんに、社会人になって初めての名刺を渡した。「スポーツ報知」のロゴを見た彼女は、テレビで長年見てきたのと同じ笑顔を浮かべて「新人さんですか。頑張って下さいね」と言ってくれた。

翌日の試合本番。先輩からは「たいした原稿にはならんと思う。ま、試合見て現場の雰囲気ぐらいつかんでいってくれや」と言われていたが、異変が生じる。96年のアトランタ五輪決勝で敗れて以来、黒星がなかった田村が初戦で16歳の高校生・福見友子に敗れる大波乱があったのだ。国内では12年ぶりの負けだ。最終面で大きく扱うことになってテンテコ舞いになった先輩に、対戦相手の記事を頼まれることになった。

僕は、とにもかくにも「記事ってたしかこんな感じで載ってるよな」的なイメージでパタパタと記事をパソコンに打ち始めた。

「48キロ級に新時代が到来した。16歳の高校チャンピオン福見が、無敵を誇る田村を破った。『前に出る大きな柔道をします』の宣言通り、1分38秒に大内刈りで効果を奪い、そのまま田村に何もさせなかった。王者を恐れない堂々とした柔道だった。だが、準決勝ではベテラン真壁に横四方固めで抑えられ一本負け。『気を抜かないでいこうと思ったけど、甘さがありました』と悔しさをのぞかせた。
 まだ風ぼうに幼さを残し、昨年のアジアジュニア選手権、全日本ジュニアを制したホープ。今年2月のオーストラリア国際は準優勝した。これで『ポスト田村』の地位を手に入れた未完の大器は『オリンピックで優勝することが目標です』と未来を見据えていた。」

たった30行の、なんということもない平凡な記事。個性もなければ味もない。だが、書いている本人は無我夢中だった。先輩のチェックを受けて送信。会社に戻ると、ゲラに載った記事は一文字も直されておらず、末尾には「(北野 新太)」と加えられていた。デスクには「おいおい、もう署名原稿かよ。生意気だな」と笑って言われた。「ありがとうございます!」。想像していたよりもずっと早く訪れた「初めの一歩」に僕は高揚していた。会社を出る時に何人かの同期と会い、ファミレスでパフェを食べながら「一番乗りじゃん。先越されちゃったな」と言われた。幸福な気分だった。実家には「明日、オレの記事が出るよ」と電話した。喜んでくれた。

思えば、あの8年前の敗戦から柔道家として少しずつ坂を下ってきた谷亮子は、15日に現役引退を発表した。テレビで記者会見を眺めると、YAWARAちゃんはあの日の新人記者に対して見せたものとまったく同じ笑顔を浮かべていた。ふと僕は思った。今度は僕が見届ける番なのではないだろうかと。柔道着と決別し、議員バッジ付きのスーツ姿で歩み始めた彼女が刻む「初めの一歩」を。

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北野新太(きたの・あらた)

1980年1月、石川県七尾市生まれ。
学習院大学法学部政治学科在籍中に雑誌「SWITCH」で雑誌編集を学び、卒業後の2002年に報知新聞社入社。以来、編集局勤務。担当遍歴は、日韓W杯—常総学院—柏レイソル—社会—映画—音楽—アテネ五輪—社会—読売巨人軍—和田アキ子 —NHK—社会(現所属)とムチャクチャ。猫背の完治が生涯の目標だが、巨人・原辰徳監督に「生き方が曲がってなければいいんだ!」とエールを送られたため、とりあえず先延ばし中。好きな言葉は「人間には、燃え尽きる人間と、そうでない人間と、いつか燃え尽きたいと望み続ける3つのタイプがあるのだ」

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