実録! ブンヤ日誌

第26回 被災地を巡って

2011.04.04更新

先月末までの11日間、東日本大震災の被災地を車で巡りました。距離にして2540キロメートル。南三陸町、大船渡市、陸前高田市、気仙沼市、釜石市、石巻市、山元町・・・。とても長い旅でした。当初、本コラムでは被災地で見聞きしたこと、感じたことをクロニクル調に綴っていこうと思っていたのですが、まだ、あらゆることを冷静に整理して考えることができません。少しずつ自分が思ったこと、思っていることを書いていければと思います。

まず「今、(被災していない)我々に何ができるのか」という命題についてです。ボランティアとして現地の力になること、募金すること、節電することもいいでしょう。でも、テレビCMと同じようなことを言うつもりはありません。僕が何より伝えたいのは「被災地を恐れない」という大前提です。今、我々は「南三陸町」「陸前高田市」といった文字を報道で目にした時、まるでそれらが恐ろしい場所であるかのように感じる風潮に陥ってはいないでしょうか。少なくとも現地に入る前の僕は、記事を書きながら、そんな思いを、それらの地名に対して抱いていました。

たしかにマグニチュード9.0の揺れに襲われ、高さ30メートルにも及ぶ津波にのみ込まれた町です。見渡す限りガレキが広がっている町です。ただ、現在進行形では「恐ろしいこと」は何も継続されてはいないのです。

僕が「被災地に取材に行くよ」と告げると、多くの人が「生きて帰って来いよ」などと声を掛けてくれました。「今、石巻にいるよ」と言えば「大丈夫か、生きてるか?」。帰京すると「よくぞ生還した」と喜んでくれました。非常に有難かった。ただ、心配してくれるのはうれしいのですが、僕は何もノルマンディー上陸作戦に参加したわけではなく、カダフィ大佐のアジトに乗り込んだわけでもありません。たしかに、いつ崩落してしまうかもしれない建物や電信柱の横を5000回くらい通りましたし、いつ巨大な余震に襲われるとも限らない状況ではありました。東京の町を歩くよりは危険だったのかもしれません。それでも、現在の被災地は生命の危機にさらされるような場所ではないのです。

町には、震災を乗り越えようと歩み始めた住民たちの営みがあります。避難所の片隅でミルクを飲んで笑顔を見せる赤ちゃんや、安否不明となった父親との再会を心待ちにしている少年や、家族全員を失った現実と向き合いつつも、ある意味では朗らかな表情でおにぎりをほおばるおばあちゃんがいます。わずか数日前に猛り狂ったはずの海は、まるで何事もなかったかのように穏やかで、若干不謹慎かも知れませんが、遅い春の陽光にキラキラと輝いて美しくさえあります。

我々が「恐ろしい場所」という視線で被災地を眺めることは、復興への推進を阻害する行為であり、言い過ぎを覚悟で言えば、津波の恐怖に加担する行為とも言えます。誰だって、生まれ育ち、住み慣れた町を「恐怖の土地」とは思われたくないはずです。これは、福島県に対しても同じことが言えます。知らず知らずのうちに心のなかに巣食っている偏見を脱ぎ去ることから、すべては始まるような気がします。

僕は、被災地を恐ろしい場所とは思いません。また、被災者に対しても、常識的な感性を持ちあわせた人間なら、ついつい「恐ろしいことが起きてしまって、本当にかわいそうだ」と思ってしまいますが、僕は「かわいそう」と思うことをやめました。憐れみや同情ほど、相手に対して空転する感情はないからです。力強く生きようとする人々に「かわいそう」という視線を向けるべきではないのです。僕が当事者なら「ふざけんな!」と怒ると思います。

次回は被災地で見たこと、感じたことをもう少し具体的に書いていければと思います。

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北野新太(きたの・あらた)

1980年1月、石川県七尾市生まれ。
学習院大学法学部政治学科在籍中に雑誌「SWITCH」で雑誌編集を学び、卒業後の2002年に報知新聞社入社。以来、編集局勤務。担当遍歴は、日韓W杯—常総学院—柏レイソル—社会—映画—音楽—アテネ五輪—社会—読売巨人軍—和田アキ子 —NHK—社会(現所属)とムチャクチャ。猫背の完治が生涯の目標だが、巨人・原辰徳監督に「生き方が曲がってなければいいんだ!」とエールを送られたため、とりあえず先延ばし中。好きな言葉は「人間には、燃え尽きる人間と、そうでない人間と、いつか燃え尽きたいと望み続ける3つのタイプがあるのだ」

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