実録! ブンヤ日誌

第28回 被災地を巡って 3

2011.05.16更新

畠山美由紀という歌手を知っていますか?
決してヒットチャートを賑わす存在ではないけれど、とてもクリアで気品のある歌声を持ったヴォーカリストです。ライブのチケットはすぐに完売します。よく我が家の居間のBGMにもなる彼女が生まれ育ったのは、震災で壊滅的な被害を受け、死者・行方不明者が約2000人に上る宮城県気仙沼市でした。

第30回ブンヤ日誌

震災発生から約10日後。気仙沼に入った僕は、ふと畠山の実家に行ってみようと思いました。数日前に家族の安否は確認されていたのですが、実際に会って話を聞いてみたいと思ったのです。もちろんアポイントなどは取っていません。でも行っちゃう。我々稼業の思考回路は基本的に身勝手で失礼極まりないものでして「事前に連絡すると拒否される。行っちゃえばなんとかなるかも」的に考えてしまうのですね。今回も結果的にはアポなし作戦が奏功しました。

信号機からデパートまで、あらゆる建造物が倒壊し、路上の一帯が汚泥にまみれた沿岸部を抜け、少し高台に上がった住宅街に畠山家はありました。ピンポンするとお父さんが出てこられたので、これこれこーゆー意図で東京から取材に参りました、とお伝えしたところ、家のなかに招いてくださいました。

自衛官と消防官の経歴を持つ父・幸夫さん(63)は「悔しいです。生きていることが申し訳ない」と仰いました。僕が「美由紀さんが毎日のようにブログで『安否が分からない』と心配されていましたね」と言うと「えっ!! ホントですか!?」と驚かれました。固定電話も携帯電話もつながらず、連絡を取れなくなっていたばかりか、インターネットも不通で、家族の身を案じる娘の不安を感じ取ることすらできていなかったのです。そこで、僕のパソコンでブログを読むことに。震災後、はじめて触れる我が子の想いに、お父さんはしばし言葉を失っていました。

時間はお昼過ぎ。気がつくと祖母・みさをさん(86)が煮物を運んできてくれました。食料不足の渦中にもかかわらず、来訪者のためにわざわざ用意してくれたのです。皮に泥の色が残った人参は、とても優しい味がしました。

実家のリビングには歌手を目指した10代の頃の写真がたくさん並んでいました。「私、東京で歌手になる」。夢を語る少女に対して、家族は猛反対を続けたそうです。「お前、何を言うとるか」「無理に決まっとる」。それでも、畠山は夢を見続けた。「30歳になっても芽が出なかったら気仙沼に帰るから」

別れ際に「美由紀には、気仙沼の被災者のために歌ってほしいです」と語った幸夫さんの願いに応えるように、震災後の畠山は復興チャリティーライブを繰り返し開き、今月9日からは気仙沼に戻って各地の避難所で歌を披露したそうです。

38歳になったヴォーカリストは、今も歌っています。彼女にしか響かせることのできない唯一無二の歌を。被災地の子どもたちにも、小さい頃に抱いた夢を失わずにいてほしいと思います。

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北野新太(きたの・あらた)

1980年1月、石川県七尾市生まれ。
学習院大学法学部政治学科在籍中に雑誌「SWITCH」で雑誌編集を学び、卒業後の2002年に報知新聞社入社。以来、編集局勤務。担当遍歴は、日韓W杯—常総学院—柏レイソル—社会—映画—音楽—アテネ五輪—社会—読売巨人軍—和田アキ子 —NHK—社会(現所属)とムチャクチャ。猫背の完治が生涯の目標だが、巨人・原辰徳監督に「生き方が曲がってなければいいんだ!」とエールを送られたため、とりあえず先延ばし中。好きな言葉は「人間には、燃え尽きる人間と、そうでない人間と、いつか燃え尽きたいと望み続ける3つのタイプがあるのだ」

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