実録! ブンヤ日誌

第31回 作家との再会

2011.07.04更新

はじめて会った時、正確に言えばはじめて見た時、彼女は泣いていた。2005年1月、東京・有楽町の東京会館。第132回直木賞の受賞記者会見で、角田光代は泣いていた。幼い頃から志した世界の最高峰に立った喜びと、前年に病気で亡くした母に喜びを伝えられないことへの悲しみで泣いていた。


<2005年1月14日付記事>
ずっと笑顔だった角田さんの声が突然、涙まじりになった。「受賞した時にいちばん最初に電話したかったのが母で・・・。受賞を聞いて『あっ、いないんだ』って。それがさみしくて、くやしくて・・・。どうして、もう少し頑張ってくれなかったのよって・・・」。昨年11月29日に亡くなった母・和子さん(享年70歳)の記憶がよぎり、涙がとめどなく頬を伝った。
 母の言葉が思い出された。高校3年の時、父を亡くして以降、原稿用紙と格闘し続ける角田さんを温かな視線で見つめ続けた和子さんの口癖は「いつ就職するの」だった。しかし、2年前に「空中庭園」が直木賞候補になったころから、何も言わなくなった。だからこそ最高の栄誉は誰より先に報告したかった。
 「ものすごく、いろんなことがありすぎた」(角田さん)後の受賞だけに実感がわかなかった。和子さんが亡くなる、わずか3週間前に刊行された受賞作「対岸の彼女」。「勝ち組」の主婦と未婚の「負け犬」女社長。立場の違う30代女性2人の交流を、人間の内面を掘り下げる確かな筆致でつづった。
 「空中庭園」でも、審査員から高い評価を得たが、決選投票の末、過半数に達せず落選。93年から94年にかけ、3回連続で選出された芥川賞候補作も、ことごとく受賞を逸した。あと一歩で栄冠を逃すケースが続いたため、今回はゲンを担いだ。落選は決まって大勢で酒を飲んでいる時に知らされた。今回は「少人数でしらふで待って」(角田さん)、見事受賞した。
 早大卒業後、23歳で鮮烈なデビューを飾って以来、自身の生活を投影した「フリーター文学」と呼ばれる独自の作風を確立。フリーター、バックパッカーなど、自分の居場所を探し続ける20代女性を巧みに描き出した作品群は、多くの女性の共感を呼んでいる。
 小学1年生の時に小説を書き始めた作家の外見には、まだあどけなさが残る。「これからも世代や時代を書いていきたい」。新たに誕生した女流文学の新しい旗手。作家活動15年目の栄冠は天国の母にささげる贈り物になった。(北野新太)

2日後、仕事場の彼女を訪ねた。受賞作について聞き、日常について聞き、涙の理由を聞いた。

<2005年1月24日付記事>
 仕事部屋は花束で埋め尽くされていた。どの束にも「祝!直木賞」の札。赤、黄と色鮮やかに揺れる花が部屋の主人の快挙を祝福していた。
 「実感がない」と語った涙の受賞会見から取材当日で4日が経過していた。しかし、角田さんは「実感は日に日になくなっています」と明かした。大家から「本買ったよ」などと言われると、余計に絵空事に思えるらしい。
 増刷も始まったが「私の本はずーっと初版(だけ)だったんです。最低部数3500部ですよ。だから重版しますって聞いても『余っても知りませんよ』って」
 念願の受賞作となった「対岸の彼女」は「年齢を重ねると、結婚してるか、子供はいるかって女同士で区分けして、ランク付けするのはなんでだろう」と、日ごろ抱いていた違和感から発想し、書き始めた。
 初めて全体を5回も書き直して完成させると、新しいものが見えた。「人と人が出会うこと、かかわることには意味があると信じたい、と思うようになった。自分にも、希望のある物語は書けるんじゃないかって。壊すのじゃなくて、自分が信じたいものを作っていくような小説を」。これまで一貫して人間関係のゆがみ、あいまいさ、あやうさを描いてきた末に到達した作品は、作家としての転換点になった。
 小学1年の時から作家を志し、小説を書き始めた。他の人生はあり得なかった。「なれなくても『絶対作家になるんだ』って、40、50、60歳までアルバイトを続けたと思います」。90年に23歳で鮮烈デビュー。居場所を求めて漂流する女性を描く「フリーター文学」という独特の作品世界で、多くの読者を獲得してきた。
 東京・杉並区の仕事場で週5日、午前7時30分から午後5時まで机に向かうのが日常。生活範囲は中央線沿線限定で「新宿が世界の果て」と言いながら、アジアを中心に世界を駆け回る紀行作家でもある。
 直木賞受賞を、だれより先に伝えたかった人がいる。受賞作刊行直後の11月29日、リンパ腫で亡くなった母・和子さん(享年70歳)だ。「『就職して、結婚して、子供を産んで』って言って、私が書くことに興味を持たなかった母でも、直木賞候補になった時は反応が違いました。だから喜んでほしかった。結局、母が喜んでくれることを何一つやってこなかったから」。少し寂しそうな表情を見せた角田さんは顔を上げ、穏やかに笑った。(北野新太)

それからしばらく、何かと取材を願い出たり、別の作家との食事に誘ったりした。いつも角田は優しく、穏やかだった。

2011年5月、東京・四谷の喫茶店。角田は取材の約束の時間より20分も前に「も、もしや・・・」とつぶやきながら背後から声を掛けてきた。以前と変わらない笑顔。5年ぶりの再会だった。

<2011年6月14日付記事>
 普通の喫茶店で普通のカフェオレをすすりながら、角田さんは笑う。「わたし、フツーなんです。フツーでしかないので、フツーのことを書くしかない。フツーであることが好きなんです」。ミリオンセラーを生み出す流行作家ながら、4度繰り返して強調するくらい、極々「普通の人」だ。

幼児誘拐を題材に、永作博美と井上真央が主演して、興収10億円を突破した映画「八日目の蝉」を見たのは約98万人。その中で「原作・角田光代」に興味を抱いた人に、本書「よなかの散歩」はオススメな一冊だ。作家の平凡な日常が「食」「人」「暮」「季」「旅」のテーマに分けてつづられ、明かされる。「人を描く以上、きっと小説の土台にも普通の生活がある。その部分が私は好きなんだろうなと思います。幼児を誘拐しても、逃げた先には暮らしがある。暮らしって、何て強いものなんだろうと・・・」
 日々のスケジュールは、まるで会社員だ。仕事は平日の午前9時から午後5時まで。あとは週に1度のボクシングジム通いとランニング。「今年の東京マラソンで、初めて42・195キロを走りました(タイムは4時間43分)。でも退屈で。4時間あればグアムにも行けるのに、なんで新宿からお台場まで走ってるんだろうって・・・」。何をやっても、普通の生活者の視点は変わらない。
 そんな「日常」を破壊した事件が、3月の東日本大震災だった。「今日が明日に続くとは限らないという断絶感、喪失感を、みんなが初めて味わった。言葉にすると軽いんですけど『壊れてしまうんだ』って初めて知った」。4月には、新聞に現地リポートを寄稿するため、被災地を訪ねた。「頑張ろうという言葉は、なんてむなしく響くんだろうと・・・。伝わらないどころか、怒りや悲しみを覚える人もいる。以前と同じ言葉は使えない。だから、新しい言葉で語らないといけない。小説家に何かができるとは思わないですけど」
 震災ばかりではない。実は、角田さんの身辺にも変化はあった。前回の本欄登場後の6年間で、結婚、離婚、再婚を経験した。「最初の結婚で失敗して『あっ、失敗するんだ。頑張らないと駄目になるんだ』って」。振り返った感想も「普通」だった。

5年もの月日は、人生に変化を与えるには十分な時間だ。角田は結婚し、離婚し、再婚した。「八日目の蝉」というベストセラーを生んで、流行作家としてのステップを上がった。僕でさえ、プロ野球の取材をするようになったり、しなくなったり、結婚したり、子供を持ったりした。インタビューの後、角田は言った。「私、今ちょっと忙しすぎて取材は受けないようにしているんです」。え、今受けていただいたじゃないですか、と言いそうになって思いとどまった。5年という月日が再会を実現させてくれた気がしたからだ。
別れ際、再び会う約束をした。今度は5年後と言わず、蝉の季節が終わる前に。

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北野新太(きたの・あらた)

1980年1月、石川県七尾市生まれ。
学習院大学法学部政治学科在籍中に雑誌「SWITCH」で雑誌編集を学び、卒業後の2002年に報知新聞社入社。以来、編集局勤務。担当遍歴は、日韓W杯—常総学院—柏レイソル—社会—映画—音楽—アテネ五輪—社会—読売巨人軍—和田アキ子 —NHK—社会(現所属)とムチャクチャ。猫背の完治が生涯の目標だが、巨人・原辰徳監督に「生き方が曲がってなければいいんだ!」とエールを送られたため、とりあえず先延ばし中。好きな言葉は「人間には、燃え尽きる人間と、そうでない人間と、いつか燃え尽きたいと望み続ける3つのタイプがあるのだ」

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