実録! ブンヤ日誌

第36回 4番打者の帰郷

2011.11.07更新

プロ野球はクライマックスシリーズが終わり、12日に日本シリーズの開幕を迎える。スタジアムが最も熱くなる秋は、一方で戦力外通告や引退、退団の季節でもある。熱狂の時期と並行することもあって、報道は実に密やかなものになる。今年も、ほとんど誰に知られることもなく李承燁(イ・スンヨプ)内野手がオリックスを退団し、古巣の韓国・三星ライオンズに復帰することになった。「スンちゃん」の愛称で知られる男は夢に敗れ、志半ばで日本を去り、選手としての花道を故郷に求めた。

巨人担当になった2006年、ロッテから移籍してきた李の番記者をキャップから指名された。韓国でシーズン記録の56本塁打を記録した大砲も来日後の2年間は振るわず、04年は打率2割4分15本塁打、05年は打率2割6分30本塁打と、主軸としては物足りない成績に終わって放出されていた。つまりは、プロ野球取材の経験のない僕に任せても大丈夫だろう、と判断されるような対象だったのだ。

ところが、である。オープン戦開幕と同時に李は狂ったように打ち始めた。開幕戦でも決勝アーチ。たちまち僕は、4番打者の取材を担うことになってしまった。報知新聞で巨人の4番の番記者を務めるのは、日本経済新聞の日銀総裁担当とか、はたまた新型iPhoneの開発責任者をスティーブ・ジョブズから命じられるアップル社員のようなものである。すさまじい重圧に日々襲われていた。

ネタで負けることは許されず、試合後の談話をひとつ取るのも、自分が全社を代表して聞いた。当時のチームは、原監督が「こんな弱いチームで野球をやったのは初めてだ」と嘆くほど低迷していただけに、李の孤軍奮闘ぶりは屹立した。母国では「日本でいうイチロー以上の存在」と言われる男である。韓国のメディアからは雑誌への執筆やら番組への出演依頼が相次いだ。移動中は韓国語の教則本を広げて勉強した。すると熱意が通じたのか、李本人も次第に心を開いてくれるようになり、遠征先では酒を一緒に飲むようにもなった。

そして打率3割2分3厘41本塁打108打点と、巨人軍史上最強の助っ人クロマティでも打てなかった数字を残してシーズンを終える頃、残留するかメジャー移籍かで去就が注目されるようになった。僕にとっては、他社に負ければすべてを失う大勝負だった。

生きた心地のしない毎日を送っていたある日、取材現場で李に「車に乗って下さい」と言われ、連れて行かれたのが麻布十番のスターバックスコーヒーだった。そして特大のアイスキャラメルマキアートをすすりながら2時間、去就のことだけでなく、野球のこと、家族のこと、生きることについて語り合った。そして忘れられない話を聞いた。

<06年10月16日付本紙より>
―思い出深い出来事は?

「(5月上旬の)私の打撃がダメだったころですが、甲子園での阪神戦の時に阿部(慎之助)ちゃんと試合前に『ご飯食べに行こう』と約束していたんです。でも、その日も(自分の打撃が)ひどかったから出掛けたくなくなり、阿部ちゃんに『申し訳ないけど、約束を守ることができない』と断ったんです。ホテルのご飯も食べに行けなくて、仕方なくホテルの近くでハンバーガーを買って部屋に戻った時、阿部ちゃんからのメッセージが書かれた紙が入っていたんです」

―どんな内容?

「韓国語で『あなたは読売巨人軍の4番打者なんです。悪い時も良い時も4番打者なんです。みんなを引っ張っていく選手だし、引っ張っていける選手だとみんな思っている。苦しい時も悔しい時も、うまくいかない時も1人だとは思わないで、みんなが前にいて、後ろにもいて支えてくれる。どんな時でも声を掛けてきて下さい。あなたはきっとできる』と書かれていました。阿部ちゃんが鄭(李の専属通訳)と一緒にご飯を食べながら韓国語を教わって、書いてくれたんです。仲間として、友達として、感謝の気持ちでいっぱいだった。その後、すぐに私は打てるようになりました。今でも、メッセージの紙は大切に持っています」

 取材日の翌日、阿部に李へのメッセージのことを聞いた。照れくさそうにはにかんだ慎之助は「実はあの後、スンさん(李)から日本語で書かれたメッセージの紙をもらったんだ。オレの野球ノートに張ってあるよ」と明かしてくれた。李も、同じように鄭専属通訳を通じて、阿部に感謝の気持ちを返信していたのだった。


それから2カ月後、故郷の韓国・大邱で待ち合わせて、4日間を共に過ごした。ある夜、一緒に舞台を観劇することに。舞台は当然だがオール韓国語。恋愛劇のようではあるが、何かと出演者が右に左にドタバタと走り回るだけでストーリーが想像できない。

第1幕が終わって会場に明かりがついた時、李の存在に誰かが気づいてしまった。「イ・スンヨ・・・?」「イ・スンヨプ」「李承燁!」。みるみるうちに数千人が騒ぎ出し、僕らの席の方を見つめている。そして
「来年も頼むぞ!」「お前は俺たちの誇りだ!」的なことを叫んでいる。
舞台ではたいして盛り上がっていなかった客席が李によって初めて沸き立つ事態に。国民的英雄が立ち上がり、右手を上げて応えると「オー!!!」という歓声が巻き起こり、どよめきは第2幕が始まって後も続いた。

あの翌年、怪我に苦しみながらも終盤で打棒を爆発させ優勝に貢献する。しかし、僕が担当を外れた翌08年からは急降下。ホームランがシーズン10本に届かないほど低迷し、4番どころか試合にも出なくなった。高額の長期契約を結んでいたため「給料泥棒」とも揶揄された。今シーズンは環境を変えてオリックスに移籍したが、やはりダメだった。そして敗れたまま帰国することを選んだ。

夢だったメジャーでプレーすることはおそらくないだろう。あの舞台の夜のように、韓国国民が熱い視線を注ぐこともないだろう。今、あの時と同じ大邱の空の下で彼は何を思っているのだろう。熱に浮かされながら疾走したようなあの頃を、思い出すこともあるのだろうか。

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北野新太(きたの・あらた)

1980年1月、石川県七尾市生まれ。
学習院大学法学部政治学科在籍中に雑誌「SWITCH」で雑誌編集を学び、卒業後の2002年に報知新聞社入社。以来、編集局勤務。担当遍歴は、日韓W杯—常総学院—柏レイソル—社会—映画—音楽—アテネ五輪—社会—読売巨人軍—和田アキ子 —NHK—社会(現所属)とムチャクチャ。猫背の完治が生涯の目標だが、巨人・原辰徳監督に「生き方が曲がってなければいいんだ!」とエールを送られたため、とりあえず先延ばし中。好きな言葉は「人間には、燃え尽きる人間と、そうでない人間と、いつか燃え尽きたいと望み続ける3つのタイプがあるのだ」

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