実録! ブンヤ日誌

第43回 さだ先輩からの電話

2012.03.09更新

幼い頃から、さだまさしの音楽に親しんできました。むろん自然発生的なものではなく親の影響です。ご多分にもれず「北の国から」が大好きでしたから(今でも好きですが)、まあ最初は「アーアーアアアアアーアー♪」のおっさんという印象ですね。

中学でいっとき下火となったさだ熱は、高校に入って再燃します。なんと、OBにさだがいたのです。近しく感じていた彼の楽曲がいっそう身近なものになったような気がしました。音楽を幅広く聴き始めた時期でもありましたから、いかにさだの歌がワン&オンリーなものであるかと気づいた部分もあったように思います。クラスメイトに同意は得られま・・・得ようともしませんでしたが。

ある時、曲を聴きながら不覚にも落涙してしまったことがありました。音楽を聴いて涙する、というのは初めての経験でしたから我が事ながら衝撃でした。妹が誕生してから結婚していくまでの一家の年月を兄の視点から語っていく「親父の一番長い日」(1979年)という12分30秒もある曲の、とある一節に、なぜだかグッときてしまったのです。

「赤いランドセル背負ってか背負われてか 学校への坂道を足元ふらふら降りていく 一枚のスナップが今も胸に残っている 兄貴として」

時は流れて社会人に。2003年の年末、入社2年目の芸能担当だった僕は、紅白歌合戦のリハーサルで、さだと初めて対面します。NHKホールの楽屋口通路に彼が姿を見せた時、僕は吸い寄せられるように近寄っていました。意気込みなんかを聞いた後、厚かましくも言いました。「さださん、僕、後輩なんです」。すると、さだは「エー、ホントー!」などと言いながら満面の笑みで握手を求めてきました。そして「ちょっと話しようよ」などと楽屋まで誘い込まれ、高校トークで盛り上がりました。

さだが卒業する時の若き担任が、定年前に僕の担任にもなっていたことも発覚。まるで彼の歌みたいな話です。翌日も、大晦日の本番も、会う度にさだは「やあやあ」なんて言って肩を抱いてくれました。実にうれしいものです。

それからというもの。コンサートに誘ってもらったり、さだが小説家として新刊を出せばインタビューをしたりするような、ささやかな間柄が生まれました。

<2005年3月の紙面より>
 シンガーソングライター・さだまさしさん(52)の最新小説「眉山(びざん)」(幻冬舎刊、1400円)が前作・前々作に続くベストセラーとなり、話題を呼んでいる。すっかり「流行作家」の顔も持つ人気歌手は「思いを誰かに伝えるのに、僕にはずっと歌しかなかった。でも今は小説がある。歌から小説が生まれて、小説を書きながら歌も生まれるんです」。今後も「2人のさだまさし」で物語を語っていく。(北野新太)

◆ ページをめくると、母について歌った曲「無縁坂」「秋桜」が行間に流れていることに気付く。「やっぱり下敷きは歌。結局、僕にとっての『母』のイメージは、ずっと一緒なのかもしれないね」。照れながら、さださんは言った。
 全身をがんにむしばまれて死に直面する母・龍子と、故郷に帰って母を介護する娘・咲子の物語。阿波おどりに沸く初夏の徳島を舞台に、咲子の恋、龍子の恋を絡めて「命」を描く。「暗いテーマだからこそ楽しいものを書いた。つらいことを受け入れなきゃいけない人生でも、人は孤独じゃない、一人じゃないって」。闇に差す一瞬の光のようなクライマックスが、物語をまぶしく彩っている。

 過去2作「精霊流し」「解夏」で故郷・長崎を描いたさださんに、あえて徳島を書かせたのは30年前の記憶。1974年、「ザ・ピーナッツ」のツアーに帯同し初めて徳島を訪れた時、海・山・川、人々に魅了された。「ロープウエーで登った眉山から見える街の風景の美しさが、どこか残ってたんだね」。昨年末、睡眠時間を削り、大好きなゴルフを我慢して、徳島在住の友人から阿波弁の指導を受け、書き上げた。象徴として映える「眉山」がタイトルになった。

 世に送り出した3冊すべてがベストセラーになっても兼業作家は控えめだ。「まだ小説と言えるような領域じゃないです。自分の筆力が追いついてくれば、やがては小説になるでしょう」。一方で、小説を書くことで得るものの大きさも感じている。「ずっと『さだまさし』を名乗って歌うことの足かせがあったけど、小説はなーんでもいい。書くことはものすごく楽しい。こぼれ落ちたフレーズは歌にもなるしね」
 楽屋での取材を終えた「作家・さだまさし」は2時間後、ステージ上で聴衆から拍手を浴びる「歌手・さだまさし」に変わっていた。通算3286回目の公演。軽快なトークに続くのは、デビュー以来変わらない叙情豊かな高音ボーカル。歌う歌は、いつか小説になるかもしれない物語にあふれていた。


ここ数年は会うタイミングを逸していたのですが、思わぬところで再びの縁がありました。今月11日に東日本大震災の発生から一年を迎えるにあたり、石巻市で取材をしていたら、自ら被災しながら被災者支援活動を行っている男性から「さだまさしさんからご支援を頂いているんです」と聞いたのです。さだはテレビの収録で偶然訪れた避難所の方々に対して、密かに支援を続けていたのです。時折「何か困ってない?」との電話がくるとのことでした。

記事にすべく、さだに連絡を取ると、日曜日の昼下がりに電話がありました。「いやいやごぶさたー。石巻行ったのー?」。明るい声は、会っていなかった時間を一瞬にして消し去ってくれました。いろいろと震災についての話を聞いた後、別れ際に彼は優しく言います。

「ホントは会って話せたら良かったね。またコンサート来てね」

電話で思い出しました。1980年、さだと倉本聰はこんな電話を交わしたらしいです。実に素敵な挿話です。

倉「まさし、いまオレ、北海道を舞台にしたドラマ書いてンだ」

さ「へ~。先生、いま北海道ですもんね」

倉「ひいては、まさし、音楽つくってくれ。主題歌も」

さ「えっ。ありがとうございます。で、どんなドラマなんですか」

倉「小さな兄妹と父親の物語だ。場所は富良野」

さ「富良野ですか」

倉「そう。どうかな」

さ「北海道ですからね。雄大な自然をやはり・・・そうですね・・・アーアーアアアアアーアー♪アアーアアアアアー♪ みたいなイメージでしょうか」

倉「・・・ま、まさし、それだよ、それ!」

さ「へ?」

倉「今のいいよ!」

さ「ホントですか。じゃ、歌詞考えておきます」

倉「いや、今のでいい。歌詞いらない」

さ「へ?」


さだまさしは時々奇跡を起こす。僕にも巡り来た優しい奇跡を。


お便りはこちら

みんなのミシマガジンはサポーターの皆さんと運営しております。

北野新太(きたの・あらた)

1980年1月、石川県七尾市生まれ。
学習院大学法学部政治学科在籍中に雑誌「SWITCH」で雑誌編集を学び、卒業後の2002年に報知新聞社入社。以来、編集局勤務。担当遍歴は、日韓W杯—常総学院—柏レイソル—社会—映画—音楽—アテネ五輪—社会—読売巨人軍—和田アキ子 —NHK—社会(現所属)とムチャクチャ。猫背の完治が生涯の目標だが、巨人・原辰徳監督に「生き方が曲がってなければいいんだ!」とエールを送られたため、とりあえず先延ばし中。好きな言葉は「人間には、燃え尽きる人間と、そうでない人間と、いつか燃え尽きたいと望み続ける3つのタイプがあるのだ」

バックナンバー