実録! ブンヤ日誌

第44回 穏やかな旅人

2012.03.26更新

写真家の事務所にいる写真家にカメラを向けて、僕は写真を撮る。当然、緊張する。そして連続的にシャッターを切っていく。「たくさん撮りますね」。写真家は微かに笑う。僕は言い訳をするように答える。「下手な鉄砲、数打ちゃ当たるというのが僕の撮影法です」。アングルや背景を変えて、80枚近くも撮り続けた。「そんなに撮らなくてもいいんじゃないかなあ」。ファインダーの奥に見える小林紀晴は、小さく笑っている。

学生時代、書店で偶然手に取った『ASIAN JAPANESE』という本に没頭した。23歳で新聞社を退社したカメラマンがアジアへの旅に出発する。そして、あてもなく長い旅を続ける日本人たちと出会い、共に過ごした日々を写真と文章によって描いていく。僕は、異国にある若者の恍惚と不安を、あれほど真正面から捉えた物語を他に知らなかった。何より、苦しいくらい深夜特急に乗ることに憧れていた僕にとって、夢見た旅が本のなかには存在していた。退屈な日常、燃焼できない自分に別れを告げ、焦がれた自由へと飛び出していく・・・。著者・小林紀晴に惹かれた僕は、彼の作品を片っ端から読んでいった。

記者になって間もない頃、親しくなった文芸春秋の編集者と飲んでいると、ふと「いま小林紀晴さんと仕事してるんですよ」という言葉を聞いた。僕のリアクションは、もちろん「マジすか!!」。すぐに紹介してもらい、実際に会うようになった。
当たり前かも知れないけど、作品中の「僕」と同じ人なのだなあ、という印象を、いつも感じていた。ナイーブというのとも、センチメンタルというのともちょっと違う。繊細で穏やかな空気をまとう人だった。ちょうど年齢は一回り上だが、一緒にいると、なんだか2つか3つ上のあんちゃんと話しているような心地良さがあった。

2011年3月10日の夜、3人で飲んだ翌日、東日本大震災が発生する。「あしたは荒木経惟さんに会いに行くんです」と話していたから、アラーキーとは会えたのかなあなどと気にしつつ、しばらく連絡を取らないでいると、今年1月、一般紙の社会面で名前を見つけた。
彼は、震災当日に誕生した被災地の赤ちゃんの写真を撮り、写真展を巡回していた。僕は、震災から1年というタイミングで、8年ぶりの取材を願い出た。

<2012年3月の紙面より>
 東日本大震災が発生した2011年3月11日、被災地でも新しい生命は誕生した。写真家・小林紀晴さん(44)が現地に足を運んで撮影した赤ちゃんたちは、もうすぐ1歳のバースデーを迎える。(北野新太)

 ファインダー越しに赤ちゃんを見つめる時、小林さんは失われた多くの命のことを同時に思っていた。「だからこそ命の尊さを強く感じましたし、赤ちゃんが未来への希望の象徴に見えたんです」
 優しい光が赤ちゃんを包んでいくような撮影法は「9・11」によって得た。2001年当時、在住していた米ニューヨークで同時多発テロに遭遇した後、写真のスタイルが変化した。「それまでは自分のために自分の好きな世界を撮っていましたけど、単純に人が見てきれいだなあと思える写真を撮ろうと思ったんです」。そんな思いが今回の写真に生かされた。「希望やポジティブな気持ちを、写真から感じてもらえたらと思います」
 各家庭に写真を贈る際に「6年後も撮らせて下さい」との手紙を添えた。「小学生に上がる頃、桜の木の下で撮りたいんです」。復興へ進んだ街での再会を楽しみに待つ。


彼が撮った赤ちゃんの写真がたくさん掲載された本紙を手土産に、1年ぶりに3人で会った。
彼は古屋誠一という写真家についての本を「今年中には出します」と言った。僕は、古屋誠一という名を聞いて、昔読んだ彼の著作のなかにある「二十三歳」という文章を思い出した。『ASIAN JAPANESE』の旅に出る直前、23歳の時に行った写真展のことを書いた文章だった。

「遠く遠いのだ。遠いところでの何かしらのことが写されている。人間の何かしらのことでもある。とにかく多くは負の部分であるはずだ。僕はそれをとても魅力的だと感じた。写真家の名前は古屋誠一という。二十三歳で日本を離れてから、いまもヨーロッパで暮らしている。十八年間の異国で過ごした時間の流れが、ひとつの地図のように展示されているのではないだろうか。突然に発見のようにそんな気がしてきた。写真家のなかにしか存在しない、そして他にはどこにも存在しない地名と地形をもった唯一の地図を見ているように思えるのだった。
僕もいつかそんな地図を描きたい。誰かがすでに描いたものをなぞるのではなく、自分だけの地図をつくりながら、それを写真に撮ることができたならば、という思いが、内側からやってきた。突き上げるように、強く。
僕はすぐにアジアに向けて旅に出る。それだけのことを決めていた。それ以外に具体的なことはひとつもなかった」

(一部略 『最後の夏 1991』小林紀晴)

僕はこれからも、彼が描いていく地図を俯瞰していくだろう。時には彼自身と会って、地図を眺めて思ったこと、感じたことを直接伝えることができる。そんなことを、僕はとても幸福に思う。

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北野新太(きたの・あらた)

1980年1月、石川県七尾市生まれ。
学習院大学法学部政治学科在籍中に雑誌「SWITCH」で雑誌編集を学び、卒業後の2002年に報知新聞社入社。以来、編集局勤務。担当遍歴は、日韓W杯—常総学院—柏レイソル—社会—映画—音楽—アテネ五輪—社会—読売巨人軍—和田アキ子 —NHK—社会(現所属)とムチャクチャ。猫背の完治が生涯の目標だが、巨人・原辰徳監督に「生き方が曲がってなければいいんだ!」とエールを送られたため、とりあえず先延ばし中。好きな言葉は「人間には、燃え尽きる人間と、そうでない人間と、いつか燃え尽きたいと望み続ける3つのタイプがあるのだ」

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