実録! ブンヤ日誌

第66回 ある大田区職員の一途

2013.02.18更新

「もう区役所は辞めようと思う。やっぱりボクは小説家になるんだ」
1984年のある日、東京都大田区の職員である29歳の男は意を決し、同僚でもある妻に告げた。2年前に長男が誕生したばかり。猛反対される察しは容易についただけに、とりあえずボーダーラインを設定してみた。
「お願い。2年間だけ時間をくれないか。2年間だけ」
決めたら動かないタイプと熟知していた妻は、つい言ってしまった。
「仕方がないわね。いいよ」

男は1955年、福岡県黒木町(現・八女市)の街外れの集落で生まれた。久留米高専に進学。機械技術を学ぶ毎日の中で、対極にあるはずの文学への情熱に気付いた。在学中、坂口安吾を徹底的に読み込むため1年間休学する、という勇気ある行動...暴挙にも出ている。

卒業後、夜行列車に乗って上京した。東京に行けば小説家になれるんじゃないか。小説家への近道は東京にあるんじゃないか。そんな幻想を抱きながら就職した大田区役所では、区民係に。文学と添い遂げるつもりが、3歳年下の同僚女性に一目惚れし、交際。結婚などするつもりのなかった人生で、24歳で早々にプロポーズ。なんと返事はOKだった。そして、図書館で働けばもっと小説家に近づけるんじゃないかと思い、区立図書館に異動願を出す。司書として5年間、本を運んだ。

そして退職。書き始める。原稿用紙を埋めていったのは現代の闇をあぶり出す社会派小説。原発を誘致する街で多額の補償金を受けとる地元住民の精神がボロボロに破壊されていく様を描いた作品などが生み出されていく。しかし、自分で読んでみて、ちっとも面白くなかった。このままじゃダメだと痛感した男は、ある日、妻に告げた。
「ボクはインドに行く」
あのインドに行けば小説家になれるかもしれない。己を変えてくれる何かがあるはずだ。混沌の街に向かう。リキシャの車夫、物売り、ペテン師に囲まれる生活。ある時、物乞いの子どもたちに取り囲まれた。こっちも金はない。追っ払って逃げようとした時、体を電流のようなものが貫いた。今、自分が握りしめている財布なんかに一体何の価値があると言うのだろう。捨ててしまえばいいじゃん。もう金も地位も名誉もない。人間の生き方に善悪優劣などないんだ。だったらボクは自分が信じることのために生きたい。

約束のタイムリミットが迫った2年後、なんとかかんとか書いてみた歴史小説が文学賞の最終候補作に入った。
「お願い。もう1年」
妻がしぶしぶ応じ、1年が過ぎる。
途中、友人からは「奥さんがかわいそうじゃないか。校正の仕事を回してやるからやれ」と有難い言葉ももらうが「いらん。原稿料以外の収入をもらうつもりはないんだ」と突っぱねた。「これでダメだったら、もう生きていなくてもいい」
そして頭を下げる。
「お願い。もう1年」
最初のお願いから計4年後、ついに連載の依頼が舞い込んだ。

昨年暮れ。歴史小説家として読者を獲得していた男のもとに19年ぶり2度目のエンターテインメント界最大の賞のノミネート話が舞い込んだ。「これで獲れなければウソだろう」

2013年1月16日夜、大田区西馬込の寿司屋で待っていた男の携帯電話がピピピッとなった。用件に頷くと、今度は自分で電話を掛ける番だ。家にいる妻に。若い頃、食わせてもらい、苦労を掛けた妻に報告するのだ。手が震えた。
「お母さん、やったよオレ、直木賞を獲ったんだ」
「まあ。おめでとう。良かったねえ」


57歳になった安部龍太郎は、安土桃山時代の絵師・長谷川等伯の生涯を描いた「等伯」で直木賞を受賞した。「W杯で優勝したサッカー選手みたいな、五輪で金メダルを獲った選手みたいな。あと、そうだ。女房が結婚をOKしてくれた時のような喜びでした」

人生で初めてのスポットライトを浴びた安部は言った。「私の人生にこのような晴れがましい日が来るとは思ってもいませんでした。小説以外にやりたいことなんて何もない。小説によって世の中を変えるという遠い遠い理想に向かって歩いていきたいと思っております」

会見場の片隅にいた私は、安部に会いに行こうと思った。会って聞きたいと思った。小説を追い求めた人生と、奥さんのことを。

直木賞受賞会見に臨む安部龍太郎

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北野新太(きたの・あらた)

1980年1月、石川県七尾市生まれ。
学習院大学法学部政治学科在籍中に雑誌「SWITCH」で雑誌編集を学び、卒業後の2002年に報知新聞社入社。以来、編集局勤務。担当遍歴は、日韓W杯—常総学院—柏レイソル—社会—映画—音楽—アテネ五輪—社会—読売巨人軍—和田アキ子 —NHK—社会(現所属)とムチャクチャ。猫背の完治が生涯の目標だが、巨人・原辰徳監督に「生き方が曲がってなければいいんだ!」とエールを送られたため、とりあえず先延ばし中。好きな言葉は「人間には、燃え尽きる人間と、そうでない人間と、いつか燃え尽きたいと望み続ける3つのタイプがあるのだ」

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