近くて遠いこの身体

第33回 準備運動って必要なのか?

2015.01.23更新

 準備運動は本当に必要なのだろうかとヒラオは考えている。
 身体を動かす前には軽くジョギングをしたり、体操やストレッチをする。汗がにじみ、身体がポカポカ温かくなれば準備万端。動ける状態をつくってからジョギングとかフットサルとかゴルフの打ちっぱなしとかの本番に取りかかれば、よりよく動けるだけでなくケガの防止にもつながる。
 筋肉を伸ばし、関節の可動域を広げ、心拍数を高める。準備運動の必要性は、今となっては疑いようのない事実として僕たちの常識の中に登録されている。
 ヒラオも思っていた。ずっと、そう思っていた。だが、いつからかその効果に疑問を抱くようになった。

 準備運動をするという考えそのものがない領域がある。それは武術だ。
 あらゆる動きを考える上で武術が想定する情況は「命のやりとりをする場面」である。ことが武術である以上、ここに異論を挟む余地はないだろう。ルールの一切がない情況でいかにして生き延びられるかが武術家の真骨頂である。キックオフの笛が鳴らされることもなく、試合終了の合図もない。自分を害する敵が目の前に現れた瞬間に戦闘は始まる。「ちょっと待って、まだストレッチしてへんねん」というエクスキューズはそこでは通用しない。その瞬間に首を刎ねられてジ・エンドである。
 武術が目指す身体は「いついかなる場面でも力を発揮できる身体」である。だから初期設定に準備運動という考えがないのも頷ける。
 冬の厳寒期などはどうしても筋肉が硬くなり、動きづらくなる。
 自然科学に依拠するスポーツ科学は、硬くなった筋肉を解してより動きやすくするための方法を提示する。生理学や解剖学的な視点から身体を各要素にばらし、どうすれば身体を理想の状態に近づけるかを考える。この考えが前提にあるスポーツでは、だから筋肉を解すための準備運動の必要性を説く。
 されど武術は違う。動きづらい身体をそのまま受け入れる。そこからどうにかこうにか動けるようになるための鍛錬を模索するわけだ。

 ここからさらに踏み込んでヒラオは思索する。
 待てよ、そういえば野生動物は準備運動などしないぞ、と。
 狩りをする前にストレッチをするライオンなどいない。チーターもいない。ハイエナもいない。さらにいえばそれから逃れるヌーやシマウマだってそうだ。追われる側はしたくてもできない。肉食動物に狩られまいとストレッチをすることは死を意味するからだ。狩る方も狩られる方も、いきなり瞬発的に動けなければ生き延びることはできない。野生の掟は厳しい。
 つまり野生動物はすべて武術的な動きを身につけているわけである。
 おっと、これは間違いだ。
 本末転倒とはまさにこのこと。
 言い直す。
 武術は野生動物のようなしなやかな身体運用を目指している。すなわち、生き延びるためにはどのように動けばよいのか。これを徹底的に考えてきたのが武術である。ココロとカラダを区別することなく、潜在する身体資源を目一杯まで使うための技法や奥義が武術にはある。だから日本では今日まで長きに渡って継承されてきたのだ。武術における身体を捉えるときのその射程の長さに、ヒラオはすっかり虜になっている。ラグビーという「スポーツ」ではあるが、わりと集中的に身体を使ってきたヒラオには、沢庵宗彭『不動智神妙録』などの古典から窺い知れる武術の考え方にとても共感している。

 準備運動の是非を問う上でどうしても忘れられない体験がヒラオにはある。
 冬のある日、練習を終えて寮の部屋に帰り着いた。喉の渇きを潤すために冷蔵庫を開けると飲み物がまったくない。夕食までまだ時間があったので、道路を挟んで向かいにあるコンビニエンスストアまでひとっ走りすることにした。
 練習後で疲労の蓄積した身体はとにかく重たい。とくに冬場、これまでに何度も捻って癖になっている両足首はまるで油切れを起こした歯車のように関節の噛み合わせが悪くなる。足を踏み出すたびに鈍い痛みが走る。さらにはそれを庇う膝も太腿も、もっというと腰や背中も重くなる。傍目には普通に歩いているように見えても、当の本人はこのぎこちなさといつも格闘している。
 信号が点滅を始めた横断歩道を小走りで渡り切る。足首がギスギスと痛む。渡り終えてコンビニのドアまで辿り着くとホッと一息。さてドアを開けようとしたときに、店内から慌ただしく男性客が出てきた。ぶつかりそうになったので、重苦しい身体に鞭を打ってよける。そのまま男性は何も言わずに走り去った。(おいおい、謝りの一言もなしかよ)とやや苛立った瞬間、「漠然としたある不安」が脳裏を過った...。
 
 うん? 待てよ。もし、この男性客がコンビニ強盗だとしたら僕はこのまま追いかけなければいけない。けれど、この身体ではとうてい追いつくことができない。こんな重い身体でダッシュすることなんてできやしない。これってなんかめちゃくちゃ寂しくないか?それにもし目の前に間違って道路に飛び出した幼い子供がいても、油切れを起こしたロボットのようなこの身体では助ける自信なんてないぞ。
 いったい何のために僕は身体を鍛えている?
 ラグビーができればそれでいいのか??
 はたして僕の身体は強くなっているのだろうか???

 ちょうどこの時期は練習前の準備に余念がなく、これでもかというほど入念に取り組んでいた。まずは下半身を湯船につけるか、ホットパックを身体に巻き付けて身体を温める。それから入念なストレッチを行なう。これはマスト。
 さらに古傷が痛むときやケガが明けてまもないころはアキュスコープと呼ばれる機械で、患部に電流を流す。また、試合が重なり、セルフストレッチでは解せない箇所に張りを感じるときはトレーナーにストレッチをお願いし、それでもまだエンジンがかからない場合はエアロバイクで軽く汗を流すこともあった。
 全体練習の前にこれらの準備をするのが習慣化していた。ざっと見積もっても1時間はかかったとヒラオは記憶している。
 もしかするとこの準備運動の徹底が引き起こしたのではないだろうか?
 重苦しい身体の正体は、「準備運動をしなければ満足に動けない身体」ではないのか?
 
 走りゆく男の背中を見つめるヒラオの胸中には一抹の寂しさが溢れていた。
 
 だからといって準備運動は必要ないと結論づけるには、時期尚早であることはよくわかっている。ただ少なくともあのときのヒラオは、緊急事態になにひとつ対応できそうになかった。満足に人助けもできなかったに違いないことだけは確かである。もし、野生動物が闊歩する荒野に放たれたとしたら早々と命を落としただろう。
 つまりスポーツが目指す身体と武術が目指す身体は異なる。
 スポーツが理想とするのは、然るべき時間・空間で行われる試合でパフォーマンスを発揮できる身体である。キックオフまでに心身を最高潮にまで高める必要がある。だから、それに向けて準備をするのは当然といえば当然である。試合当日になって身体が重くて動けませんという言い訳は通用しないのだから。
 ただ、あまりに徹底してしまうと限られた条件でしか動けない身体へと堕す。自然科学に基づくスポーツ科学的なアプローチのピットフォールがここにある。ヒラオはこの身を通じてそれを痛感している。
 
 今年で40歳を迎える今もなお、ヒラオは運動を欠かさない。自宅周辺をジョギングし、大学のグラウンドでシャトルランをする。友だちとフットサルもするし、ゴルフもする。
 そのときにはもちろん準備運動はしない。筋肉に張りを感じたり、関節の可動域が気になるときは、そのときの気分で軽く行なうが、決まった種目を決まった手順ですることはしない。「いきなり動き始める」を心がけている。もうラグビー選手ではないのだから、野生動物のようにいついかなるときでも動けるようなしなやかな身体を目指して、今日もヒラオは走る。

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平尾剛(ひらお・つよし)

1975年大阪生まれ。神戸親和女子大学講師。元ラグビー選手の大学教員だが、現役時から7kg痩せたものだから当時の面影は残っておらず。マラソンは大の苦手。

同志社大学時代は長髪にあご髭を生やしてグラウンドを疾走。卒業後は三菱自動車京都を経て神戸製鋼所に入社。ウェールズで行われたW杯日本代表メンバーに選出され(1999)、社会人大会&日本選手権で優勝(2000−01)、新たに創設された日本ラグビートップリーグでは初代チャンピオンのメンバーとして活躍。(2003−04)。

引退時期がちらつき始めた頃に自らの怪我が引き金となって「身体」への興味が湧き、あれこれ研究を開始する。毎日新聞関西版の夕刊でコラムを連載(「平尾剛の身体観測」2006-2011)。その後は『ラグビークリニック』(ベースボールマガジン社)や『考える人』(新潮社)に寄稿するなど、楕円球をペンに持ち替えて奮闘中。

著書に『近くて遠いこの身体』(ミシマ社)、『合気道とラグビーを貫くもの』(内田樹氏との共著、朝日新書)がある。

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