近くて遠いこの身体

第35回 身体からの声に耳を澄ます

2015.04.02更新

 身体を鍛えるためのトレーニング方法はたくさんある。それこそ枚挙に遑がない。どれを選べばよいかよくわからず困っているという方が身近にいて、ネットで調べてみても書籍を紐解いてみてもイマイチピンとこず、そのうち面倒になってしまうらしい。運動したいという気持ちはあるというのだが...。

 ヒラオはこう考えている。より効果的なトレーニング方法を探すよりも、まずはやってみることが大切なんじゃないかと。気の合う仲間の呼びかけに応じればなおよしで、たとえジムに通うにしても一人でやるより二人、三人で取り組む。その方が楽しいはずだし、楽しければとにかく続く。続ければ身体は変わる。大会で優勝を目指すなど、シビアに競技力を上げるのでなければそれで十分である。
 と、かなりお気楽なのである。これには確固たる理由があって、「そもそもどんなトレーニングであってもやり始めのころにはそれなりに効果が出る」と考えているからだ。

 普段使っていない筋肉や動いていない関節を使ったり動かしたりすれば、それ相応の効果は得られる。たとえばデスクワーク中心の生活をしていた人がウォーキングを始める、あるいは自宅に和室がなくイスとテーブルの生活スタイルの人が股関節の曲げ伸ばしなどのストレッチ運動を行ったとすれば、ほとんどの人はなんらかの快適さを感じることができる。わずかに筋肉が張っている状態は動くたびに自身の身体へと意識を向かわせ、身体の輪郭が際立つことでなんともいえない充実感が得られるものだ。

 いや、もしかすると人によっては「快適」ではないかもしれない。わずかに「苦痛」を感じる人もいるかもしれないが、それがわずかであればしばらくは続けてみるとよい。
 というのも、身体というのはこれまでの生活習慣の上に成り立っている。いつも通りの生活をするから筋肉痛にもならず何事もなく過ごせるわけだが、トレーニングはその「いつも」からはみ出ることになる。つまり日常ではしない動きをするわけで、当然のことながら惰性の強い身体はこれに強い抵抗を示す。この抵抗には「苦痛」が伴う、個人差はあるが。だからここはある程度の我慢が必要だ。あまりに強い苦しみや痛みは論外にしても、たとえば軽い筋肉痛や息切れならそこはぐっとこらえなければ、いつまでたっても身体は変わらない。
 どのようなトレーニングであっても始めてまもなくはこうした身体実感が伴うもの。「快適さ」や「苦痛」が入り混じった感じがこの身を襲う。先に「それなりの効果が出る」と書いたのはこういうことである。

 ただ、だからといって、この時点での身体実感を頼りにこのメソッドに「効果があった」と判断するのは時期尚早である。焦りは禁物、まだ真相はわからない。「なんとなく心地よい感じがする」あるいは「いつもとは違う感じだな」、場合によっては「ちょっとしんどいんだけど...」という感じで、とにもかくにもしばらく継続してみる。
 判断するのではなくじっと観察するのである。
 するとどうなるか。
 もしもそのメソッドが自分に合っていたならば、やがてどこかのタイミングで変化した自らの身体に気づく。必ず、気づく。そういえば毎朝の目覚めがよくなっている、そういえば腰痛や肩凝りが治っている、そういえば体重が減っている、そういえば最近よく「元気そうですね」と声をかけられる、などなど。
 この「そういえば...」こそ、そのメソッドがもたらす効果の本当の正体であるとヒラオは思っていて、なぜなら事後的に振り返ったときの身体実感に身体のOS(オペーレーションシステム)の書き換わりが感知されるからである。

 長らくの生活習慣を通じて形成された身体が変化するには、ある程度まとまった時間がいる。だから焦って効果を追いかけることも、またメソッド自体の正否を判断することもせず、しばらくはなにも考えず地道に取り組んでみるという姿勢がなにより大切である。いつかどこかのタイミングで到来するなにかを待つ、という構えで気長にやるなかで、身体はじっくりゆっくり変化してゆくのだ(やめるタイミングを見極めるのが難しいのではないかと思われるかもしれないが、この姿勢でいればあるとき突然わかる。そこはもう、なんというか、うん、直感である)。

 そしてここからが今回の話の肝である。
 実のところ、この「待つ姿勢」こそに、トレーニングをすることの最も大きな意味があるのではないかとヒラオは考えている。これはまさしく「身体からの声に耳を澄ますこと」だからである。
 バランストレーナーの小関勲氏は、「運動はどんな方法、理論でやるかよりも、どんな感覚でやるかが大切です。同じ練習をしても、うまくなる人もいればそうでない人もいます。ケガをする人やしない人もいます。この違いは、その運動をどんな感覚で行っているのかで大きく変わってくるのです」と述べる。
 この理論ならこの方法ならよくなるはずだと高を括り、カラダの思考を停止させない。どんな理論でも方法でも、それを行う際にどれだけ感覚を働かせるかが大切である。

 ここで氏の言う感覚とは「身体からの声に耳を澄ますこと」に他ならない。
 身体からの声を聴くためのコツはあまり積極的にこちらから探りにいかないこと。物静かな身体が発する声はある瞬間にふっと湧くもので、不意に耳に入ってくる。その残響がゆっくり身体全体に沁み込んでゆく感じで、わかる。急にドンときて、ジワーッと広がる。

 この声を意図的に捕まえにいこうとすれば失敗する。「意図的に捕まえにいく」というのは理論を当てはめて理解しようとすることで、どうしても頭での思考が先にきてしまって実際に感じている感覚とのあいだにズレが生じる。こうして掴んだものは本来の感覚とは似ても似つかない、言ってみれば「擬似感覚」である。一般的に「感覚とは曖昧で、個人的で、あてにすることができず論拠にはふさわしくないもの」だとされているが、そのとき主題に上がっているのはこの「擬似感覚」であって、身体を通した本来の感覚ではない。
 本来の感覚を取りもどすためにも身体からの声にじっと耳を澄ませつつ、まずはとにかくやってみようやないですかということです。

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平尾剛(ひらお・つよし)

1975年大阪生まれ。神戸親和女子大学講師。元ラグビー選手の大学教員だが、現役時から7kg痩せたものだから当時の面影は残っておらず。マラソンは大の苦手。

同志社大学時代は長髪にあご髭を生やしてグラウンドを疾走。卒業後は三菱自動車京都を経て神戸製鋼所に入社。ウェールズで行われたW杯日本代表メンバーに選出され(1999)、社会人大会&日本選手権で優勝(2000−01)、新たに創設された日本ラグビートップリーグでは初代チャンピオンのメンバーとして活躍。(2003−04)。

引退時期がちらつき始めた頃に自らの怪我が引き金となって「身体」への興味が湧き、あれこれ研究を開始する。毎日新聞関西版の夕刊でコラムを連載(「平尾剛の身体観測」2006-2011)。その後は『ラグビークリニック』(ベースボールマガジン社)や『考える人』(新潮社)に寄稿するなど、楕円球をペンに持ち替えて奮闘中。

著書に『近くて遠いこの身体』(ミシマ社)、『合気道とラグビーを貫くもの』(内田樹氏との共著、朝日新書)がある。

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