近くて遠いこの身体

第40回 意識の宛先

2015.09.09更新

 それにしても最近は街中でスマホを覗き込む人たちが多い。道すがらにすれ違う人の中にもいるし、乗り込んだ電車でも大半の人がスマホを握りしめ、俯き加減に座っている。いつ見てもとても不思議な光景にヒラオはつい観察眼を向けてしまう。

 たまにニヤリと笑顔を浮かべる人がいる。友達や彼氏彼女とのやりとりで冗談でも言い合っているのだろう(いや正確には「書き合っている」というべきだ)。それともオモシロ画像の類を見ているのか。なにが可笑しくて笑っているのか、その理由がわからないこちらとしては、なぜだか気恥ずかしい気持ちになる。思わず視線を落とす。こちらの心に余裕があるときは笑顔につられて微笑ましく感じることもあるが、やはり気恥ずかしさが先に立つ。

 眉間にしわを寄せ、しかめっ面で画面を睨みつけている人もいる。そんな人は仕事のメールと取っ組み合っているか、凄惨な殺人事件に関するニュースを読んでいるのかもしれない。あるいは昨今に目立つあまりに軽すぎる政治家の言動に、心が波打っているってこともありうる。犯人の凶行への怒りか、それともこれからの日本社会を憂うがゆえの眉間のしわか。そんなしかめっ面を見かけるにつけ、「なにもそんな険しい顔をしなくても」とヒラオは思う。阪急電車から望む六甲山の緑が綺麗な日なら「ボーッと車窓でも眺めませんか」と、お節介にもつい声をかけたくなる。そもそも実際に行動に移す勇気を持ち合わせていないのでいつも未遂に終わるのだが。

 共通するのは、ここではないどこかに意識が向いていること。彼らを傍観するとそこはかとなく寂しさが滲み出てくるのは自分だけだろうか。そうヒラオは感じている。

 意識のすべてをスマホに向けた人たちに囲まれると、人と人との距離がどんどん離れていくような、そんな寂しさがこの身を襲ってくる。ここに僕はいるんだぞとつい声を上げたくなるような、得体の知れない孤立感というかなんというか。たまたま同じ電車に乗り合わせただけの他人同士であっても、席を詰めるとかの最低限の思いやりなどの「この場」にいる人に向ける意識を、少しは残しておいてほしいと思うのだ。わずかに互いを思いやる気持ちがあるだけで車内はもっと心地よい空間に様変わりするはずで、おそらく一昔前、つまり携帯電話がこれほど浸透する以前までは、確実に今とは違う風景が広がっていたのではないだろうか。

 てなことを、酒の席で友人に話したら「気にしすぎちゃうかあ」と素っ気なくいわれた。改めて言われてみると、確かにやや神経症的な反応だともとれる。赤の他人なのだからそこまで気にする必要はないということか。
 いずれにしたところで、いくらなんでも電車に乗るたびに心が波打つ事態はさすがに避けたい。てなわけで、気にならないようにしてみようと、車内ではイヤホンを耳に突っ込んで音楽を聴き、読書をすることにした。

 しかし、気になるものは気になる。生まれついての性分か、30代も半ばを過ぎるまでまともに電車通勤をしてこなかったからか、その理由はよくわからないが、いつの間にか集中が解かれて周囲に意識が向いてしまう。音楽と読書でやり過ごせる時もあるけれど、それはその日の気分に左右される。困ったものである。
 とどのつまり音楽を聴き、読書に集中するとは内側に閉じこもること。これはスマホを覗き込む人たちとほとんど同じ振る舞いである。「他者への配慮を著しく欠いた車内」という殺伐とした風景に自ら進んではまり込むことを意味する。懸念する風景に同化することは、感じている一抹の寂しさを誤魔化すことに過ぎない。

 側としてのカラダはここにあるにもかかわらず、心(意識)は画面の向こう側に向いている。今この場を共有するほかの人たちの存在は心になく、意識の外側へと追いやられる。意識されないのだから、極端に言ってしまえばいてもいなくても同じだ。これは車内で化粧をしたり、食事をしたりする人のマインドとも似ていて、意識のシャッターを完全に閉ざしたこの距離感が人と人とのあいだに隔たりをつくり出す。

 「私たち」という関係性がどこにもなく、「ただここに私がいる」と思う人たちで満たされた空間は、とてもよそよそしい。目端で互いの存在を確認するというような細やかな配慮があってこそ、周囲の状況の変化に気がつくことができる。体調が悪そうな人や困った人などを察することができる。「見ぬふりをしてはいるが、実のところ見ている」というちょっと高度な意識の持ち方を思いやりと呼ぶとすれば、この思いやりが張り巡らされた空間には安心が生まれるはずだ。

 あえて言うまでもなく当然のことではあるけれど、人と人との関係性を考えるとき、いるかいないか、親密かそうでないかというデジタルな関係はあり得ない。親密度にはそれ相応のグラデーションがある。家族や友達ほどの親密な関係性とはまた別に、ただそこに居合わせた者同士の、まるで薄皮一枚でつながっているような儚い関係性もある。たまたま電車に乗り合わせた、たまたま居酒屋のカウンターで隣に座ったなど、名前も知らずその人となりもよくわかっていない者同士、ただこの場を共有するという一点においてつながる関係。これをこそ大切にする。それがひいては人を、社会を豊かにするのではないかと思う。

 ネットならば、自分の身体を動かさずともただ意識を差し向けることで、地球上のあらゆる場所へと移動した気になれる。必ずしも身体性が伴っていない言葉と映像が、仮想空間めがけて中空を飛び交っているのが今の社会だ。個々人の意識の宛先が拡散する中で優しさの総量が目減りしている。そんな実感がヒラオにはある。

 とはいえ今やデジタルメディアなくして社会は成り立たないし、ツイッターなどで散々お世話になっているヒラオにとってもなくなればやはり困る。ならば課題となるのはつき合い方で、デジタルメディアから浴びせられる情報の荒波に飲み込まれないよう、自分なりのルールを作って接することが大切になってくる。
 ヒラオは、「ネットに接続するときは自覚的に、空き時間ができたからといって惰性でアクセスしない」というルールを自らに課している。なるべく目的を明確にしてネット空間に足を踏み入れる。これまでの癖でついカジュアルにSafariを開きそうになるので、そこを自制する。

 そうこうするうちに気がついたのだが、このルール、裏を返せば、「なにもすることがないときは、あえてなにもしない」になる。「なにもしない」って、なんて怠惰なんだと思うなかれ。なにもしなければ身体は自然と外に向かって開かれるのだ。
 夕暮れ時の山に沈む太陽、ビルの谷間からわずかに顔を覗かす海、スズメやツバメのさえずり、屋根を叩く雨音、空の青...。ツクツクボーシや入道雲に夏の終わりを感じ、頬を撫でる風の優しさにもうすぐ秋だなと胸がときめく。
 いつもそこにあったはずの風景にあらためて触れる、そんなときにかぎって、そういえばアイツは元気にしてるかなと、長らく会っていない友をふと思い出す。

 僕たちの身体は、実はなにもしないことなんてできないのだ。ただ揺るがせに時間を過ごすだけで五感は何かを感じようと働き始める。だから、ただネットに費やす時間を取り除くだけでいい。それだけで意識の宛先は身の回りへと向かう。
「ともにいる」という安心も新たな気づきも、わりと身近なところにごろごろある、と思うのだが。

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平尾剛(ひらお・つよし)

1975年大阪生まれ。神戸親和女子大学講師。元ラグビー選手の大学教員だが、現役時から7kg痩せたものだから当時の面影は残っておらず。マラソンは大の苦手。

同志社大学時代は長髪にあご髭を生やしてグラウンドを疾走。卒業後は三菱自動車京都を経て神戸製鋼所に入社。ウェールズで行われたW杯日本代表メンバーに選出され(1999)、社会人大会&日本選手権で優勝(2000−01)、新たに創設された日本ラグビートップリーグでは初代チャンピオンのメンバーとして活躍。(2003−04)。

引退時期がちらつき始めた頃に自らの怪我が引き金となって「身体」への興味が湧き、あれこれ研究を開始する。毎日新聞関西版の夕刊でコラムを連載(「平尾剛の身体観測」2006-2011)。その後は『ラグビークリニック』(ベースボールマガジン社)や『考える人』(新潮社)に寄稿するなど、楕円球をペンに持ち替えて奮闘中。

著書に『近くて遠いこの身体』(ミシマ社)、『合気道とラグビーを貫くもの』(内田樹氏との共著、朝日新書)がある。

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