近くて遠いこの身体

第44回 「ゴルフをする身体」についての試論

2016.01.13更新

 ゴルフがなかなか上達しないことにヒラオはイラついている。
 正月早々に行われた職場のコンペでも、散々なスコアだった。ドライバーで会心のショットが出ても2打目でチョロ、アプローチでうまく寄せても1mほどのパットを外す。ドライバーがよくてもアイアンが冴えない。アプローチがよくてもパターが散々。あちら立てればこちらが立たず、二進も三進もいかない。

 ところどころで「会心の一撃」は出る。その瞬間の、手の平から全身に広がるようなあの心地よさはなにものにも代えがたい。スポーツを問わず身体をうまく使えたときにもたらされる快感が、ヒラオは大好物である。ただそれが単発だから、スコアは決してまとまらない。「ゴルフはアプローチがすべてや」と、ハンデがシングルの友だちからのアドバイスも、この一発がもたらす快感を求めるがゆえにすんなりと耳には入ってこないのである。
 たとえそこそこの当たりでしかなくとも、左右に曲がらないショットを積み重ねたほうがスコアはまとまる。バンカーに打ち込まず、フェアウェイをキープすることが、なによりも大切だ。300ydでも30cmでも一打は一打なのである。

 ゴルフボールは完全なる球体だから扱いやすいはずだ。ラグビーボールに比べて極端に小さいとはいえ静止してもいる。それになのに思い通りには飛んでくれない。ヒラオにとってはラグビーボールのほうが、回転をかけたりしながらなんとなく思った場所にコントロールできる。慣れというのか、練習を積み重ねれば無理筋なことでも可能になるものだと、あらためて思う。

 ゴルフ雑誌を読み、勘所を探ってスイングを試みてもダメ。見かねた同僚や先輩からの助言を反芻して、練習に励んでもダメ。もしかすると向いていないのかもしれないが、スポーツを、とりわけ球技を得意とするヒラオとしては、この下手さ加減をすんなりと認めるわけにはいかない。
 ゴルフを始めたのは20代半ばだった。途中ブランクを挟んだものの、今の今までずっとヒラオは地団駄を踏んでいる。


 繰り返すが、静止したボールを打つのがゴルフだ。そのためには徹底的に身体感覚を研ぎ澄ますしかないわけだが、どうやらその仕方を根本的につかめていないようである。ラグビーのように人から人へたえずボールが動き、その様子に応じて身体を動かせばいい競技とは違って、ゴルフは動き出しからフィニッシュまでを自らの身体感覚だけを頼りに完結しなければならない。
 相手、味方、ボールの動きなど外側の状況に応じて求められる動きが変化するラグビーと、いつも同じ動作が求められるゴルフとでは、身体運用は180度異なる。いざ走り出してしまえば息をつく暇がなく、考える時間もないのがラグビーで、片やゴルフでは最初から最後まで考える余地が与えられている。
 スイング中にはあれやこれやの邪念が頭をよぎる。手をどうするとか、腰をどうするとか、視線をどうするとか、練習中に心がけてきた数々のポイントがふと浮かんで、それがスイングを乱すわけだ。

 ラグビーでは意識の大半が身体の外側、つまり周囲の状況に向く。しかもその状況は敵味方が入り乱れていて、激しく動的だ。対するゴルフは身体の内側に、というか身体そのものに向く。意識の宛先になった身体、つまり感覚が渦巻く世界はいたって静的である。
 ここが大きく違う。
 動的な状況を的確に把握するには言葉では追いつかない。遅すぎる。「もしディフェンスが前に出てきたら右にステップを踏もう」あるいは「そのままなら少しタメてから走り出そう」というように、場面ごとに呑気に考えている時間はどこにもない。五感を解放し、まるでカメラでシャッターを切るように、瞬時に周囲の状況を察知しないことには最適なプレーはできない。そこに言葉が割って入る余地はない。

 いや、これは違った。「余地がない」わけではない。正確にいうと言葉は浮かんでいる。ただ、めくるめく状況に対応すべく次々と言葉が浮かぶがゆえに、ただ聞きとれないだけだ。浮かんでは消え、消えては浮かぶそのスピードに頭がついていけず、明確なテキストとしてそれを認識できない。

 試合で身体が勝手に動くのは、練習で学んだことを身体と言葉でよく理解しているから起こる。でも、プレーしている瞬間に言葉がひとかたまりの具体的な文章として浮かぶことはない。身体レベルで下される判断の積み重ねを、私たちは慣習的に「身体が勝手に動く」と表現している。だから自覚的には「無音」となる。一気に流れ込む情報を同時並行的に処理するのは頭ではなく、フィジカルなのである。一度にたくさんの人から話しかけられても内容を聞きとれないのと同じだ。

 だがゴルフは違う。
 スイング前のルーティンに入ると周囲は沈黙する。狙いどころを決め、風向きを読み、構える。始動するタイミングを見計らって、いざクラブを上げる。この一連の動作は、周囲の状況に依らず自分だけが制御できる時間である。このあいだの、なんとも言えない静けさの中では、その静寂を切り裂くようにいろいろな言葉が侵入してくる。

「前のホールでは右に曲がったよな...」
「ここをパーで乗り切れば40台で終えられる!」
「さっきの感覚で打てば問題ない」
「あのバンカーを越えるにはフルスイングしないとな...」
「目の前の池を気にしないように...」

 不安や恐れ、欲を源泉とした言葉が無心を打ち破り、意識に顕在してくる。その結果としてダフリ、スライスし、チョロを生む。「左にだけは打たないように」という心がけが、かえって左に打ち込んでしまう原因となるのは、顕在化した意識の為せる業であろう。たとえ否定形で示された意味内容であっても「意識している」ことに変わりはないからだ。


 ラグビーに求められるのは、外側に五感を解放させてたくさんの言葉を取り込んだ上で生まれる無心。対するゴルフは、意識を内側に向けて言葉を押し戻すことで生まれる無心。自らを取り巻く状況が変化し続けるラグビーと、ほぼ一定であるゴルフ。スマホのシャッター音ひとつで集中状態が解けてしまうプロゴルファーは、おそらく言葉の侵入と必死に格闘しているのだと思う。それは外的環境でのわずかな入力で崩れ去るほどセンシティブなもので、言葉を押し戻す作業は想像を絶するほどに困難なのだ。
 と、これは単なる想像に過ぎないのだが。
 理詰めで完成させたスイングを、いざコースに出ればその理を一時的に手放すことが求められる。「無-意識」に沈めるというかなんというか。「余計なことを考えないようにしよう」という意識をやりくりするのが、とてもとても難しい。ゴルフがメンタルなスポーツだと言われるのはこの点においてである。

 ゴルフは奥が深い。意識そのものの行方を模索し、言葉を押し戻す格闘を楽しみながら、これからも続けてみようとヒラオは考えている。ひとまずスコアは二の次にして、「ゴルフをする身体」の観察を主題に据えて取り組もう。
 などと、言い訳じみた結論を導き出してしまうところが下手くそゴルファーの所以であるな。うむ。

お便りはこちら

みんなのミシマガジンはサポーターの皆さんと運営しております。

平尾剛(ひらお・つよし)

1975年大阪生まれ。神戸親和女子大学講師。元ラグビー選手の大学教員だが、現役時から7kg痩せたものだから当時の面影は残っておらず。マラソンは大の苦手。

同志社大学時代は長髪にあご髭を生やしてグラウンドを疾走。卒業後は三菱自動車京都を経て神戸製鋼所に入社。ウェールズで行われたW杯日本代表メンバーに選出され(1999)、社会人大会&日本選手権で優勝(2000−01)、新たに創設された日本ラグビートップリーグでは初代チャンピオンのメンバーとして活躍。(2003−04)。

引退時期がちらつき始めた頃に自らの怪我が引き金となって「身体」への興味が湧き、あれこれ研究を開始する。毎日新聞関西版の夕刊でコラムを連載(「平尾剛の身体観測」2006-2011)。その後は『ラグビークリニック』(ベースボールマガジン社)や『考える人』(新潮社)に寄稿するなど、楕円球をペンに持ち替えて奮闘中。

著書に『近くて遠いこの身体』(ミシマ社)、『合気道とラグビーを貫くもの』(内田樹氏との共著、朝日新書)がある。

近くて遠いこの身体

バックナンバー