近くて遠いこの身体

第47回 意欲は育むもの

2016.04.14更新

 ヒラオには一向にやる気が出ないときがたまにおとずれる。仕事にしろ遊びにしろ、とにかくなにもする気が起こらない。家族を含めて誰にも会いたくないし、趣味を兼ねる読書にも興が乗らない。そんなときは煙草に火をつけてひたすら宙空を眺める。ゆっくり吸い、ゆっくり吐き、立ち上る煙をぼーっと眺める。ただただ虚空に身を浸し、世界にただ一人取り残されたような孤独感を受け入れる。そうして時間だけがなにごともなかったかのように過ぎ去ってゆく。
 そんな静寂もそう長くは続かない。ふと気づけば思考に耽っている。
 抱える原稿のネタになりそうなことを探している。先日見たばかりの映画のワンシーンが浮かび、登場人物のセリフの意味を考えている。積読本のタイトルを一つ一つ思い出している。久しく会っていない友達を想っている。明日やるべき仕事を反芻している。

 想いが想いを呼び、言葉が言葉を引き寄せる。想いが言葉に置き換えられ、無という名の静寂があれやこれやの思念でいつのまにか賑わっている。今という時間にただ流されたいだけなのに、わずかな隙間から論理性が侵入してくる。
 世界は言葉にできるものだけで満たされてはいない。人生における大切なことは往々にして言葉にできないものだ。ある詩人の、「一人の日々を深くするものがあるなら、それは、どれだけ少ない言葉でやってゆけるかで、どれだけ多くの言葉ではない」という言葉が脳裏をよぎる。意欲の減退は考え込む時間を増やす。腑抜けた状態を肯定できずに手持ちの言葉で解決を図ろうとする。ここから負の連鎖が始まるのだろう。  

 その意味で意欲というものは尊い。仕事にしろ生活にしろ、おおよそ人生の営みすべてにおいて必要不可欠なものだ。あえてこうして書かずとも、こんな常識的なことはほとんどすべての人が自覚しているはずで、なにを今さらと思うかもしれない。そうなのだ。これみよがしにこうして書かずにいられないのは、自身の意欲が枯渇しているからに他ならない。意欲というやつは、減退していくなかで強く意識されるものとしてある。
 ああ、意欲が欲しい。誰かこそっと届けてはくれないだろうか。綺麗に包装などしなくていいから、ジップロックにでも詰め込んで新鮮な状態のままにさりげなく渡してほしい......ヒラオは完全にどうかしている。


 管見によるとスポーツ界で最も意欲を大切にしているアスリートはイチロー選手だ。ある本で読んだのだが、彼は好調時には練習を最後までやり切ることなく途中で切り上げるという。
 元アスリートとして言わせてもらえれば、好調なときはどんどん練習したいと思うものだ。思い通りに動く身体を、その躍動感そのままに伸び伸び動かしたいという衝動は抑えがたい。思い通りの地点にキックを蹴ることができる。寸分違わずボールの芯を捉えた瞬間の手応えはたまらず、飛距離もおもしろいように延びる。ステップを踏めば相手に触れられもしない。相手の動きが読めるからタックルもビシバシ決まる。我がラグビー人生を振り返れば、この快感を味わうためだけにラグビーをしてきたといっても過言ではない。こんなときは全体練習が終わってからも積極的に個人練習に汗を流したものだ。

 でもイチロー選手はあえてそうしない。その心はどこにあるのか。
 意欲を保つため、である。
「もっと練習したい」という気持ちを残せば、翌日グラウンドに向く足が軽くなる。もっとバットを振りたいという衝動をすべてその場で発散するのではなく、翌日以降の意欲の源泉にする。動きたくてたまらない身体の疼きをとっておくという工夫なのだ。これにはしびれた。一時の快感を得ることよりも長きに亘ってパフォーマンスを維持するために、意欲を保持する。なるほど、年間200本以上の安打を10年間に亘って打ち続けられたのも頷ける。

 これだけにとどまらない。さらにもう一つ、「打率ではなく安打数へのこだわり」がある。打率トップを意味する首位打者ももちろん視野には入れているが、それを最優先するのではなくあくまでも「安打数」にこだわる。
 ご存知のように、打率は安打数を総打席数(四死球と犠打を除く)で割って算出される。たとえば100打数のうち安打が30本ならば打率は3割になる。安打を打てば上がるし、打たなければ下がる、それが打率だ。
 もし打率を目標に定めれば、シーズン終盤の首位打者争いで追われる立場になったときや調子が落ち目のときには、「打席に立ちたくない」という心のスキができないとも限らない。というのも打席に立たなければ打率は下がらないからだ。打席に立たないことが目標達成に寄与する。こうした状況では、潜在的にネガティブな感情が生まれやすい。
 それに対して安打数は下がらない。積み上げることでしかその数値は伸びない。一本でも多くの安打を打つためには、できるだけ多くの打席に立つのが望ましい。たとえ凡打に終わったとしても安打数は減らないのだから、そこにネガティブな感情が入り込む余地は作られにくい。

 つまりイチロー選手は、打席に向かうときのごくわずかな心理にまで配慮してプレーしている。潜在意識にまで踏み込んで意欲を減退させないように工夫している。これこそイチローがイチローたる所以だ。
 15年前に知ってればなあ......というのは独り言である。


 当然のことながらイチローほどのストイックさを持ち合わせた人はほとんどいない。もちろんヒラオにもない。ただこの繊細さからは見習うべきことがある。意欲を保持するためにここまで微に入り細を穿って工夫するのは、心というものが本質的に脆弱であることを熟知しているからだろう。意欲の減退がもたらすどうしようもない脱力感をイチローは知っている。さまざまな重圧をはねのけるための最たる武器が意欲であることを知り尽くしている。だからこそ、好調時にしか味わえないあの快感を手放してまでそれを保持しようと努め、ネガティブな感情が入り込むスキを作らないように打率ではなく安打数にこだわる。

 意欲というやつは、ふとした拍子に湧いてくるものでもなく、外発的とか内発的とかに分類して手際よく発生させられるものでもない。心の内を観察するなかで徐々にその方法がわかってくる。自分なりに工夫を凝らして育んでいくものなのだ。
 ここはひとまずイチロー選手の工夫から学んで、また一からゆっくり育んでいこうとヒラオは心に誓うのである。

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平尾剛(ひらお・つよし)

1975年大阪生まれ。神戸親和女子大学講師。元ラグビー選手の大学教員だが、現役時から7kg痩せたものだから当時の面影は残っておらず。マラソンは大の苦手。

同志社大学時代は長髪にあご髭を生やしてグラウンドを疾走。卒業後は三菱自動車京都を経て神戸製鋼所に入社。ウェールズで行われたW杯日本代表メンバーに選出され(1999)、社会人大会&日本選手権で優勝(2000−01)、新たに創設された日本ラグビートップリーグでは初代チャンピオンのメンバーとして活躍。(2003−04)。

引退時期がちらつき始めた頃に自らの怪我が引き金となって「身体」への興味が湧き、あれこれ研究を開始する。毎日新聞関西版の夕刊でコラムを連載(「平尾剛の身体観測」2006-2011)。その後は『ラグビークリニック』(ベースボールマガジン社)や『考える人』(新潮社)に寄稿するなど、楕円球をペンに持ち替えて奮闘中。

著書に『近くて遠いこの身体』(ミシマ社)、『合気道とラグビーを貫くもの』(内田樹氏との共著、朝日新書)がある。

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