近くて遠いこの身体

第50回 スポーツのリアリティ

2016.07.19更新

 前回、スポーツに健やかさを取り戻すにはどうすればいいのかについてヒラオは持論を展開した。まことしやかに巷間に流布する「スポーツは健康によい」という風潮に「ちょっとまった!」をかけたかったのである。怪我だらけの自らの身体やかつてのチームメイトの様子、それに昨今のスポーツにまつわる様々な事象を思い浮かべると、どうしても疑義を呈さざるをえなかったからだ。アテネ五輪メダリスト森田智巳氏のように、競技は違うが同じように考えている元アスリートがいたこともそれを後押しした。

 掲載されてからあらためて読み返してみたのだが、どうにもギスギスとしたテクストになっていることに気づく。当の本人がスポーツから恩恵を受けているにもかかわらず「スポーツは健康によくない」と頑なに論を進める様子に、少し考え込んでしまった。
 これって自己否定になるのではないだろうか。
 もちろんヒラオ本人にそのつもりはなく、スポーツの本質を描き出すべく言葉を重ねたわけだが、そもそもテクストとは読者の解釈に委ねられるもので、その読解可能性は無限に開かれている。書き手の想いや願いを超えて、まるで自己増殖するかのようにそれぞれの読者の胸の内に沈みこんでゆく。自らの生活実感、知識、体験、経験と照らしつつ読者は読み解くのである。
 脱稿したあとに時間をおいて読み返すときのヒラオは、いわば「一人の読者」になっている。テクストを編みつつあるときのヒラオとは「別人」だ。これは大げさではない。自らの手を離れた原稿をもう一度読み返すときの自分は、まさに書きつつあるときの自分とは、まるで「別人」になったような実感がある。
 書きつつある自分と読み返す自分。この隔たりに差し込まれるある種の客観性が、テクストに新たな印象を与える。「もしかして自己否定になってる?」という印象はこうしてかたちづくられたわけである。


 それにしてもなぜあのような堅苦しいテクストを書くに至ったのだろうか。

 スポーツが見るに忍びない。ここ最近、ずっと感じていることである。ここでいうスポーツとはいわばプロスポーツおよびオリンピックの競技種目になっているもので、すなわち「近代競技スポーツ」を指す。野球もサッカーも陸上も、そしてラグビーでさえも、なぜだかわからないがそれほどオモシロく感じられないのである。

 いや、ラグビーについてはやや違って、昨秋のワールドカップを境にオモシロさが盛り返した。エディ・ジョーンズ監督が率いたジャパンの戦いぶりからは、言葉では曰く言い難いラグビーの本質が伝わってきた。南アフリカに勝利する、大会で三勝をあげるなどの結果もさることながら、ラグビーの質そのものが変わったことに心が躍ったのだ。
 体格に劣る日本人でも工夫をすれば諸外国に通用する。「柔よく剛を制す」をまざまざと見せつけられては心動かずにはいられない(これは柔道での言葉だが、歴史を振り返れば体重別で行うようになってからその精神は骨抜きになった。僭越ながらその部分をラグビーが引き受けているとヒラオは思い込んでいる)。

 自分が長らく取り組んできたスポーツなのだからオモシロく感じるのは当然だ。そう思う向きもあるだろう。ただ昨秋のワールドカップ以前は、そのラグビーでさえどことなくつまらなく感じていた。
「ライブで観たい」と感じるのは日本一を決めるトップリーグファイナルぐらいで、あとは録画で早送りしながらでも事足りる。それも観とかなければ、職場や街場で話題を振られたときに応えられないからという、半ば義務的な態度だった。あまりこんな風には言いたくはないけれど、どこか興醒めしている自分がいたのである。ここだけの話だが。
 ラグビーでこれなのだから、他のスポーツならなおさらである。楽しみたいのに楽しめない。それがとてももどかしい。


 七月の初めに三重県鈴鹿市でサッカー関係者と話をする機会があった。かつてイビチャ・オシムを日本に呼び、ジェフやパープルサンガでGMを務めた祖母井秀隆氏と対談をしたのだが、打ち合わせから本番までは喫茶店をはしごしての五時間に及ぶ打ち合わせ、小中高のスポーツ少年および保護者と指導者約五〇〇人を前に白熱した対談、そして懇親会に至るまで、入れ替わり立ち替わりたくさんの人と自然発生的にスポーツ談義に花を咲かせた。
 周りのほとんどがサッカー関係者という「アウェイ」だったが、敵地に乗り込んでいるときの疎外感は一切なく、スポーツに携わる者同志で忌憚のない考えを口にできる、終始まるでホームのような雰囲気だった。
 そうして話をする中で、ある方が「実は今のサッカーはオモシロくないので見る気がしない」と口にした。自分以外にも同じように感じている人いることに安堵し、その理由を聞いて我が意を得たのだった。


 ヒラオがラグビーに、サッカー関係者がサッカーに、やや歪んだ想いを抱くその理由は、「近代競技スポーツ」の肥大化にある。具体的にいえば商業主義への偏り、勝利至上主義の蔓延である。
 一人の選手に対して何億もの年俸が支払われるのは明らかに行き過ぎだし、それを助長する「代理人」こそがスポーツを歪めている。一部の有名選手だけがスポットライトを浴び、まるで芸能人かのように振る舞う様は見ていられない。現役時、引退後、問わずである。またメディアは自国出身のメダリストや成績上位者だけを取り上げるから、対戦相手や敗者の様子がほとんど伝わってこない。
 招致や現地への視察、新スタジアムの建設やエンブレムの作成など、東京五輪に関するトピックスを耳にするたびに、オリンピックなるものがどれだけ金にまみれているかがよくわかる。おそらくクーベルタン伯爵が現状を知れば嘆き悲しみ、そして小さくない怒りとともに大会中止を断行するにちがいない。
 スポンサーの意向を忖度しての大会運営や選手のPR活動は、スポーツではなく明らかに資本の論理で行なわれているし、スポーツに精通していない者がこれみよがしに試合や選手の批評を口にする様子や、認知度を上げるために有名人を呼び水にした番組作りやイベント企画など、スポーツの商業化は絶賛進行中だ。
 やや乱れ打ちにはなったが、これらはあの日の私たちが対談以外の時間で交わした話のごく一部である。ようするに「お金や権威をもたらす勝利をなりふり構わず是とする風潮」が、私たちの心に冷ややかな風を吹かせている。「スポーツは健全である」というイメージを隠れ蓑にして広がりつつあるこの風潮に、ヒラオは興醒めしていたのである。


『近代スポーツのミッションは終わったか 身体・メディア・世界』(平凡社)では、この風潮に対して手厳しくも真っ当な指摘が為されている。この中で今福龍太氏は、勝利よりも芸術的なサッカーを目指すようになったペルー代表を例に挙げて、次のように述べている。「だから、勝つということを目的化しないところで初めて現れる一つのスポーツのタイプがある、そのなかで完結するスポーツのリアリティというものがある。それを忘れてはいけないような気がします」。
 スポーツの世界では「勝たなければ意味がない」とよく耳にする。まるで金科玉条のように流布している言葉だが、ヒラオはここに「勝ちにしか意味を見出せない」という狭量さをみる。
 スポーツ界全体が、今福氏のこの指摘を真正面から受け止めなければならない時代に差し掛かっている。スポーツ本来のオモシロさを取り戻すために、これ以上損なわないために。

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平尾剛(ひらお・つよし)

1975年大阪生まれ。神戸親和女子大学講師。元ラグビー選手の大学教員だが、現役時から7kg痩せたものだから当時の面影は残っておらず。マラソンは大の苦手。

同志社大学時代は長髪にあご髭を生やしてグラウンドを疾走。卒業後は三菱自動車京都を経て神戸製鋼所に入社。ウェールズで行われたW杯日本代表メンバーに選出され(1999)、社会人大会&日本選手権で優勝(2000−01)、新たに創設された日本ラグビートップリーグでは初代チャンピオンのメンバーとして活躍。(2003−04)。

引退時期がちらつき始めた頃に自らの怪我が引き金となって「身体」への興味が湧き、あれこれ研究を開始する。毎日新聞関西版の夕刊でコラムを連載(「平尾剛の身体観測」2006-2011)。その後は『ラグビークリニック』(ベースボールマガジン社)や『考える人』(新潮社)に寄稿するなど、楕円球をペンに持ち替えて奮闘中。

著書に『近くて遠いこの身体』(ミシマ社)、『合気道とラグビーを貫くもの』(内田樹氏との共著、朝日新書)がある。

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