近くて遠いこの身体

第51回 記憶はつくり、そだてるもの

2016.08.10更新

 現役を引退してから今年でちょうど10年となる。ラグビー選手を卒業したのは31歳のときだから、不惑を過ぎてヒラオは41歳になった。
 赤塚不二夫の名作漫画「天才バカボン」をご存知の方は大勢いるはずだ。では、アニメ番組のエンディング曲で流れる「四一歳の春だから〜♪元祖天才バカボンの〜♪パーパーだーかーら〜♪」というフレーズは憶えておいでだろうか。ユーモア溢れる作品の内容とは似ても似つかない物悲しい雰囲気とともに、ヒラオには強烈に心に焼きついている。
「そうか、あのバカボンのパパと同い年になったのか......」
「...............ええっ?ほんまに??」
という小さくない衝撃が、ちょっとした時間差を伴ってこの身を襲う。

 頭にはねじり鉢巻、腹巻に足袋という出で立ちに、鼻の下には鼻毛が髭かわからない数本の毛を生やし、歯も二本だけ。どこからどう見てもおっさんである。それもかなり変なおっさんだ。その年齢にいつのまにか自分が追いついたわけである。これには驚かずにはいられないのはもちろん、なんともいえず複雑な心境である。自分がおじさんなことは自覚しているけど、あんなおっさんではないだろう、もっと若いよ、僕は。

 というように人は老化に抗いながら生きていくのだろう。その意味で、バカボンと同い年になったことをこれほど気にするのは、もう立派なおっさんになった証拠ではある。
 破天荒な言動で周囲を混乱に巻き込みながら、最後は「これでいいのだ」とすべてを肯定する「バカボン哲学」は、よくよく考えればとても滋味深い。ここを掘り下げれば書くに値するテーマになりうるとは思うのだが、今回はスルーしたい。
 今回のテーマは「記憶」である。バカボンのパパと同い年になった今、もとい、引退して10年という月日が経った今、現役時代の「記憶」はどんどん薄れつつある。その一方で、より鮮明になりつつある「記憶の一部」もある。総量としては薄れつつも、部分的には強化されているような実感があるのだが、このあたりについて掘り下げてみたいと思う。


 会う人会う人に「元ラグビー選手です」と自己紹介するときなどに、かつて自分がそうであったことをふと思い出すものの、普段はほとんど自覚することはない。本を読んだりものを書いたり、講義をしたり実技をしたり、酒を飲んだりしてるときにはすっかり忘れている。無意識のなかにどっぷり沈み込んでいる。現在は大学教員なのだからそれは当然のことで、やめてから10年も経てば記憶の数々は色褪せてゆく。まことに寂しいものである。
 だが、いざ誰かにわかってもらいたくて話を始めたときには、意外にもことばが連なる。伝えよう、伝えたいと意図するほど、たどたどしいながらもことばが口をつき、当時の記憶がよみがえってくる。話すにしろ書くにしろ、無意識のなかにしまい込まれた記憶の数々は「ことばにする」という営みを通じて、カラフルな色彩を帯びて再び意識化されるのではないかと思う。

 たとえばあれは高校生のとき。創部以来、最強のメンバーではないかと期待されて臨んだ花園(全国高校ラグビー大会)では、大阪府予選の準決勝で啓光学園に敗れて涙を飲んだ。悔しい思い出だ。ノーサイドの笛が鳴る前に勝負の大勢が決した時点で堪えきれずに涙を流したのは、後にも先にもこの試合だけである。
 卒業してしばらくは、たまに集まった仲間同士の飲みの席などで当時の話に花を咲かせたものである。「あそこでパスをしていれば」「モールの対策が十分であったなら」などのタラレバ話で、切なさと悔しさとやるせなさを増幅させつつ溜飲を下げたり、そこから一歩進んで「敗因はどこにあったのか」「試合への臨み方に不備はなかったか」などと、俯瞰的に自分たちを見下ろす視線から冷静に語り合った。

 大学一年のときは怪我に泣いた。
 Bチームでの活躍が認められ、関西リーグの終盤のある試合でようやくファーストジャージに袖を通す機会を得た。だが、前日の試合で左手首を痛めていて満足なプレーができなかった。パスを受け取るだけでも激痛が走る状態ながら、どうにかこうにか試合終了まで凌ぎ切り、翌日、病院で検査を受けると左手首舟状骨骨折で手術が必要との診断が下った。「こんな状態でよく試合に出たね」と医者に言われ、(そりゃ痛いはずだわ)と痛みの原因に自分自身が納得したあとに、やっとつかんだレギュラーを瞬時にして逃した現実に思い至り、うなだれるしかなかった。
 この経験は、高校まで無条件に第一線で活躍してきたヒラオにとって初の挫折であり、ギプスで固めた左手首を吊りながら自チームの試合を観客席から眺めているときのやるせなさが、この記憶にはこびりついている。(肝心なときになにをしているんだ、おれは)と、弱気の虫を必死で押さえつけていた当時の心境は、思い出すほどに心がチクチクする。

 なんだか負けたり怪我をしたりの話ばかりで申し訳ない。そういえば拙著にもそんな話ばかりを書いていた気がするが、ネガティブな記憶の方に生々しいリアリティを感じるヒラオは、どうしてもそこばかりに意識が向く。苦い思い出は、活字にすれば少し気持ちが楽になるから、ついそうしてしまうのである。
 とはいえこれはヒラオの都合だ。痛々しかったり、苦々しい内容は、意図せず読者をそちらに引き込むことになる。というわけで今回はちょっとだけ自慢話を披露してみたい。

 大学時代を振り返ると3年生のときがもっとも好調で、フルバックで出場した開幕戦では一人で六トライを記録した。場所は花園ラグビー場、対戦相手が立命館大学だったことだけは憶えているものの、それぞれのトライをどのようなかたちで奪ったのかはもう忘れてしまった。どのトライも、味方が相手をおびきよせたあとにくれたパスばかりだったことだけは憶えているのだが、あくまでも記憶は朧げだ。
 と、思い出した、最後のトライだけはっきり憶えている。タックルする相手を吹っ飛ばしたのだった。巧みなステップで相手を躱すタイプのヒラオが柄にもなくタックルを弾き返して奪ったものだから、あるチームメイトが驚いて駆け寄ってきたシーンが浮かんだ。181cm78kgという、最近のラグビー選手に比べるとずいぶん細身なヒラオが、相手ゴール前でつかみかかる相手にぶち当たってそのままインゴールに倒れこんだ。颯爽と走りこむのではなく、人混みをかき分けてゴールラインを超えた、そんなトライだった。そうだったそうだった。

 さらにもう一つ。その開幕戦から好調を維持したまま迎えた大阪体育大学戦では、曰く説明しがたいトライを記録した。インゴールにボールを置き、トライをしたあとにふと振り返っても、ここまで自分が走ってきたコースが皆目見当がつかないのである。どうやってトライにまで至ったのか、その道筋が記憶からすっぽり抜け落ちていた。
 そのときの情況を回顧すると、パスを受けたヒラオはフォワード(主に肉弾戦を得意とするポジションの総称。スクラムやラインアウトを行う)数人が集まる密集に突っ込んでいった。狭いエリアにたくさんの人が集まっているのだから、走り抜けるスペースはほぼないに等しい。約10メートル四方のエリアに5人はいたと思う。にもかかわらずその密集を相手タックラーに触れられず抜け出した。当時、あとから映像を見返しても「よくぞこんなところを走り抜けられたものだ」と我ながら感心したものである。確か4回ほどステップを踏んだとは思うが、記憶は定かではない。間合いを見切り、掴みにくる相手をギリギリのところで躱し、急加速して逃れる。まるで瞬間移動しているような動きだった。


 カラフルな色彩を伴っていたかどうかの判断は読者に委ねるとして、以上が即興的に現役時代を振り返ってふと思い出した記憶の一部である。放っておけばどんどん遠のいてゆく記憶の数々も、こうしてことばにすることによって曲がりなりにもひとつのかたちになる。文章という衣装をまとえばその容貌は露わになるというわけである。
 あくまでもヒラオの実感に過ぎないのだけれど、たぶん過去の記憶は自分ひとりでただぼんやり思い浮かべるだけでは、いつまでもカオスのままなのだと思う。当時を振り返りつつぼんやり中空を眺めてニヤニヤするのも、また楽しいひとときではあるけれど、時間の経過とともにそのカオス的な記憶はどんどん色褪せてゆく。そうして記憶は、いつのまにか「亡きもの」となる。ともすれば「かつてのオレはすごかったんだ」というすがりつくような気持ちとともに、他人が聞けばなにがどうすごいのかが一向にわからないただの自慢話と化してしまう。深酒したときの自慢話はまあよしとして、常日頃からこうした語り口で過去を開陳することだけはできれば避けたい。
 語れば語るほど、書けば書くほど、記憶は鮮明になるのだと思う。


 こんなふうに思うきっかけとなった一冊の本がある。詩人の長田弘が書いた『記憶のつくり方』(朝日文庫)だ。
「記憶は、過去のものでない。それは、すでに過ぎ去ったもののことでなく、むしろ過ぎ去らなかったもののことだ。とどまるのが記憶であり、じぶんのうちに確かにとどまって、じぶんの現在の土壌となってきたものは、記憶だ。
 記憶という土の中に種子を播いて、季節のなかで手をかけてそだてることができなければ、ことばはなかなか実らない。じぶんの記憶をよく耕すこと。その記憶の庭にそだってゆくものが、人生とよばれるものなのだと思う。」
 ジャングルジムの頂上から落ちたときの痛ましい思い出、風邪で学校を休んだときの午前の明るい光に感じる孤独、父に肩車されたときの見晴らし、遠い街の喫茶店でルクセンブルク製のコーヒー茶碗でコーヒーを飲みながら読む「老子」の味わいなど、よく耕された記憶の数々が彩り豊かに描かれているこの本のあとがきに、長田氏はこう綴っていた。


 過ぎ去ることなく自分のなかにとどまった「記憶」は、決して永遠不変な事実などではない。それは、みずからが耕すことでかたちづくられる。
 ある試合を、ある場面を振り返り、自分のなかから感じたことをひとつひとつことばにしてゆく。あるいは引退後なら、指導者という立場から教える選手のプレーを見ていてふとよみがえるものをことばにする。そうして「スポーツでの経験(記憶)」は確かなものになるのだと思う。

 大会で優勝することも、オリンピックに出場することも、一つの功績であり大切なことに違いはない。だが、スポーツの本質はそこに至るまでの道筋にこそある。なにに狂喜し、なにに打ちひしがれたのか。躓いたのはどこで、それを乗り越えるためにどんなことに取り組んだのか。まるで誰かに操られるようにして動けたプレー、音がなくなり時間が消えたように感じた瞬間などの不思議としかいいようのない体験。それらの汎用性に思いを馳せつつ、どうしても揺れ動く感情の一つ一つを丁寧に掘り起こしながら、たとえ最初は不格好でもことばにしようと努める。この「記憶を耕す」という営みを通じて、豊かなスポーツ経験を有する元選手の人生は広がるのだろうと思う。こうして現役時代と引退後に隔てのない人生が、徐々にではあるが築かれてゆくのではないだろうか。
 この10年で耕せたのはごくごく一部だ。まだまだ残る手つかずの荒地にヒラオのまなざしは向いている。

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平尾剛(ひらお・つよし)

1975年大阪生まれ。神戸親和女子大学講師。元ラグビー選手の大学教員だが、現役時から7kg痩せたものだから当時の面影は残っておらず。マラソンは大の苦手。

同志社大学時代は長髪にあご髭を生やしてグラウンドを疾走。卒業後は三菱自動車京都を経て神戸製鋼所に入社。ウェールズで行われたW杯日本代表メンバーに選出され(1999)、社会人大会&日本選手権で優勝(2000−01)、新たに創設された日本ラグビートップリーグでは初代チャンピオンのメンバーとして活躍。(2003−04)。

引退時期がちらつき始めた頃に自らの怪我が引き金となって「身体」への興味が湧き、あれこれ研究を開始する。毎日新聞関西版の夕刊でコラムを連載(「平尾剛の身体観測」2006-2011)。その後は『ラグビークリニック』(ベースボールマガジン社)や『考える人』(新潮社)に寄稿するなど、楕円球をペンに持ち替えて奮闘中。

著書に『近くて遠いこの身体』(ミシマ社)、『合気道とラグビーを貫くもの』(内田樹氏との共著、朝日新書)がある。

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