近くて遠いこの身体

第52回 声の手触り

2016.09.12更新

 レストランや居酒屋なんかで「すいませーん!」と声をかけても店員が振り向いてくれない。もう一度「すみませーん!!」と大きな声で呼びかけても依然として気がついてくれない。ちょっとイラっとして「す・み・ま・せーん!!!」と滑舌に気をつけながらさらにヴォリュームを上げると、ようやく店員と目が合ってホッとする。
 こんな経験は誰しもにあるのではないかと思う。仕事のストレスなど精神的に疲れているときは気づいてくれないことに苛立ち、さらにそんな些細なことに苛立った自分の狭量さに落ち込んだりもする。懸命に呼びかけているのにもかかわらず、相手が気づいてくれない。暖簾に腕押しなこういう事態は、まことに寂しい。

 これとは反対に、こちらが望みもしないのに耳に飛び込んでくる声というのもある。
 ヒラオは最近、喫茶店でなにげなく過ごす時間を好む。なにも予定がない休日には、街までぶらりと出かけて馴染みの喫茶店で本を読んだり、煙草をふかしながらボーッとすることが多い。できることならカフェよりも純喫茶がよくて、「いらっしゃいませ、こんにちは〜」「メニューはこちらでございます」「決まりましたらお呼び下さいませ〜」といったマニュアル的ではない、肩の力が抜けた店主(もしくは店員)の「なんにしましょ?」が妙に落ち着く。分煙の名の下に間仕切りされた喫煙ルームに閉じ込められることもなく、気兼ねせず煙草を吸えるのもよい。

 世間の喧騒から離れて、ひとり静かに過ごせる時間が喫茶店にはある。とはいえ他のお客さんがいるのでまるっきりの「一人」になれない。だけど不思議なことに、見知らぬ他の客と同じ空間にいると「独り」にはなれる。
 そこにあなたはいるのだけれど、あなたのことをわたしは知らない。まったくの他人だ。でもそんなあなたの前であっても、同じ空間をともに過ごす者としての振る舞いを欠かすことはできない。暑いからといってパンツ一丁にはなれないし、独り言を呟くわけにもいかない。「たまたま居合わせた客」とのあいだにはごくわずかな気遣いを必要とするささやかな関係性が立ち上がる。適度な縛りがあるその雰囲気のなかでほのかに感じられるのが、「独り」である。

 ヒラオはあるときから喫茶店で原稿を書くようになったのだが、たぶんそれはこの「独り」を求めるがゆえのことだったように思う。「思う」としたのは知らず知らずのうちにそうしていたからだ。自宅の部屋で「一人」なら、読みかけの本を読むことも、録画していたNHKスペシャルを観ることも、それこそそのままベッドに潜り込むことだってできる。髪の毛がボサボサでも汗臭くても、自分が苦にならなければそれでよい。
 だから「一人」でいるときには必要以上に気持ちが緩み、ともすればリラックス状態を通り越して怠けモードへと突入してしまう。
 その意味で「一人」は窮屈だ。
 それに対して見知らぬ誰かに囲まれながらの「独り」は、ある種の制限は強いられるものの、なんとはなしに解放感なるものを感じられる。
 あらためて言うほどのことでもないが、限られた空間に身をおく以上その場でできることしかできない。喫茶店でできることは本を読む、原稿を書く、手帳を見る、音楽を聴く、考え事をするくらいだ。旨い珈琲とともにそれらに耽溺する時間が今のヒラオにはとても心地よいのである。

 閑話休題。
 声について書いていたのだった。
「独り」になれる環境が整っているとはいっても、喫茶店はいつのときも静寂なわけではない。しばしば店内のBGMが聞こえなくなるほどの喧騒がもたらされる。そう、「おしゃべりなおばちゃん軍団」が来店したときである。店内に響き渡るかのような大声で世間話をする「おばちゃんたち」は、静寂な空間をズタズタに引き裂く。芸能ゴシップから家族や友達の噂話まで、交わす話の内容は多岐にわたる。周期的に訪れる笑い声の大合唱には思わずビクリとするし、関西ならではのオチを忘れない雄弁な語り口につい聴き入ってしまい、ある種の敗北感を味わうのも悔しい。
 音楽が流れるイヤホンを突き破って聞こえてくるこれらの声は、締め切り間際の原稿を抱えたヒラオにはただただ集中を妨げる雑音でしかない。

 よくよく思い返せば、こうした現象はなにも「おばちゃん」だけに起こることではなくて、営業仕事の合間に立ち寄ったであろうサラリーマン風の男たちや、学生と思しき若人にもみられる。彼ら彼女らの大きな話し声は驚くほどクリアな音源として耳に飛び込んでくるから不思議だ。
 おそらくというかぜったいに、彼ら彼女らはたまたま近くに居合わせただけの、見ず知らずのヒラオに声を届けようとは思っていないはずだ。なのに、届く。周囲を取り巻く数多の音をかき消して。
 声というのは、届けたい意図に反して思うように届かなかったり、届かずともよいのに勝手に届けられたりする。


 声の特性について竹内敏晴は次のように述べている。
「(...)声とは、単に空気の粗密波という観念によって表象されるような、抵抗感のないものではないことが実感されてくる。肩にさわった、とか、バシッとぶつかった、とか、近づいてきたけどカーブして逸れていった、というような言い方で表現するほか仕方のないような感じー即ち、からだへの触れ方を、声はするのである。声はモノのように重さを持ち、動く軌跡を描いて近づき触れてくる。いやむしろ生きもののように、と言うべきであろうか。」

  声には物質性がともなう。しかもそれは無機質な物体ではなく、「まるで生きもののよう」なものとしてある。
 そういえば喫茶店での耳をつんざくあの話し声は、まるでメデューサの頭に生える蛇のようにニョロニョロと四方八方に広がっている。そのうちの一匹がヘッドホンを通り抜けて頭の奥に侵入してくるわけだ。メデューサたちが入店してきたらいつもそそくさと店を後にしていたのは、頭の中を食い破られないように防御するためだったのかもしれない。

 とすれば冒頭に述べた「呼びかけているのに届かない声」はどうか。
 矢を射抜くように出したはずの声が射程距離のはるか手前で失速して落ちたのか、あるいは霧吹きで水をかけたときのように拡散して雲散霧消したか。いずれにしても「生きもの」の喩えではないのだけれど、その運動性は有機的だ。周波数やデシベルでは表象しえない声なるものがそこにはある。
 くぐもっていてよく聞き取れない声、滑舌はいいのに印象に残らない声、別れたあとに余韻を引く声などなど、声にはさまざまな手触りがある。そのひとつひとつを観察してみるのもオモシロいだろう。喫茶店で過ごすときの楽しみがまた一つ増えた、ということにしておこう。

参考文献
『「からだ」と「ことば」のレッスン 自分に気づき・他者に出会う』竹内敏晴(1990年、講談社現代新書) 

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平尾剛(ひらお・つよし)

1975年大阪生まれ。神戸親和女子大学講師。元ラグビー選手の大学教員だが、現役時から7kg痩せたものだから当時の面影は残っておらず。マラソンは大の苦手。

同志社大学時代は長髪にあご髭を生やしてグラウンドを疾走。卒業後は三菱自動車京都を経て神戸製鋼所に入社。ウェールズで行われたW杯日本代表メンバーに選出され(1999)、社会人大会&日本選手権で優勝(2000−01)、新たに創設された日本ラグビートップリーグでは初代チャンピオンのメンバーとして活躍。(2003−04)。

引退時期がちらつき始めた頃に自らの怪我が引き金となって「身体」への興味が湧き、あれこれ研究を開始する。毎日新聞関西版の夕刊でコラムを連載(「平尾剛の身体観測」2006-2011)。その後は『ラグビークリニック』(ベースボールマガジン社)や『考える人』(新潮社)に寄稿するなど、楕円球をペンに持ち替えて奮闘中。

著書に『近くて遠いこの身体』(ミシマ社)、『合気道とラグビーを貫くもの』(内田樹氏との共著、朝日新書)がある。

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