近くて遠いこの身体

第56回 楕円球だからこそ

2017.02.26更新

 今月からラグビーに関するあれこれを骨太に書いていこうと思う。
 
「近くて遠いこの身体」と題されたこのコラムでは、当然のことながら身体にまつわることをテーマに書こうと努めてきた。日常生活で感じる様々な身体実感をもとにその一コマ一コマを切り取り、それらをなるべく専門用語を使わず平易な言葉に置き換える。そうして、「わかっているつもりで実のところはよくわかっていない身体」についてどうにかこうにか描こうと画策してきた。

 皆さんもお気づきだろうが、一年ほど前から主語を「ヒラオ」にした。何の断りもなくいきなり変えたので驚かれた方もいるかもしれない。だがこれには一つの理由があった。第三者的な視点を取り入れ、俯瞰的にみることで身体の実相が浮かび上がるのではないかと考えたのだ。

 感覚そのものや、ほのかに感知していながらもその理路がよくわからない空気感や雰囲気は、いったん主観を離れることでしかその全体像はみえてこない。その瞬間、その場にいる人しか感じ得ない主観を現象学は重んじるが、その主観的な観察は、そこから離れて客観的に眺めることによって初めて言葉になる。こうした言葉を紡ぐことで他者へと伝わる、すなわち伝播性の高いテクストになる。
 主観と客観を行き来する、このアクロバティックな立ち位置の入れ替えによって、その場のその瞬間にしか知覚できないあれこれが説明可能となる。心身を一元的に捉えようとすれば、この立ち位置の入れ替えは避けられない。
 つまり「ヒラオ」という仮想的な人格に客観を任せ、彼に筆者である僕そのものの身体実感を代弁する役割を担ってもらおうとしたのだった。

 この試みがどれだけ功を奏したのかは読者一人一人に訊ねてみなければ本当のところはわからない。ただ書き手の立場からはささやかな手応えを感じている。主語を変えることで客観的な立ち位置への移動がスムースにできた。そう実感している。

 しかしながら最近になっていささか迷いが生じている。ささやかな手応えは感じてはいるものの、どことなく困惑している自分がいるのだ。己れが雲散霧消してゆくような漠然とした不安が、どうしても拭えない。
 この困惑や不安はいったいどこからくるのか。
 しばらく考え続けて思い当たったのは「主観の揺らぎ」であった。
「僕」の影が薄くなりつつある。主観と客観を行き来するうちに、土台となる主観に置くべき軸足がブレ始めている。自分の書いたテクストを読み返すなかで散見された、著名な学者の考え方をなぞる、一般論で結論づける、両論併記で語尾を濁すといった逃げともいうべき言い回しに、それが表れている。

 これではいけない。どうしたらよいのだろうか。
 困惑したときは初心に戻るのが一番である。もつれにもつれた思考を解くには出発点に戻ればいい。

 では出発点とはどこか。それは言うまでもなくラグビーである。
 そしてたどり着いた結論が冒頭の「ラグビーに関するあれこれを骨太に書く」だった。ラグビーで人格形成を果たした僕だから、客観的な立ち位置でラグビーを語ることなど到底できない。不可能だ。どれだけ努力して客観的な立場に身を置こうとしても主観的なテクストになるのは免れない。ラグビーは、今の僕という人間を根本からかたちづくっているからである。

 だから敢えてこのテーマを掲げることで失いつつある自分を取り戻そうと思う。主語を「ヒラオ」から「僕」に戻し、ラグビーについて主観を剥き出しにしてゴリゴリに書いていきたい。

 奇しくも2019年にはこの日本でラグビーワールドカップが開催される。元ラグビー選手として、また今もラグビーに携わる者として、開催までにできるだけラグビーの認知を高めたいという思惑は当然ある。自分を取り戻し、ラグビーの認知を高めるという目的を果たすべく今回からテーマをラグビーに絞ることにする。恋人を自慢するかのごとく大いに惚気ていくつもりだから、半ば呆れつつもニヤニヤしながら最後まで読んでいただければありがたい。


 それでは始めよう。

 ラグビーはオモシロい。他に類をみないオモシロさが凝縮されている。ボールが歪な形をしていようが、ルールが複雑だろうが、そんなことは関係ない。むしろそれがラグビーをオモシロくしているとさえ思う。他の球技と一線を画す、いわば分節線として機能している。
 そこからまずは述べていこう。

 ラグビーボールは歪な形をしている。球体ではなく楕円球だ。どっちに跳ねるかも、どこに転がってゆくかも予測がつかない。その行方をつかみ損ねてボールに振り回されることもある。球体のボールに慣れ親しんだ人たちからすれば、なぜこんな形をしているのかに疑問を抱き、そこに不便さや不可解さを覚えるだろう。初心者なら扱いにくいボールに嫌気が差して興味を失う人もいるだろう。
 だが経験者は口を揃えて言う。楕円球だからこそのオモシロさがあるのだと。

 僕も最初は戸惑った。ボールに振り回されるたびに、「なんで丸くないんや」と苛立ちを感じたものだ。だが不思議なことに、練習や試合を重ねるごとにだんだんその規則性がつかめてきた。
 地面に落ちる瞬間の角度を見極めればどちらに跳ねるのかがおおよそわかること。キックにしろパスにしろ、うまく回転を加えればわずかな力で遠くまで放てること。ランニングする際にはその持ち方を工夫すれば、またキャッチの際には角度を見極めれば、むしろ球よりも扱いやすくなること。地を這うように転がったのちにあるタイミングで高く跳ね上がること。

 より丁寧に観察し、それをもとに接し方を工夫しさえすれば、ボールは手に吸いついてくる。
 その動向が予測できる球体ではこれほどの工夫は必要としないだろう。このように跳ねるだろうという予測は、球体であればほとんど間違えることはない。だが、楕円球だとそうはいかない。おそらく右だろうなという予測を立てても左に跳ねたりする。だから常に「予測が外れるかもしれない」という準備をしておかなければならない。

 つまり、楕円球をうまく扱うためには「不測の事態に備える身構え」が強いられる。外れるかもしれない予測を立てるわけだから、そこにはかすかな迷いや躊躇が生まれる。気持ちの片付かなさを抱え込みながら選手はプレーせざるを得ないわけで、大げさにいえば「臨機応変に反応できる身体」が求められるわけだ。
 おそらくは右に跳ねるだろうからそれに備えて動き出す準備をしつつ、万が一左に跳ねたときにも対応できるように、ボールに向かい合う。うまく予測が当たれば御の字で、外れたときは致命的なミスに至らないように対処する。どっちつかずといえばその通りだが、たとえ結果がどちらになってもそれなりに対応できる身体を、僕は「臨機応変」と形容したい。
 こう考えれば、楕円球は不測の事態に処するための身構えを身につけるには最適な形だ。


 そもそも完璧な球体はこの地球上に存在しない。重力の影響を受けるからだ。自然科学の進歩によって、昨今ではより完璧に近い球体としてのボールを作れるようにはなった。だが、どのスポーツのどのボールも完全なる球体ではない。近代スポーツの草創期には解体した豚や牛の膀胱を膨らませ、それに皮を張ってボールを作っていたというのだから驚く。試合中に破裂することもあるほど耐久性は低く、現在ほどの弾力性もなかったという。

 時代とともにボールは進化した。材質がよくなり、より球体に近い扱いやすいものになった。いつしか私たちは球体をスタンダードだと思い込み、それとは異なる楕円球を異端として常識に登録した。だが歴史を振り返れば、歪な形のボールで行っていた時期のほうが長い。
 ラグビー選手は、制御しにくい楕円球をどうにかして制御しようとすることにオモシロさを感じている。このオモシロさは、もしかすると太古の人々が球技に見出していた楽しさと同質なのかもしれない。制御できず、扱いにくいものへの処し方を学ぶ契機として球技があった。太古の人々が球技をすることで味わっていた興奮がこのオモシロさの正体だとすれば、筆舌に尽くしがたい感情が胸に湧いてくる。

(続く)

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平尾剛(ひらお・つよし)

1975年大阪生まれ。神戸親和女子大学講師。元ラグビー選手の大学教員だが、現役時から7kg痩せたものだから当時の面影は残っておらず。マラソンは大の苦手。

同志社大学時代は長髪にあご髭を生やしてグラウンドを疾走。卒業後は三菱自動車京都を経て神戸製鋼所に入社。ウェールズで行われたW杯日本代表メンバーに選出され(1999)、社会人大会&日本選手権で優勝(2000−01)、新たに創設された日本ラグビートップリーグでは初代チャンピオンのメンバーとして活躍。(2003−04)。

引退時期がちらつき始めた頃に自らの怪我が引き金となって「身体」への興味が湧き、あれこれ研究を開始する。毎日新聞関西版の夕刊でコラムを連載(「平尾剛の身体観測」2006-2011)。その後は『ラグビークリニック』(ベースボールマガジン社)や『考える人』(新潮社)に寄稿するなど、楕円球をペンに持ち替えて奮闘中。

著書に『近くて遠いこの身体』(ミシマ社)、『合気道とラグビーを貫くもの』(内田樹氏との共著、朝日新書)がある。

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