コラム道

先週にひきつづき、小田嶋隆先生による「コラム道」ライブ版です。
2010年5月8日、寺子屋ミシマ社のスペシャルゲストとして来ていただき、ミシマガ連載でおなじみの「コラム道」を生語っていただいた、その後編です。

第2回の今日は、「プロと素人書き手を分けるもの」。コラムニスト小田嶋隆先生が語る、「プロのライターとして通用するポイント」とは?
ちなみに、私のハートを射抜いた名言はこれです。
「調子が悪いときの小田嶋さんの原稿は、調子のいいときの素人よりも悪い」
ささ、もうこれ以上は申しますまい。ごゆるりと堪能くださいませ。
(聞き手:三島邦弘)

前回「『コラム道』番外編・その1」はこちら!

第9回 「コラム道」番外編・その2

2010.07.01更新

取材するほど自縄自縛に

小田嶋ライターにできることって実はすごく限られていて、コラムニストが書ける範囲というのもそんなにありません。取材している連中の書くものと、取材しないで書くものは、たぶん必要な資質も違うと思います。取材力もライティング能力のひとつですが、取材力というのは、持ってる人は持っているけれど、持ってない人は絶対に持ってない。

私なんかはまったく持ってない。取材するほど自縄自縛に陥ってしまう(笑)。もう少し突っ込まないといけないところでも、ひるんで突っ込めませんし、サッカー選手のインタビューにしても、会ってなければ「あいつはここがダメだ」「もっと突破しないといかん」とか平気で書けるんですけど、会うと「いいやつじゃん」って思ってしまうんですね。「あいつもあいつなりに頑張ってるんだ」ってことになると、すごくぬるい浅ーい原稿になってしまうんです(笑)。

―― なるほど(笑)。性格とかも大きく影響しますね。

小田嶋記者魂というのは、多少不愉快な思いやめんどくさい取材、やっかいなブロック、圧力を乗り越えて行く根性が大事ですよね。それに、会社の看板で取材に行くとか、いざとなったら会社が守ってくれるという後ろ盾があるところから経験を積むのも大事なことだと思います。書きすぎて問題が起きたときの訴訟リスクもありますから。

新人は自由が丘の何とか祭りに行って、金魚すくいのおじさんから話を聞く、みたいなところから少しずつ経験を積んで行く。いきなり小沢一郎に突っ込んで取材なんてできることじゃありませんからね。だから、記者魂もやっていけば身につくことかもしれませんが、いきなりできることではないわけです。

―― 確かに。

小田嶋それに、例えば私の場合サッカーなら興味があるので多少は突っ込んで話を聞けるかもしれませんが、知らない分野で一生懸命やっている人のことを自分が端から見て「違うんじゃないの?」とか、あまり書けないわけですよ。そういうことですよね。

―― なるほど。

小田嶋編集者の役割はルポとコラムの場合でも違います。編集者さんに、取材のハンドリングをしてもらう。取材のアポや現場の責任とか、そういうことは編集者さんがやる。ライターは書くだけにしてくれるメディアもある。
フリーのライターがいきなり「小田嶋と申します」と言って「誰だお前?」というところから始まる取材と「講談社です」とか「朝日新聞です」と言って「ちょっと待ってください」と広報の人が出てくるところからの取材ではまったく違うわけです。

それは、サッカーの場合も同じです。サッカーの記事を書く場合でも取材パスというのは、すべて会社単位で出るわけです。記者クラブ制はいま、すごく評判の悪い問題になっていますが、ある意味では必要悪なところも若干あります。そういうふうにしないと、今日誰が取材にくるかを主催側は把握できないですからね。サッカーダイジェストさんに席を2つ、サッカーマガジンさんに2つ、報知新聞さんと各新聞社さん、放送記者クラブさんにそれぞれ何席、という取材パスを配って記者席を用意する。なので、「小田嶋です」と言って電話したところで、記者席には、絶対に入れてもらえないわけです。要するに記事を書けるのは、記者席に入れる人間、インサイダーだけです。

ところが、そのインサイダーに入ってしまうと書けないことも実はたくさんあるんですね。私もそこに入って記事を書いたことが何回かあるのですが、そうすると、義理が発生しまくっているので、書きたいことを書けないんです。私が記事を書くのに、いろいろな人が骨を折ってくれてようやく入ったわけなので「日本代表全然だめじゃん」なんていうことは簡単に書けない。

―― なるほど。

小田嶋だから「正式な取材者じゃない人の方が自由に記事を書ける」という不思議なことが起こったりもするわけです。取材してないで浅い見方をしている人の方が深いことを書けたりすることも場所によっては起こるんですね。

―― それってほんとに不思議ですね。

小田嶋何かが間違っているんだと思います。本当は取材した人間が遠慮なく書けるようにならなくてはいけないんですよ。だけど、やっぱり難しいでしょうね。サッカーの話をついしてしまいますが、私は日本代表監督はジローラモでもいいと思ってるんです(笑)。なぜジローラモでもいいかというと、とにかく監督は外国人じゃないとダメということです。

日本人が監督をやってしまうと「あれは○○派閥なんじゃないか?」とか、そういう嫌なことがすごく残る。「もっと気を使ってくれ」とか「あいつオレのこと嫌いだから外したんじゃないか」とか、そういうごちゃごちゃぐねぐねしたものが発生するわけです。非サッカー的な「慮る」とか「空気読め」とか、気持ち悪い日本語がたくさん出てくる。それに、岡田監督は今度のワールドカップが終わっても日本のサッカー界にずっと残る人なわけです。トルシエにしろジーコにしろ、じき日本からいなくなる人たちとは、メディアの接し方も必然的に変わってきます。それだけで、かなりの縛りが派生するんですね。

だから、日本みたいにまだサッカーが弱い国ならば、美術界にシーボルトがいて、建築界にコンドルがいて、お雇い外国人がいろいろなものを残していったように、それと同じ段階にまだいるのだから、教えを乞うというかたちで外国人さんに好きにかき回してもらうということをあと5、6回はやらないとダメだと思います。だから、ジローラモでもいいんです。

―― なるほど。

小田嶋ジローラモでもいいし、西麻布あたりのフレンチレストランのソムリエでもいいんです。

―― はははは。そうですか(笑)。

小田嶋ブラジルレストランでシュラスコを切ってる親父でもいい。外国人でさえあれば誰でもいい。

―― あと5、6回は必要ですか。

小田嶋そうですね(笑)。

 *注:小田嶋さんは、最近、日本代表の躍進をうけ、岡田監督と選手に謝罪をしている。「予想外の躍進はブブゼラのおかげだろうか

非ライター的な生活を捨てられるか

―― 記者がそうやって遠慮して書けなくなってくると、小田嶋さんのようなコラムニストの役割がすごく際立ってくると思うのですが、一方で、いまはネットで誰でも書ける時代になっています。取材せずに何でも書いてしまえばいいじゃん、という風潮もあると思うのですが、それと小田嶋さんの考えるコラムニストというのはどう違うのですか?

小田嶋結局、ライターがプロとして通用するかしないかという分かれ目は、一定の水準でものを書き続けられるかどうかだと思います。書いていることがおもしろいかおもしろくないか、ということだけで言うと、単発的にはおもしろいことを書く人はたくさんいますから。

プロサッカー選手と素人のサッカーのうまい大学生では力量差はものすごくある。調子のいいときの素人と調子の悪いときの中村俊輔とでは、どちらがうまいかといったらやっぱり中村俊輔のほうがうまいわけです。でも、ライターというのはそういう職業ではなくて「調子が悪いときの小田嶋さんの原稿は、調子のいいときの素人よりも悪い」わけですよ。

本当です。名前のある人でも、調子の悪いときは相当におかしなものを書くわけです。素人でも神がかったときにはとてもすごいものを書くときがある。でも「何かすごいものを書いたね」という素人が、一年間連載を持って、ある程度の平均点が取れるのか? というと、それは少しまた別の問題になるでしょ。

―― そうですね。

小田嶋ライターの世界はプロと素人の間にそんなにすごい差はありません。ライターがプロとしてやっていけるかどうかは、非ライター的な生活を捨てられるかどうか、というところに掛かっていたりするわけなんです。

自分の昔のライター仲間で、ものを書きつつ、同時にサラリーマンもやっていた人がいました。そういうやつは、時々書くといいものを書くんですが、サラリーマンでも有能だったりします。そうすると、サラリーマンを辞めないわけですよ。そうなると、いざ書こうとなるとそこそこ書けるんだけど、生活を捨ててまでライター一本でやっていくのか? となるとやらない。つまり、彼はプロにならないわけです。

力量の問題じゃなくて、生活を捨てたかどうかの問題なんですね。力量なんかなくても10年やるとなんとなく仕事がきて、大したもの書いてなくてもなんとなくやってるということはありうるわけです。

―― 確かにそうですね。

おもしろくてもありがちなものは、仕事になりにくい

小田嶋ライターが書いているものの良し悪しも時代によってすごく変わる。いまはブログでおもしろいことを書く人たちはたくさんいますが、ブログでおもしろいことを書いてる人が増えれば増えるほど希少価値はなくなってしまうわけですよね。となると、プロの原稿というのは、そこらへんにいる人には書けないような原稿でなければいけない。昔と原稿に求められるものの特徴が少し変わってきてるということです。

それって、説明しにくいのですが、例えばずっと昔、私のおじさんがうちの母親に宛てた手紙を見て驚愕したことがあるんですね。そこでは普通に「○○候らえども」というような「幸田露伴ですか?」みたいな感じの文章が書かれているわけです。教養のある人ではないんですよ。いまはもう亡くなっていますが、そういう文章を普通の日本人が書けた時代があったんですね。大学を出たわけでもない当り前の親父が書いた「東京の暮らしはどうですか?」という程度の文章なんですが、すごい文体で書いてあるわけです。そういう文章を書く能力というのは、戦後になって急速に失われましたよね。

―― ほんとにそうですね。

小田嶋希少価値の問題ですよね。いまの時代、ツイッターやればなんとかなる、とかそういうおもしろさはあるかもしれないのですが、それはもう珍しくなくなってしまっている。私は、ライターの世界でもウェブからデビューするというのは少し幻想だと思っています。ウェブのおかげで出版社に原稿を持ちこむという手続きはいらなくなりましたし、ウェブから一本釣りしてライターになった人たちもいますので、道筋としてはあると思いますが、そういうところばかりに目を向けていてもしょうがない気がしています。

―― そうですね。確かにそう思います。

小田嶋ここで何が言いたいかというと「おもしろくてもありがちだったりするものは、仕事になりにくいですよ」ということですかね。実際、おもしろいんですけど「この手のおもしろさはタダでいくらでも転がってるよ」ということになってしまうと、大して価値はなくなってしまう。単純に「おもしろい」ということで言うと、それが一年間おもしろいかどうかはともかく、瞬間最大風速的にはおもしろい部分はときどきあるので。

アバンギャルドは1割か2割。8割は定型を踏んで

―― 冒頭の話(注:前回にも関係するのですが、20代の頃に編集者に怒鳴られたり、突き返されたりしたということって、いまブログで書いてる人たちは、あまり経験することのないことですよね。

小田嶋そうですよね。

―― 小田嶋さんのように、そこで突き返されて、気分悪くなってもおもしろいものを書かないといけないライターの場合、どうやってモチベーションを引き上げるといいますか、そうやって怒られることによって原稿がおもしろくなることってあるのですか?

小田嶋おもしろくなったかどうかはわかりませんが、文章のとても基礎的なところを教わった気がします。どこをどうやったらおもしろくなるかは自分で考えるほかないと思いますが「ちゃんと説明してから次ぎに行こうよ」というそういう最も基礎的な手順を教わりました。「自分だけがわかってどんどん先に行くなよ」ということですよね。

そういうことって、割と学校教育では教えられないですよね。自分はテクニカルライターの時代すごく説明原稿を書いていたときがありました。ものを説明するとても退屈な原稿を大量生産した時代があります。「バッファメモリとはこういうもので・・・」とか「OSというのは、オペレーション・システムの日本語訳で・・・」というような、書いていて嫌になるような原稿をずいぶん書いていました。

でも、そういう、ものを説明する退屈な原稿をある程度書いたことは、後になって考えてみれば勉強になったと思います。いま書いているような、おもしろがりの原稿の中でも説明しなければいけないこととか、用語解説を踏んでから先に進まなければいけない部分はある。読者についてきてもらうために書かなくてはいけないところは、辛抱づよく書く。そこの忍耐力はついた気がします。

―― なるほど。定型文の書き方をみっちり身につける段階があったのですね。

小田嶋ものをわかるように説明することは、一番必要なことだけど割と退屈なことなんですね。特にコンピューターの技術についての解説は同じことを10回も20回も説明しなければいけなかったりする。ミュージシャンが同じコードを繰り返し練習するのと同じことかもしれません。文章にもすごく定型がある。その定型から外れる部分にもしかしたら、才能とか着眼とか経験というものが絡んで来るのかもしれませんが、学習可能なのは定型だけだったりします。

だから、定型だけはとにかく身につけちゃうと後々いろいろとつぶしがきくと思います。我々が書いている時々アバンギャルドに見える原稿でも、実はアバンギャルドな部分は1割か2割で、8割型は定型を踏んでいる。その中で、飛躍したり踏み外したりするんですね。ルールなしのアバンギャルドな文章に思う人もいるかもしれませんが、時々変な音を混ぜてみせるのは、そのあとの和音を綺麗に響かせてみせるための布石だったりするんです。意外と見え透いた手口だったりするわけです。

―― そこの定型の部分は「なんでや?」と突き返される経験で身についていくわけですね。

小田嶋そうですね。そういうのは若いときじゃないと身につかないときがある。身につかないという力量的な問題もあるし、おっさんに怒鳴られるということに立場的に耐えられるのが20代までだったりする(笑)。

長く続いている出版社には、年齢を重ねたレベル5くらいの編集者がレベル1のライターを育てていくような循環していく流れはあったはずだと思うんです。名物編集者みたいな人たちは、それこそ若い頃の村上春樹の修業時代を知っているとか、そういうことを知っている人がいた。自分で書く書かないじゃなく、いろいろな人たちに対してコーチの目を持っている人たちというのがいたはずなんですよね。

文芸誌なんかは実はそういう人たちの集まりだったりしたはずなんですけどね。文芸誌の編集者って、独特の超然とした不思議なムードがあるんですよね。

―― そうですよね。全然違うなと思います。

小田嶋私なんか緊張してダメだったけどね。

―― ちょっと緊張しますよね。

小田嶋「人に緊張を強いる」っていうことが大切なことだったりする(笑)。

―― そうすると、だいぶ編集者としての役割も違いますよね。

小田嶋そういう人にちょっとでも褒められるとすごくうれしかったりするんですよね。独特のムードでね。「いいと思います」とか。

―― 普段の鞭がきついから(笑)。

・・・と話しているうちに、ちょうど時間になりました。それでは、ここからは質疑応答に移りたいと思います。


次週「そうだ、小田嶋さんに訊いてみました」をお届けします。

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小田嶋隆(おだじま・たかし)

1956年生まれ。東京・赤羽出身。早稲田大学卒業後、食品メーカーに入社。1年ほどで退社後、小学校事務員見習い、ラジオ局ADなどを経てテクニカルライターとなり、現在はひきこもり系コラムニストとして活躍中。

『人はなぜ学歴にこだわるのか』(光文社知恵の森文庫)
『イン・ヒズ・オウン・サイト』(朝日新聞社)
『9条どうでしょう』(共著、毎日新聞社)
『テレビ標本箱』(中公新書ラクレ)
『サッカーの上の雲』(駒草出版)
『1984年のビーンボール』(駒草出版)

日経オンラインで連載中。
『ア・ピース・オブ・警句』(日経オンライン)

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