演劇と氷山

第5回 暗い旅に出る。

2016.06.28更新

 たとえば芸人さんや役者さんがテレビに出るということが、村祭りの櫓(やぐら)に登って人気者になるようなことだとしたら、劇団を作って演劇をやるというのは、村のはずれにビールケースで勝手に舞台を作って何か始めるようなこと、に近いです。

 櫓に登ろうとすると熾烈な競争を勝ち上がらないといけないし、踏むべき手順やマナーもあって、さらに櫓の上に居続けようと思えば並大抵のことではありません。テレビ櫓だけじゃなく映画櫓や音楽櫓もきっとあって、演劇櫓だってありますが、どれも同じく人が上にも下にも溢れんばかりにひしめいていて、そんな中で長らく櫓に立ち続けている人たちは、本当に屈強でしなやかな超人ばかりです。櫓の上はだからいつも面白く、そして村じゅうに見てもらえる。

 そんな面白い櫓を夢中で見て育った僕たちが、なぜだか野原にビールケースを並べて段ボールを敷いて、劇団を始めました。段ボールってことはないけどでもそんな感じで。櫓にまともに並んでも登るにはずいぶん道のりが遠そうだ、って思ったのもあるし、野原でなら今ここで、今いるメンバーですぐに始められて手っ取り早かった。こっちで愉しげにやっていればたまには櫓からお呼びがかかることもあるだろう、という楽観もあったし、あわよくばこっちに賑わいができて新しい櫓みたいになれたらカッコいいぞ、という野心だってありました。

 今だとインターネットがあって、YoutubeやSNSもあって、何でもすぐ始めてすぐ発表することがたやすくなってるし敷居も低くなってるけど、20年前は驚くべきことにそうじゃなかったんです。表現って基本的に「プロのもの」だったし、絵を描くにも文章を書くにも、番組のようなものを作るにも出るにも、「櫓」に登らないとできない特権的なことだった(僕らが大学生のころにネットが隆盛しだしたので、僕らも過渡期にいたんですが)。そんな中で、劇団は「野原から始められる」数少ないこと、でした。

 野原から始めるのは面白かったし、本当に好きなようにできた。何をするにもダイレクトに「対お客さん」で、お客さんが面白がってくれれば話題になって動員が伸びる、つまんなく思われれば閑散とする、というのが分かりやすくてよかった。そして僕らは京都という僻地で始めたので、櫓からフックアップしてもらえることも、櫓の行燈のまぶしさに目をやられることも初期はそんなにはなく、地道にせっせとビールケースの設えをよくし、客席を整え、賑わいを作り、櫓の上にいてはやりづらそうな活動を積極的に選んでやっていきました。なんなら本当に野外に舞台を組んで劇をしたことも初期の初期にはあって、それはでもさすがにコメディをやるには環境があれでしたが。

 そうして自分たちで場所を作って始めたつもりでも、お客さんが増えはじめ、東京や各地で公演をやっていくうちに、あの明るく輝く櫓の灯りが、どうしても目に入ってきてしまうんですね。自分たちの劇が映画化してもらえたり、役者がちょっとずつ櫓に呼んでもらえるようになったり、そこで長らく櫓でやっている辣腕の先輩方と触れてゆくうちに、「ああ、櫓ってやっぱり凄いものだな」ということが改めて分かってくる。皆さん筋肉が違うんですよ。もちろん僕らだって足腰はそれなりに強くなってるし、スタッフだって分厚くなってるんですが。

 そして、劇団の運営ってやっぱり「窓の外の景色を変えていかないと、劇団員が飽きちゃう」ようなところがあって、次はこんな環境、次はこんなステージ、ってステップを重ねているうちに、いつしか知らず知らず、櫓の方へ吸い寄せられていくんです。見晴らしが少しずつ良くなっていくのは快感でもあり、親戚や友達が喜んでもくれるし、観てもらいやすくなるのは当然望ましいことで。

 そうやって結成から12年ほど経ったころ、僕らが学生時代から憧れようにも遠すぎるほど遥か霞の向こうに見えていた劇場で、ようやく本公演をやれることが決まり、さあ来るところまで来たぞ、と鼻息を荒くしたところで、急に言いしれない不安に襲われました。「あれ、ここから先はどこを目指せばよかったんだっけ」と。そんな大げさな、と思われるむきもありましょうが、それだけ僕の中ではそこが大きなランドマークだったんです。そこへ到着したときのことを考えてなかったので、ここからもう景色の変えようがないぞ、とひどくうろたえたのを覚えています。なのに船は加速度を増しているような感覚もあって。そして目の前にはよけきれない氷山がありました。

 劇団員に肩を貸してもらうようにして公演をなんとかやり終えたのち、そのことを打ち明けて、しばらく休みをもらいました。こんなときにわが社長と制作は懐が深くて、「まずは健康が何よりだ、劇団のことは当面任せなさい」と夏休みのような時間をくれました。まあ僕がプレッシャーに弱かったということなんですが、でもいつか陥っていたことかな、と今となっては思います。

 休んでみてやりたくなったことは、京都で、自前でテレビ番組を始めることでした。もう一度、野原から何かを始めてみようという気分で。それまでにも僕らはいくつかのテレビ番組をやらせてもらいましたが、それらは櫓のシステムに則りつつ、櫓の位置エネルギーを利用してやったことでした。そうではなく、たとえばYoutubeで番組を作るように、自分たちでカメラを回して出演して編集してそれを放送する、ということが、京都でならもしかしてできるかもしれない、と思ったんです。社長の吉田といっしょに企画書を作って持ち込んだら、KBS京都さんが「製作費はありませんが、枠はありますよ」と言ってくださいました。自分たちで完パケ納品すれば放送してくれるというのです。

 こうして僕らは再び野原へ出ました。なにせ手弁当なので、カメラは1台、レギュラーは2人、クルーも2人、テロップは1種類、という最小限の装備で始めることにしました。ドラマを作ったりするのはスペック的にしんどいので、「ドキュメンタリーバラエティ」というスタイルで行くことに。ドキュメンタリーならいちばん軽装備で作れるのでね。それでも毎週作るのは厳しそうなので、2週間に1回は新作を作って、あとの1回は再放送、というわがままな編成をお願いしました。そして新しいディレクターを一人、未経験でもいいので情熱と時間のある、安くでもがんばってくれそうなタフな人を探したら、西垣くんという劇団を始めたころの僕らみたいな人が来てくれました。本当にカメラを持ったことがなく、1回目の収録はちっとも撮れてなくてボツになりました。でも撮ってみてボツにできるというのも自前で作っていることのいいところで。

 番組名は、「ヨーロッパ企画の暗い旅」としました。「我々」というバンドの曲に「暗い旅」というタイトルの歌があって、「馬のいななきで目を覚ました 僕は雨の中 となりで眠る君にさよなら 一人で歩くぞ 暗い旅に出る」から始まって「僕しかできない すべてを生きるつもり」で終わるという、当時の僕の心境をそのまま歌ってくれすぎている歌詞なんですが、曲調が脱力感あってちょうどよく、なので番組のメインテーマにさせてもらいました。

 第1回の放送は「裏を見ていく旅」。そこらにある灰皿とかリモコンをひっくり返して「裏」を見ていく、というミニマムな企画です。旅は身近なところにある、というコンセプトなんです。撮ってみると「これは!」というVTRができました。以降、「焼きそばは絶対にうまい旅」「びっくり箱で人をびっくりさせる旅」「バスタブでんぐり返し選手権の旅」「知らんヤツがパーティに来る旅」など、番組タイトルにふさわしいミクロコスモスをそぞろ歩くような旅をかれこれ6年間続けており、いまだに1カメでカメラもいまいち上手くなってませんが、応援してくれる人も少しずつ増え、僕らが何かやるときのファームのような、ガレージのような場所になっています。

 僕らはこれからも、暗い旅に何度も出ることでしょう。そして淋しくなったら、櫓の灯りに焦がれたり、櫓の賑わいが恋しくなったりするでしょう(よくなります)。でもやっぱりすべきことは、櫓を目指すことではなく、櫓に背を向けることでもなく、僕らにしかできないすべてを生きること、です。そして「一人で歩くぞ」と言いながら、実はみんなでワイワイと歩いているのでそんなには寂しくない、というのが劇団をやっててよかったなと思うことです。

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上田誠(うえだ・まこと)

1979年京都生まれ。1998年、大学入学とともに同志社小劇場に入団し、同年、劇団内ユニットとしてヨーロッパ企画を旗揚げ。ヨーロッパ企画の代表であり、すべての本公演の脚本・演出を担当。外部の舞台や、映画・ドラマの脚本、テレビやラジオの企画構成も手がける。

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