5年後、

第14回 基本的な間違い

2015.12.08更新

私の基本的な間違いは、すぐに良くなろうとしたことだった。
すぐに良くなるわけがない。
私の半生は、それを学ぶための旅路だったといえなくもない。
じっさい、リハビリは気の長いものだった。

右胸の乳がんから右腋下リンパ節への転移によって、私の右手はかつての自由を奪われた。
右手が少しよくなってくると、こんどはそれまで右手の分も頑張っていた左手がおかしくなった。
抜けた髪が再び生えるときには頭皮が痛み、歯が再生するときには歯茎が痛んだ。
「これでもうよくなった。さあまたがんばろう」と思っても、からだのあっちこっちで不都合は次々発生し、からだじゅうを行ったり来たりした。身体の各部位それぞれが、意思をもって働いていた。各部位たちは、それぞれの仕事をした。1カ所だけに負担をかけぬよう、あちこちで肩代わりし合いながら、身体は再生していこうとしていたようだった。

そうした経験は、今回が初めてではない。
2002年5月、会社近くの明治通り沿いのレストランで食事を終えて店を出たとき階段から落ちた。店はビルの2階にあり、外は強い雨が降っていた。店を出て表へ通じる螺旋階段を降りるとき、正座で滑り落ちるような格好で転落し、左足を壊した。左足首のくるぶしの骨が粉砕し、足と脚が離れた。人工骨で足首をつなぐ手術を受けた。
あのときの痛みを表現するにふさわしい言葉を、私はいまだに持てていない。ただ、それはそれは、もう二度と御免な、あの体験をもう一度としろと言われたら死をえらぶ――そんなことを言ってはいけないし、死ぬ勇気もないし死ぬ勇気があれば生きる勇気もあると信じたいが、10年以上経ったいまも、私は階段がこわい。落ちる瞬間を思い出して吐き気をもよおすこともある。そして左足はいまだに時々痛み、不自由は少々残った。

日ごろニュースで飛行機などの事故を知るとき、また、戦争のドキュメンタリーを見るとき、負傷した人びとの壮絶な痛みを、つねに思う。戦場に麻薬というものが必要であったとしたら、あの痛みにもだったのだと思わざるをえない。
私の左足は優秀な外科医によって美しく治してもらえた。なので私の抱える障害は、外見からはわからない。それでもひどく傷んだその記憶は、いつまでも私の中から消えることが ない。さらにその不自由が、身体の他の部位までを、あとあとおかしくしていった。

左足をかばうので全身が歪むこと、足首が生殖器と繋がっていること、内臓から遠い足先の怪我がすべての健康を損なうのだといった当時の学びは、幼稚な私を多少辛抱づよい人間に、成長させてくれたとは思う。車椅子生活や、杖が不可欠な歩行も、身近にはびこる社会の諸問題を私に気づかせてくれた。「人様に迷惑をかけているのではないか」という引け目に心がすさみ、くたくたになるということも。
そして再び歩き始めた私を襲ったのが本件――大怪我からおよそ5年後、乳がんの兆候であった。

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山口ミルコやまぐち・みるこ

東京都生まれ。専修大学文学部英米文学科卒業後、外資系企業を経て、角川書店雑誌編集部へ。94年2月1日から2009年3月末まで幻冬舎。プロデューサー、編集者として、文芸から芸能まで幅広いジャンルの書籍を担当し数々のベストセラーを世に送る。幻冬舎退社後はフリーランス文筆業、クラリネット奏者として活動。2012年2月に『毛のない生活』(ミシマ社)を上梓。その他の著書に『毛の力 ロシア・ファーロードをゆく』(小学館)がある。

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