凱風館日乗

2011年秋の開館以来、内田樹先生の主宰する道場「凱風館」には、数々の著名人や武道家が訪れ、伝説のような出来事が日々起こっています。合気道(多田塾甲南合気会)には門人が150名を超え、入門待ちの状態・・・。そこで、通いたくても通えない方々に「誌上入門」していただこうと、本連載を内田先生に依頼しました。道場に通えない方も、道場には興味がないという方も、内田師範の「教え」を体感してみてください。とにかく、気持ちいいですから!(編集部)

第2回 凱風館日乗(4/2)

2013.04.04更新

 4月2日(火曜)

 ひとりでお昼ご飯するときにはテレビをつけて「ながらご飯」をします。昔からの習慣で、外食のときは本を読みますが、家ではテレビ。
 昔は地上波を観ていて、そのまま昼のメロドラマを観たり、ワイドショーを観たりして世間のことを学んでおりましたが、今は有線で映画を観てます。
 チャンネルを回したら『マルチュク青春通り』のラスト5分間だけ観られました。
 最後に「あちょ~」とクォン・サンウが宙を蹴って『ドラゴン 怒りの鉄拳』のラストシーンの真似を演じて映画は終わります。
 せつなくて、ワイルドで、ほんとうにいい映画です。
 10年近く前に最初にこの映画を観たときのことを思い出して、TSUTAYAに行って、借りだして、また観てしまいました。
 1978年の戒厳令下のカンナムのマルチュク通りの男子校が舞台の、「学ランドラマ」です。
 学ラン着た高校生がひたすら喧嘩するという話がどういうわけか僕は好きで好きでたまらないのであります。

 日本映画だと、古くは高橋英樹の『けんかえれじい』、中興の祖たる仲村トオル、清水宏次朗の『ビーバップ・ハイスクール』、近くは『クローズ』や『パッチギ!』まで、どれも大好きです。
 「学ラン喧嘩マンガ」も大好物。『ビーバップ・ハイスクール』と『ろくでなしブルース』と『今日から俺は!』はうちのマンガアーカイブでも最多再読文献であります。

 僕自身は子ども時代は虚弱児、中学時代は優等生、高校はばりばりの進学校のボンクラ劣等生だったので、こういう三白眼競い合い系のみなさんとはついに一度もかかわることがありませんでした(街でカツアゲされたことさえなかった)。それにもかかわらず(あるいは、それゆえに)この手の話にとことん弱いのであります。

 僕みたいな人間って世の中にはけっこう多いんだと思います(そうじゃなければ、これほど大量に「学ランもの」が出回っているはずがない)。
 前に井上雄彦さんが凱風館にいらしたとき(光嶋裕介くんの『みんなの家。』の巻末座談会にゲストでお出で頂いたのです)、ロフトのマンガコーナーにご案内したら、あ、ウチダ先生もこの手のが好きなんですね・・・と一驚してから、僕もどういうわけかこの手のマンガ大好きなんですと言っておられました。まじめな高校生だったんですけどねえ。
 そう言われてみると、たしかに桜木花道って微妙に三橋貴志に相貌が通じるところがありますよね。でかくて、頭変な色に染めてて、異常にプライド高くて、けっこう「小狡く」て。

 そういう実際にはお付き合いしたことのないワイルドな高校生たちがぼかすか殴り合う話(というより、殴り合いが始まりそうで、なかなか始まらない話)が、とにかく僕は好きでたまらない。少年時代の何かの「満たされなさ」の代償なのかもしれないけれど、なんだかわかりません。

 『マルチュク青春通り』はまさにそんな僕にぴったりの学ラン映画でありました。
作り込み方がずいぶん丁寧なんです。記号的な登場人物というのがいない。みんなすごくリアル。

 どんな役者でも、軍人役かヤクザ役をやらせるとかなりクオリティの高い演技ができると言われています。ほんとうにそうなんです。それは軍人とかヤクザとかいうのは、誰にとっても「別になりたくてなったわけじゃなくて、なんかもののはずみで、気がついたら・・・」的な職業なので、定型的な言動とあいまいな心情のあいだに「乖離」がある。それは経験の足りない役者が役を演じているときの「役と自分の乖離感」とおそらく同質的なものなのです。その「わざとらしさ」(というよりは「それらしさ」の過剰)がリアリティをもたらす。「身になじんでいない言動を、立場上無理に演じている」という「演技」が役者の「当惑」とオーバーラップするのです。

 ですから、生涯のベストパフォーマンスが若い頃に出た「戦争映画」か「不良映画」だったという俳優がいても、少しも不思議はないわけです。
 
 その中にあって、やはり主演のクォン・サンウの「不器用な高校生の不器用ぶり」が底抜けにすばらしいです。相方のウシク役のイ・ジョンジン君もすごくいい。すごくいいんですけれど、これは甘ったれで、切れやすい不良少年という役得でかなり「上げ底」されている。だから、ちょっと酷な言い方ですけれど、イ・ジョンジン君にとっては、『マルチュク青春通り』が生涯のベスト・パフォーマンスになる可能性がある。

 へなへなの中学生みたいな可憐な繊細さとぶち切れたときの野獣のような獰猛な攻撃性が同居している、どうにも収まりの悪い高校生ヒョンスのバランスの悪さをクォン・サンウくんがみごとに演じていました。

 何より、親友と愛する女を見失って、何をしていいか、何を信じたらいいのかわからなくなったヒョンスが最後に見出した「何があっても、これだけは信じられるもの」がブルース・リーと『タクシー・ドライバー』のトラヴィスというところが、ほんとうに「じん」と来ました。78年て、わりとそういう時代だったよな、と僕も思いました。
それにしても。

 どうして韓国の高校生と日本の高校生って、こと「学ラン文化」については、これほど相同的なんでしょう?
 学生服や学帽やセーラー服や教室の形態みたいなものは、植民地時代に日本が半島に持ち込んだものでしょうけれど、高校生たちの「こら、なにガン飛ばしとんじゃ、おう?」みたいなやりとりの「文法」って100%日韓同一です。それを日本の高校生が持ち込んだはずがない。

 これほど言語、身体運用、表情、美意識、勝敗判定基準などなどの「ゲームのルール」が日韓で同一である分野が「不良高校生」以外に存在するでしょうか?
 この映画の舞台である78年、韓国では日本文化は輸入禁止でした。日本映画が戦後はじめて韓国で上映されたのは1992年のことです。もちろん、マンガもテレビドラマも、韓国の少年少女は知らなかった。にもかかわらず、そこで『ビーバップハイスクール』でトオルたちが穿いていたのと同じボンタンを穿いた高校生たちが、同じ三白眼で、同じ表情で、同じ間合いで、同じ呼吸で、同じ間のあと、いきなり殴り合い蹴り合いを始めることに、僕は驚愕するのであります。

 武道では「機」と言います。
 立ち合いにおいて、しばらく間があってから、「ここ」で来る、ときの「ここ」というのがあるのです。
 この「機」にはあきらかに文化的な差があります。
 アメリカの不良映画は「機」については「もっさり」してます。
 『ウェストサイド物語』とか『理由なき反抗』における不良少年たちのナイフによるファイトでも、「じゃあ、ゆくよ、1、2、3」みたいな感じでサスペンスがないまま喧嘩が始まる。

 ガンファイトも、そうですね。あまりどきどきしませんね。「さあ、抜けよ」「・・・」「抜けよ」「・・・」どん。ばたり。
 『椿三十郎』のラストの斬り合いみたいな心臓が破裂しそうな緊迫したガンファイトって、僕はみたことがないです。
 その立ち合いの「機」ですね。それが日韓で同じなんです。
 たぶん居合やっても、韓国人と日本人は「ここで抜く」というときの「ここ」がかなり同機するんじゃないでしょうか。
 こういうのって、どういう文化なんでしょうね。
 かたちのある文化物じゃない。
 同じなのは「もの」じゃないんですから。
 なんて言うか、「何かが壊れるとき」の「ここで壊れる」という断裂線なんです。
 それを共有している。
 不思議な文化的なつながりだと思います。
 僕は隣国との文化の差異を過大評価することも、近接性を過大評価することも、どちらも自制していますけれど、学ラン文化についてだけは、誰かに論拠を示してもらって、「これこれこういう歴史的経緯があって、二つの文化は同じものになったんだよ」と説明してもらうまで、「同一の起源に由来し、相互の交渉がないままに、奇跡的な平行進化を遂げた」という仮説にこだわりたいです。

 そういえば、相撲というのも「立ち合い」は合図なんかありませんよね。「ここ」で二人同時に立ち上がる。
 その感覚がモンゴルの人たちには「わかる」。それがわからなければ、横綱になれるはずがない。
 「機」をとらえる感覚の同一性という視点からアジア文化圏の共通性について研究してくれる人って、誰かいないかなあ。
 「運動人類学」っていう研究分野があれば、面白いんだけどなあ。

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内田樹(うちだ・たつる)

1950年東京生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。 現在、神戸市で武道と哲学のための学塾「凱風館」を主宰している。 神戸女学院大学名誉教授、多田塾甲南合気会師範、合気道七段。

著書に、『街場の現代思想』『街場のアメリカ論』(以上、文春文庫)、 『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書・第6回小林秀雄賞受賞)、 『日本辺境論』(新潮新書・2010年新書大賞受賞)、 『街場の教育論』『増補版 街場の中国論』『街場の文体論』(以上、ミシマ社)など多数

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