凱風館日乗

2011年秋の開館以来、内田樹先生の主宰する道場「凱風館」には、数々の著名人や武道家が訪れ、伝説のような出来事が日々起こっています。合気道(多田塾甲南合気会)には門人が150名を超え、入門待ちの状態・・・。そこで、通いたくても通えない方々に「誌上入門」していただこうと、本連載を内田先生に依頼しました。道場に通えない方も、道場には興味がないという方も、内田師範の「教え」を体感してみてください。とにかく、気持ちいいですから!(編集部)

第3回 凱風館日乗(4/7、4/9~4/12、4/14)

2013.04.16更新

4月7日(日曜)

 箱根で株主総会。
 兄ちゃんと平川君と石川君と温泉に入って麻雀をする「温泉麻雀」という別名でも知られているイベントです。
 ほんとうに経営会議もしているんですよ。
 兄ちゃんの経営していた会社(Feed)と平川君の経営している会社(Linux Cafe)と石川君の経営しているお店(Again)の全部に出資していたので、それぞれの経営状況を伺いつつ、併せて日本経済の今後の展望について意見交換するというミーティングの時間がけっこう長かった。ご飯の時間はずっとその話です。
 兄ちゃんは先年経営から引退したので、いまは「経済評論家」という資格での参加です。
 でも、ビジネスマンから聞く経済話は面白いです。
 僕自身のビジネス経験はもう30年以上前のことですから、いまどきの業界事情は彼らから聞きます。

 今回はアベノミクスの行く末についてですけれど、兄ちゃんも平川君も「破滅への道である」という点では意見が一致していました。
 違うのは、兄ちゃんによるとアベノミクスはそれでも「破滅にソフトランディング」しようとする必死の企てということでした。平川君は「破滅にハードランディング」説です。
 いずれにせよ、政府や日銀やメディアで経済学者が言っていることはぜんぶ「願望」ないし「嘘」であって、「遠からず国債は債務不履行に陥る」という事実を国民に知らせるのを先延ばしするかに腐心するものである、ということではお二人の意見は一致。
 国債の債務不履行に陥った国なんかいくらもある、というのが兄の説でした。

 アルゼンチンもアイスランドも、別にそれで国がなくなったわけじゃないし、国民が路頭に迷うわけでもなかった。
 だから、「国債が紙くずになる」という事態を現実性の高いものとして受け容れ、それにどう対処するかをプランBとして国民の衆知を集めて議論すべきときなのに、「日本国債は紙くずにならない」という願望だけを語っていて、起こりうる事態について考えないようにしている。それがよろしくないというのが兄ちゃんの意見でした。

 そう言われると、大日本帝国戦争指導部の「大本営発表」とよく似ていますね。
 財政危機の現実をまっすぐ見つめて、破綻した場合という蓋然性の高い事態への対処法は考えない。その代わりに「これがうまくいって、これがうまくいくと、こういうふうにうまくゆく」という可能性の低い幸運を繋げてみせる。
 秀才というのは、そういうふうにしか考えない。彼らは「100点満点の答案」を書くことの訓練しか受けていないからです。
 秀才たちは「後退局面」とか「負け戦」とか「後始末」とか「負けしろの確保」とかいうことについては対応できません。
 こういう人たちは外交や軍事にはまったく向きません。もちろん財政にも。

 東条英機というひとは陸士・陸大卒の秀才であり、100点答案を書く名人ではあったが、軍事的にはまるで無能な人物でした。
 それは『戦陣訓』を読めばわかります。
 曰く「必勝の信念は千磨必死の訓練に生ず。須く寸暇を惜しみ肝胆を砕き、必ず敵に勝つの実力を涵養すべし。勝敗は皇国の隆替に関す。光輝ある軍の歴史に鑑み、百戦百勝の伝統に対する己の責務を銘肝し、勝たずば断じて已むべからず。」
 「百戦百勝」は誰が考えても無理なことです。歴史上達成した人がひとりもいないんですから。
 誰でもわかる不可能事を平然と書けるのは、「過去に一度も実現しなかったということから、それが未来永劫不可能であるという命題は帰納できない」というヒューム的遁辞が用意されているからです。
 万分の一でも可能性があれば、「100点の答案」を書きたくなる。
 それが「秀才のピットフォール」です。

 満州事変以後、太平洋戦争敗戦に至る全行程において、大本営は「これがこうなって、あれがこうなれば、皇軍は完全勝利する」という類の「風が吹けば桶屋が儲かる」式というか「わらしべ長者」式というか、そういう「うまいことだけが選択的に続けば、圧倒的勝利を収めるであろう」的推論だけを行って戦争を遂行しました。
 そして歴史上ないほどのぼこぼこの敗戦を迎えた。
 現代の日本がこんなにダメな国になった理由は「戦争で負けすぎた」からです。
 せめて1942年のミッドウェー海戦での敗北のときに講和していれば、満洲と朝鮮半島と台湾と南方諸島は手放したでしょうが、北方領土や沖縄は確保できたでしょう。
 大日本帝国の政体もそのまま維持できた。
 そして、「なぜこんな愚劣な戦争を始めたのだ」という徹底的な内部検証が行われ、日露戦争以後の35年の国家戦略の誤りについての国民的反省が自分たちの手で行われたはずです。

 でも、できなかった。
 負けすぎたからです。
 あまりにぼろぼろに負けたので、戦勝国の干渉をはねつけて、自力で国家再建と国民的反省を担うだけの知性的・倫理的な主体が存立できなかった。
 42年に戦争が終わっていれば、東京は「帝都」のたたずまいを今も残していたでしょう。
 戦前の帝都はけっこう美しかったですよ。
 表参道から明治神宮を臨んだ写真を見たことがありますけれど、江戸趣味とモダニズムが混淆した、いい感じの風景でした。
 そういう「江戸的なもの」がずいぶんしっかり残されたはずです。

 空襲で僕たちの国がどれほどのものを失ったか、死んだ子の年を数えるようなことはしたくないけれど、「同じ負けるにしても、あそこまで負けなくてもよかった」ということはときどき思い出してもいいと思います。
 ここまでひどいことになってしまったのは、「これはもう、負ける」と見切れたときに、「何を守り、何を諦めるか」についてクールで計量的な議論に切り替えることができなかったからです。

 日本の経済は「もう、負ける」という局面です。
 もう国民経済的な意味での経済成長はありえない。
 ありうるとしたら、TPPに典型的に示されるように、国民国家を解体することです。
 日本列島を開放してしまう。
 あらゆる商品・資本・情報・人間がボーダーレスに行き来することができる「市場」にしてしまう。
 つまり、日本全体を「シンガポール化」してしまう。
 公用語を英語にして、外国人労働者を大量に入れて、雇用条件を下げる。社会福祉予算を最低限まで切り詰める。医療も教育もすべて自己負担とする。階層化をさらに進めて、少数の富裕層に資源を集中させる。伝統文化も生活習慣も食文化も宗教も、全部棄てる。
 農業や林業や水産業はぜんぶ止める。要るものは外国から金で買う。
 そういうふうに社会を作り替えればあと20年くらいは「経済成長を続ける」ことが可能になるかも知れません。

 でも、そのあと日本列島と日本人がどうなるか、誰もわからない。
 たぶん「国土」と「国民」は消えて、ただの匿名的な「不動産」と「たまたまそこにいる住人たち」になるのでしょう。
 この「負け」方はさきの大戦における敗戦よりさらに巨大なスケールのものになるでしょう。
「 国破れて山河あり」といいますけれど、今回はまず「山河」が放棄されて(外国の資産家に売り渡されたり、耕作放棄地になって荒廃したり、巨大農業資本が所有するモノカルチャーの畑になったりして)、そのあとに「国」が財政破綻するという順番なので、国が破れたときには、もう山河も 何も残っていない。
 それが「シンガポール化した日本」の末路ですけれど、そうなることを「どう防ぐか」を考えている人は今の政治家にはひとりもいない。
 というような話をみんなでしました。
 まあ、不景気な話です。

4月9日(火曜)

 東京で昭和大学の理事会、そのあと高橋源一郎さんと雑誌『Very』のための対談。
 大学理事会では2013年度の入試の結果が報告されました。
 医学部は定員100名のところに志願者6000人。
 ながく神戸女学院大学の入試業務で「いかにして志願者を確保するか」に苦心してきた立場からすると夢のような数字です。
 どうしてこんなに志願者が集まるんです?と素人的な質問を理事長にしてみました。
 授業料が安いということもあるようですけれど、医学教育の質について評価が上がっているからということでした。
 そうですよね。
 結局教育機関への外部評価は「教育の質」に尽くされるわけです。
 医療系の大学ですから、ひとの命にかかわる職業人を育てるわけで、教育の質がそのままひとの命に直結する。

 ここで行われている教育の質がひとの命に直接つながるというような緊張感を教育する側が求められるということは、あまりふつうの大学では起こらない。
 とりあえず僕が教えているような人文学の分野では、そういう緊張感はありませんでした。
 もちろん、「生きる知恵と力を高める」という大きな目的はありましたけれど、うっかりしたことを教えたり、教え忘れたりしたら、人命にかかわるということはありません。
 昭和大学での志願者の増減がダイレクトに教育の質への評価を表わしているのだとしたら、襟を正して見るべき数字なんでしょう。

 あとこれは世間のみなさんへのお知らせですけれど、医学部も歯学部も薬学部も看護も、とにかく女子が激増しておりますね。
 昭和大学は学生総数の60%以上が女子なんです。この傾向は年々強まっているようです。
 僕がいっしょに仕事をしている出版編集の領域でも、どんどん女子が増えてきています。僕の所に来るのはインタビュアーもライターもエディターも女子ばかりです。
 質の高い仕事(つまり定型に収まらない仕事)にはどうやら男子より女子の方が向いている。
 これからの激動期を担うのはやっぱり彼女たちなのでしょう。
 政治の世界に女子が60%、というような時代が来たら、日本も変わるでしょうね。
 あるいはそれが唯一の希望かもしれません。

 『Very』対談はたいへんに面白かったです。
 一部を抜粋しますね。

高橋 がんばりすぎ。妻であり、母であり、女であり、しかも仕事するから「いい上司」だったり。

内田 自分に対する要求度が高い人は「いい上司」にはなれないよ。悪いけど。だって、そういう人って、自分のだらしなさとか、馬鹿さが許せない人なわけでしょう。自分の欠点が許せない人間に他人の怠惰や愚かしさが許せるわけないもの。

高橋 自分に厳しいと、夫にも子供にも厳しくなっちゃう。

内田 もっと自分に寛容でいいんじゃの。腹周りがゆるんでスキニーパンツはけなくたって。朝寝坊だって、たまには泥酔したっていいじゃん。

高橋 朝ごはん抜きになっちゃってごめん、とかね。

内田 ダメな自分も受け入れないと。

高橋 折れちゃうんじゃないかと。

――お酒を飲めない、泥酔できない人はどうすればいいですか。

内田 体を動かす。微細な、関節をこう動かすみたいなことを集中してやっていると、脳がリセットされる。その時に人生について考えるなんて絶対にできない。皮膚感覚を敏感にするとか、細胞レベルに集中していくと頭の中からっぽに、「泥酔」に近いリフレッシュになる。

――泥酔はリフレッシュですか。

内田 ヨガもいいけど、「かっこよくポーズを決める」とかセルフイメージを視覚的に作り上げるとダメなんだよ。身体操作のときのセルフイメージは視覚像じゃなくて、感覚像で描かないといけないんだよ。筋肉の伸びとか、関節のたわみとか。体の内側で起こっている出来事に集中する。そうすると脳が解放されるんだ。「スキニーパンツが似合っている自分」というのはヴィジュアルイメージでしょ? あのね、パンツがぴたりと身に添って気分がいいというのはいいの。皮膚感覚だから。でも、見た目が格好いいというのはダメ。

高橋 なるほどねえ、むずかしいね。

内田 VERYとか、雑誌には酷だけど、グラビア雑誌というのは「脳化」したメディアなんですよ。

というような話をしております。

4月10日(水曜)

 昭和大学病院で診察、光文社で新刊の打ち合せ、参議院議員会館で松井孝治さんとお茶してから、福島みずほさんのオフィスで『社会民主』のための対談。
 対談のお題は「改憲」。
 改憲についてはある媒体に長いものを書いたので、だいたいそれと同じ話でした。
 そのうち活字になりますけれど、ここではその中の自民党改憲草案22条の徴候について論じた部分のみ採録しておきます。

改憲案にはこのほかにも現行憲法との興味深い異同が見られる。
最も徴候的なのは第22条である。
「(居住、移転及び職業選択等の自由等)何人も、居住、移転及び職業選択の自由を有する」。これが改憲案である。
どこに興味深い点があるか一読しただけではわからない。でも、現行憲法と比べると重大な変更があることがわかる。現行憲法はこうなっている。
「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。
私が「興味深い」という理由がおわかりになるだろう。
その直前の「表現の自由」を定めた21条と比べると、この改定の突出ぶりがうかがえる。21条、現行憲法ではこうだ。
「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保証する。」
改憲案はこれに条件を追加した。
「前項の規定に、かかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。」
21条に限らず、「公益及び公の秩序」を保全するためには私権は制約されるべきだというのは自民党改憲案の全体を貫流する基本原則である。それがなぜか22条だけには適用されていない。適用されていないどころかもともとあった「公共の福祉の反しない限り」という制約条件が解除されているのである。
起草委員たちはここで「居住、移転及び職業選択の自由」については、それが「公益及び公の秩序」と違背するということがありえないと思ったからこそ、この制約条件を「不要」と判断したのである。つまり、「国内外を転々とし、めまぐるしく職業を変えること」は超法規的によいことだという予断を起草委員たちは共有していたということである。
現行憲法に存在した「公共の福祉に反しない限り」を削除して、私権を無制約にした箇所は改憲案22条だけである。
この何ということもない一条に改憲案のイデオロギーははしなくも集約的に表現されている。機動性の高い個体は、その自己利益追求行動において、国民国家からいかなる制約も受けるべきではない。これが自民党改憲案において突出しているイデオロギー的徴候である。(ここまで)

 さきほど「日本列島のシンガポール化」ということを書きましたけれど、「機動性の高いもの」だけが生き残り、機動性のないもの(土地に縛り付けられているもの、日本語しか話せないもの、日本列島以外のところでは生きてゆけないもの)は切り捨てられてもしかたがないというグローバリストの「機動性原理主義」がいちばんはっきり現われているのは、この改憲項目だと僕は思います。

4月11日(木曜)

 精神科医の名越康文先生と作家の橋口いくよさんと『本当の大人の作法』刊行記念トークセッション。
 西宮北口のジュンク堂という地元での開催なので、楽ちんでした。
 名越先生に友だちがいないという話と、家にいると苦しくなる、旅をしているときがいちばん落ち着くという話が面白かったです。
 僕は逆で、旅するのがキライで、家で仕事をして、家に友だちを呼んでわいわい騒ぐのが大好きという「ビバ!おれんち」派。
 散歩も名越先生は大好きで、僕は散歩というものをしたことがない(最後に家の周りを目的もなく歩いたのが1993年の4月と日付まで覚えているくらいです)。
 僕はとにかく「ぼおっとしている」ということができません。
 何か仕事をしていないと落ち着かない。
 家にいたいのは、家にいると「やらなければならないこと」が無限にみつかるからでしょうね、きっと。
 鼎談後、エディターの服部さんと四人で苦楽園のお寿司やさんへ。
 美味しかったです。

4月12日(金曜)

 『なめらかな社会とその敵』の著者、鈴木健さんと、数学者の森田真生くんを凱風館にお招きしてのレクチャー&トークセッション。
 『なめ敵』は数学的なモデルでの社会システム(貨幣、選挙など)のラディカルな再設計をめざすスケールの大きな思想書です。
 僕がいちばん気に入っているのは、「個人」とか「主体」という概念を相対化する鈴木さんの手続きです。

 僕自身は哲学的アプローチというより、むしろ武道的なアプローチを通じて、「自我」とか「主体」というものが心身を中枢的に統御しているというモデルを想定すると心身の危機対応能力は劣化するということを実感的に理解しています。
 それよりも表層の敏感さが重要で、それをこのところずっと「視覚」と「触覚」という感覚の二項対立図式で説明してきました。
 視覚は中枢的な感覚ですが、触覚は違います。
 視覚は明確な像を結ばないとそこで何が起きているか理解できない。
 でも、触覚は「何だか分からないけれど、とりあえずここにいて、こういう姿勢をしているとヤバい」ということがわかる。「こっちに向かって、こんな動きをする」とその「ヤバさ」が軽減するということもわかる。

 わが身に何が起きているのかわからないままに、どうふるまえばいいかは先駆的にわかる。
 そういうことがあるのです。
 鈴木さんは「膜」と「核」という言葉で説明していますが、僕はこれを「皮膚」と「心」というふうに置き換えてもいいのかなと思います。
 中枢にシステム全体を統御する「心」を想定する方がいろいろ便利です。これはほんとう。

 でも、危機的状況(というのは定義上「何が起きているのかわからないので、どうしていいかわからない状況」のことです)に「心」は対応できない。
 対応できますけれど、遅い。
 あるいは「わかりたい」という欲望が強すぎて、「なんだかよくわからないこと」を既知のことに無理やり同定してしまう。それなら「どう対処していいか、わかっている」から。
 これも「わからない」ままにフリーズしているよりは「まし」なんです。
 とりあえず何かするから。
 とりあえず何かしているうちに、知恵が出るということがある。たまたま正しいリアクションを採択して危機を脱するということも可能性としてはある。
 だから、「心」があると必ずダメだというわけではありません。
 でも、危機的なときには進化論的にあとから発生した「心」よりも、より進化の起点に近い、単細胞生物的に独立的に反応する「皮膚」の方が当てになる。

 とりあえず反応が早い。
 末端から中枢にいったん情報を上げて、そこで解釈して、運動の指令を下すというようなことをしていると時間がかかる。
 熱いフライパンに手が触れたときに「熱い!」と言ってとびすさるのは「皮膚の力」です。
 「今、熱いフライパンに手が触れたが、このまま放置しているとやけどをするリスクがあるから、手を離した方がいい」というふうに推論して行動を制御したわけではありません。
 だいたい真っ暗な中でフライパンに触ったら、何に触れたのか視覚的にはわかりません。
 冷たい金属に触ったのか、熱い金属に触ったのか、わからない。
 解釈していたら、手遅れになる。

 武道は「機」を重んじます。
 機というのは「石火の機」とか「啐啄の機」という言葉から知れるように、入力と出力が同期するということです。
 入力があって、「それから」出力があるという時間的な先後があると機は失われる。
 右手と左手が「ぱん」と拍手を打つように、外部からの身体的入力と、それに対する身体的出力が同期するようなありかたを武道は理想とします。
 そのためには「自由意志」が運動を命じる前に、運動はもう始まっていないといけない。
 「運動を始めなければいけない」という判断が存立するより前に、運動はもう始まっていないといけない。

 でも、このことは実験的にはもう観察されているわけです。
 脳が運動指令を送るより前に(0.3秒くらい前に)運動はすでに始まっている。
 「心」はすでに行われた運動を事後的に「心が命じた指令が物質化した」というふうに説明する。よくあることです。「あれはオレがやらせたんだ」というふうに話をあとから作ることを僕たちは日常的に行っている。

 では、いったいこのとき脳の指令が発令される前に運動を起動させているものは何なのでしょうか?
 僕はそれは「皮膚的な何か」だと思います。
 「膜的な何か」と言い換えてもいい。
 武道の修業というのは、「核」(自我、主体、中枢)の統御を緩めて、「膜」(身体、皮膚、周縁)の水準での自動運動に権限委譲する工夫のことではないか、そんなふうに思い始めています。
 澤庵の『不動智神妙録』にはこうあります。

「向ふより切太刀を一目見て、其儘にそこにて合はんと思へば、向ふの太刀に其儘に心が止りて、手前の働が抜け候て、向ふの人にきられ候。是を止まると申し候。打太刀を見る事は見れども、そこに心をとめず、向ふの打太刀に拍子合せて、打たうとも思はず、思案分別を残さず、振上る太刀を見るや否や、心を卒度止めず、其まま付入りて、向ふの太刀をとりつかば、われをきらんとする刀を、我が方にもぎとりて、却て向ふを切る刀となるべく候。」

 澤庵のいう「心を止める」は「中枢的に統御する」と言い換えてもいいでしょう。
 「心を卒度も止めず、其まま付入」るのが「機」です。
 僕はこれを精神論だとは思いません。ごくストレートな技術論と思って読んでいます。どうやって 「心」の統御を解除して、「思案分別」抜きの身体運用にシフトするか。
 それは稽古の過程でひとりひとりが工夫できることだと思います。
 とりあえず僕にわかっているのは、「呼吸法」と「ふだんから皮膚感覚で生きる」ということだということが稽古法として効果的だということです。

 武道論にも書いたように、僕は「厭なものは厭だ」というタイプの人間です。
 理屈抜きに「厭なもの」には近づけない。脳が「やれ」と命じても、身体が拒否する。
 そういう生き方をずっとしてきました。
 別に自慢するわけじゃなくて、そういう生き方しかできない。
 無理して、「やりたくないこと」をやると皮膚に発疹が出る、発熱する、吐き気がする。「やるべきこと」をやって身体を壊すくらいなら、「やりたくないこと」はやらないで健康でいた方がいい。計量的な判断です。

 僕は運動能力の劣った人間ですけれど、武道的な意味で人にすぐれている資質があるとすれば、それはこの「厭なことにはどうしても我慢できない」という拒否反応の強さだと思っています。
 武道の話になると切りがないので、今日はここまでね。

4月14日(日曜)

 甲南麻雀連盟例会。
 前回は風邪のため欠席(といいながら、みんなは凱風館に集まって、熱を出して寝込んでいる僕の横で麻雀やってました)。今回は復讐戦です。
 でも4の1。
 温泉麻雀では「混老頭・対対和・混一色・南・發・三暗刻」を聴牌りました。出上がりでトリプル。でも、残念ながら自摸ってふつうの「よくある」四暗刻になってしまいました。
 その勢いを駆って・・・と思っていたのですが、2割5分でした。
 今回の特筆事項は一日に役満がふたり出たこと。
 アオヤマさんが国士無双、牧師が字一色。
 牧師は白と北のシャボ受けで、白が出たら字一色・大三元のダブル役満でした。
 でも北が出た。
 そしたら不満顔で「字一色小三元てないの?」とついつぶやき、それを境にはげしくツキが落ちて、役満上がりながら二位に終わったのでした。
 欲をかいてはいけないという教訓でした。

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内田樹(うちだ・たつる)

1950年東京生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。 現在、神戸市で武道と哲学のための学塾「凱風館」を主宰している。 神戸女学院大学名誉教授、多田塾甲南合気会師範、合気道七段。

著書に、『街場の現代思想』『街場のアメリカ論』(以上、文春文庫)、 『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書・第6回小林秀雄賞受賞)、 『日本辺境論』(新潮新書・2010年新書大賞受賞)、 『街場の教育論』『増補版 街場の中国論』『街場の文体論』(以上、ミシマ社)など多数

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