凱風館日乗

2011年秋の開館以来、内田樹先生の主宰する道場「凱風館」には、数々の著名人や武道家が訪れ、伝説のような出来事が日々起こっています。合気道(多田塾甲南合気会)には門人が150名を超え、入門待ちの状態・・・。そこで、通いたくても通えない方々に「誌上入門」していただこうと、本連載を内田先生に依頼しました。道場に通えない方も、道場には興味がないという方も、内田師範の「教え」を体感してみてください。とにかく、気持ちいいですから!(編集部)

第8回 凱風館日乗(6/18~20)

2013.06.25更新

 韓国に二泊三日で行ってきました。
 去年はソウル、今年は釜山。
 いずれもお招きくださったのは僕の訳書にかかわったみなさん。出版社と翻訳者と僕の本を読んだ学校の先生たちです。

 前回はソウルのタンポポとガラパゴスという出版社と、朴聖焌先生が主宰するギルダム書院という人文カフェが招待してくれました。今回は新羅大学の朴東燮先生がフルアテンダンスしてくれました。朴東燮先生は僕の『街場の教育論』と『先生はえらい』の韓国語版の訳者です。

 本職は心理学者ですが、語学の天才なので、日本語は日本人と間違えるくらい上手です(「うっちゃんなんちゃん」の「なんちゃん」と激似(声も)なので、お会いするたびに既視感でくらくらします)。
 博多に前泊して、博多港から高速フェリーで2時間55分で釜山港。
 ほんとに「あっという間」に着いてしまいます。

 気候も港のたたずまいも博多と釜山ではあまり変わりません(当たり前ですね)。
 対馬からは朝鮮戦争のとき釜山近郊の砲火が晴れた夜には見えたそうですから。
 地図というのはぐるぐる回して方向を変えて見ると、印象が一変します。

 Google Earthで旅するとわかりますけれど、イギリスから船出して、フェロー諸島、アイスランド、グリーンランドの沿岸を進むとそこはもうセントローレンス湾です。同じように釜山から船出すると、対馬・壱岐と島伝いに進めばすぐに唐津・糸島・博多です。
 近いんです。ほんとに。

 釜山港には朴先生ともう一人の朴先生(ソウルでフリースクールをしている方で、去年の初め頃、最初にこの二人の朴先生が凱風館を訪ねてこられたのです)がお迎えに来てくれました。
それからホテルのカフェで雑誌の取材が一つ、移動して釜山大学近くの人文カフェ(ソウルのギルダム書院と似た、カフェでイベントホールで画廊でコンサートもできる多目的空間)で40人ほどの少人数での講演(お題は「先生はえらい」)。

 翌日はグローバル化をめぐるロングインタビューの後に講演(今度はホールで300人)。お題は「ポストグローバル社会における親の役割」。
 この演題は『14歳の子を持つ親へ』の韓国語版が出たばかりだから、それに合わせたみたいです。
 短い間でしたけれど、ずいぶんたくさん話をしました。

 僕の本は韓国でいま8冊が翻訳されています。
 『下流志向』が出たのが5年くらい前ですが、それからしばらく翻訳がなくて、この2年ほどでばたばたと出ました。『寝ながら学べる構造主義』『私家版・ユダヤ文化論』『日本辺境論』『若者よマルクスを読もう』。『下流志向』は前に出たのが絶版になり、こんど新訳が出ました。
 このあとも『街場のメディア論』『街場の大学論』『レヴィナスと愛の現象学』などが翻訳予定だとうかがっています。

 日本の、それもエンターテインメント系でない物書きの本がこれほど短期間に集中的に訳されるというのは、かなり珍しいことだと思います。
 日本でも僕はこれに類する例を知りません。
 まして、この2年間というのは、竹島問題や慰安婦問題をめぐって、日韓関係がこじれて、韓国内の反日感情が高まっていた時期ですから。
 いったい、韓国の読者は(それほど数が多いとは思いませんけれど)、僕の本に何を求めていたのでしょう。

 実際に読者である方々(その多くは学校の先生たちでした)と親しくお話する機会がありましたので、伺ってみました。
 もとにあったのは、やはり「経済のグローバル化と国民国家の解体」という急速に進行中のプロセスに対する韓国の人たちの不安でした。
 日本と同じように、韓国でも、メディアに登場するのは「グローバル化に最適化することが生き延びる唯一の道だ」と主張する人ばかりだそうです。

 子どものうちから英語を勉強させろ、欧米に留学させろ、外資系の会社に入社させろ、海外に雄飛する人材を育てろ、という教育行政からのつよい指導があり、学校の先生たちは内心では「それでいいのかな・・・」と懸念を抱きつつ、有効な反論ができないままに、唯々諾々とそれに従ってきた。
 でも、ほんとうにそれでいいのだろうかというためらいを感じてはきたのです。
 それに対するはっきりとした反論を教育論というかたちで展開する人は残念ながら韓国内にはいなかった、と。
 そういうことだそうです。

 グローバル人材というのは、これまでもあちこちに書いてきた通り、「根を持たない人間」のことです。
 あるグローバル企業の社長の定義によれば、「辞令一本で翌日から海外の支店や工場で働けて、どんな異文化にも適応できて、そこで暮らせる人間」です。
 そのために、親族を持たない、地域共同体に属さない、いかなる中間共同体にも属さないということが必要になります。

 「あなたに抜けられては困る」という人たちがまわりにいては困る。「あなたがいないと暮らしていけない」という人がいたら邪魔で仕方がない。
 だから、そういう「係累」や「扶養家族」をできるだけ持たないことが「グローバル人材」であるための条件になります。
 「あなたがいなくなると困る」と言う人(要するに「足手まとい」)を自分の周囲にひとりも作り出さないように自己形成してゆくこと。

 これを家庭教育や学校教育の目標に掲げることに、親として教師として、とまどいを感じるのは当然だと思います。
 そういうタフでクールな人間はどんな社会にも一定数存在します。そういう人間がときには必要であることも事実です。僕はそのことを認めます。
 でも、それは子どもたちに向かって「これを理想として自己造形しろ」というような汎通性のあるロールモデルではありません。

 国民国家というのは、何度も書いているように、本来は「弱者ベース」の制度です。
 幼児や老人や病人や障害者や生産性の低い同胞を「扶養家族」として抱え込み、彼らが気分よく暮らせるようにするために、生産力のあるメンバーが「オーバーアチーブ」して、その分を分配する。その分業と分配がスムーズにゆくように作り込まれた制度です。
 いささか極端な言い方を許してもらえれば、「足手まとい」となる人たちをまとめて「食わせる」ための制度です。

 歴史的構築物ですから、もちろん一個の擬制に過ぎません。でも、うまく管理運営すれば、それほど悪いものではないと僕は思っています。
 「弱者ベース」というのは「きれいごと」だと皮肉な表情を見せる人はいるでしょうけれども、そんな人でも、国民国家では、「多くの扶養家族を抱え込むことのできる人間は敬される」というルールは生きてることは認めざるを得ないでしょう。

 スタンドアロンで機動性の高く「いつでも好きなところに移動できる」個人よりも、一族郎党を引き具し、「殿」とか「親方」とか言って慕ってくるものを抱えていて「身動きがままならない人間」の方が社会的地位が高い。
 これは古代から現代まで、プレ・グローバル社会のすべてに共通する特徴です。
 春秋戦国時代の四君のひとり孟嘗君は「食客五千人」と言われました。
 一芸のある人は誰でも迎え入れたそうです。

 その中にはどんな才能を持っているのか、さっぱりわからない人物も含まれていた。「泥棒の名人」とか「鶏の鳴き声の真似の名人」というようなのもいた。
 それだけの人間を食わせなければならなかったのだから、さぞ物入りだったでしょう。気づかいも多かったでしょう(現に、「同じ食客でも、飯のランクに格付けの違いがあるらしい」と事実無根のひがみを持った食客に孟嘗君は罵倒されたことがあるそうです)。

 でも、それだけの「食わせなければいけない人間」を受け容れられるという事実が彼の社会的威信を構成してもいた。
 それに、「鶏鳴狗盗」という熟語のもとになった逸話によれば、まさに「泥棒」や「物まね」を芸とする食客のおかげで、孟嘗君は一命を救われることになったのです。
 爾来、近代に至るまで、「扶養家族をたくさん抱えている方が人間としての出来がいい」ということになっている。
 少なくとも、1970年頃までの日本はそうでした。

 「自分さえよければそれでいい」とばかりに、自分の能力を自己利益の増大のためだけに排他的に使用する人間は「器の小さい人間」とみなされてきた。
 それが国民国家の維持のために必要なストーリーでした。
 「グローバル化」の際立った特徴のひとつは、この人物鑑定基準を逆転したことです。

 グローバル化が理想とするのは「あなたがいなくなると困る」と取りすがる人が周りにひとりもいない「グローバル人材」です。
 自分の能力を100%排他的に利用することに成功した人、周囲に一滴の「トリクルダウン」も施さなかった人です。
 そのような人間に子どもを育て上げることが、いま日本でも韓国でも、教育政策として、国策的に推し進められている。
 それは違うだろう、と現場の先生たちが感じるのは当然のことです。

 でも、日本以上の学歴社会であり、教育投資額が世界一であり、子どもの階層上昇のためにありとあらゆる手立てを尽くすことを惜しまない親たちがいる韓国社会では、その教育政策の「どこ」がおかしいのかを理論的に指摘する人がいない。
 そういうことのようです。

 僕の講演を聴きに来てくれた人の60%は20~40代の女性でした。
 韓国でも、この世代の女性がいちばん「潮目の変化」に敏感なのだと思います。
 このまま世の中の流れに追随してゆくと、子どもたちはいずれ「ひどい目に遭う」ということを彼女たちはたぶん直感している。

 グローバル化した社会では、人々は親族を持たず、根を持たず、友人知人を持たず、いかなる「しがらみ」からも自由であり、自分の力で手に入れたものは独占できる権利を持つ代わりに、誰からも援助してもらえない。弱者の支援をする義務を免ぜられた代償に、自分が弱者になったときに誰からも支援されない。
 そのような社会が子どもたちにとって幸福な社会だろうか。そのような社会で生きる子どもたちが「成熟した市民」として共同体を支えていけるだろうか。

 講演のときの、そういう僕の問いかけに、日本では聴衆は「しん」と静まりかえりますが、韓国ではむしろ低いうなり声のようなものが聞こえました。
 講演後に、たくさんの人が握手やサインを求めてやってきました。
 90%が女性で、男性は若い人がほとんど。
 ばりばりのビジネスマンと大学の先生がいませんねと通訳をしてくれた朴先生が言っていました。

 すでにグローバル化に適応した人たちにとっては機動性に基づく階層分化は自然過程に見えるのでしょうし、そんな趨勢に逆らうことなど思いもよらないのでしょう。
 韓国でも事態は日本と変わらず深刻のようでした。

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内田樹(うちだ・たつる)

1950年東京生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。 現在、神戸市で武道と哲学のための学塾「凱風館」を主宰している。 神戸女学院大学名誉教授、多田塾甲南合気会師範、合気道七段。

著書に、『街場の現代思想』『街場のアメリカ論』(以上、文春文庫)、 『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書・第6回小林秀雄賞受賞)、 『日本辺境論』(新潮新書・2010年新書大賞受賞)、 『街場の教育論』『増補版 街場の中国論』『街場の文体論』(以上、ミシマ社)など多数

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