凱風館日乗

2011年秋の開館以来、内田樹先生の主宰する道場「凱風館」には、数々の著名人や武道家が訪れ、伝説のような出来事が日々起こっています。合気道(多田塾甲南合気会)には門人が150名を超え、入門待ちの状態・・・。そこで、通いたくても通えない方々に「誌上入門」していただこうと、本連載を内田先生に依頼しました。道場に通えない方も、道場には興味がないという方も、内田師範の「教え」を体感してみてください。とにかく、気持ちいいですから!(編集部)

第9回 凱風館日乗(6月の終わり)

2013.07.01更新

 今日はなんか腹がプチ立ち状態。「物言わぬは腹ふくるる心地」するので、紙面を借りて、ちょっと言いたいことを言わせて頂きます。
 腹が立ったのは、「公募校長」退職についてです。まずは毎日新聞の記事から。

 公募校長が着任3カ月で退職。大阪市初の公募校長として民間から4月に着任した市立南港緑小学校(住之江区、152人)の千葉貴樹校長(38)が、「経験やスキルを生かせる学校でなかった」として25日付で退職した。
 公募校長制は橋下徹市長の肝煎りで導入。市教委は今春、民間から11人を採用し、来春は公募する約70人のうち35人を民間から採用する計画だ。
 千葉校長は同日、記者会見し、「英語教育やグローバル人材の育成をやりたいと伝えたが、赴任したのは違う課題のある学校だった」と話し、配置や給与などへの不満を退職理由に挙げた。さらに、「具体的にどういう方向に教育を進めていきたくて、公募校長に何をやってほしいのかというビジョンが全く見えない」と市教委を批判した。
 着任3カ月で退職したことで招いた混乱への認識を問われると、「謝罪するつもりはない。何も不祥事は起こしていないし、地域とももめていない」と述べた。
 千葉校長は、外資系証券会社勤務などを経て、公募校長に採用された。退職願は5月28日付で提出していたという。市教委は、今月26日付で同校に新校長を着任させる。

 だそうです。
 これについて大阪市立大学の増田聡くんがこう書いています。

 「『自分のやりたい仕事ができない』『給与に不満がある』からやめる、と公言する人は『公人』には向いてないとおもうので公教育には関わらない方がいいとおもいます。グローバル人材を輩出する私塾とかやればいいのではないだろうか。
 というかなんで「民間」の私企業は高度なグローバル人材を養成することを目的に掲げ志望者が殺到するような高等教育機関を文科省の認可外でつくろうとしないんだろうか。『大学は社会の要請に応えてない』とかいうより先に自前で教育したらよかろうに。
 いま仮に豊田工業大とか国際教養大みたいなのをより強力にしたのを経団連企業とかが総力あげて作って『文科省の高等教育政策に縛られず本物のグローバル人材を育てる理想の高等教育機関』とか謳って学生募集したらどうなるだろうか。そんなんあったら『大学』とは何か、がはっきりしてええんやないかな。」

 まことに間然するところのないご意見であります。
 問題は大阪市長・大阪府知事が鳴り物入りで始めた「公教育への民の力の導入」なるものの最初の眼に見える「成果」がこれだったということです。

 大阪府の教育基本条例の主旨は次の一文に集約されます。
「教育行政があまりに政治から遠ざけられ、教育に民意が十分に反映されてこなかった不均衡な役割分担を改善し、政治が適切に教育行政における役割を果たし、民の力が確実に教育行政に及ばなければならない」

 「政治」というのは端的には自治体の首長の意向のことです。「民意」というのは首長選挙で当選した首長に負託された「全権」のことのようです。「民の力」というのはわざわざ言葉を換えているところから考えて、「市場の要請」ということと同義とみてよいでしょう。
 つまり、この教育基本条例は「学校教育に首長の政治的意見と市場の要請が直接的に反映するようにシステムを作り替えること」をめざしたものだということです。
 それによってこのような教育内容を実現したいらしい。

「加速する昨今のグローバル社会に十分対応できる人材育成を実現する教育には、時代の変化への敏感な認識が不可欠である。大阪府の教育は、つねに世界の動向を注視しつつ、激化する国際競争に対応できるものではなければならない。」

 というわけで、学校長に「グローバル」な知見を豊かに備えた民間人を登用し、「グローバル社会に十分対応できる人材育成を実現」しようとしたわけです。
 公募校長もたぶんこの文章を読んで勇躍応募したのでしょう
 しかし、なにしろ赴任先が小規模小学校ですから、まずは基礎学力や生活習慣を身に付けさせるところから始めるしかない。英語教育だのグローバル人材育成だのはまずは学習習慣身についてから後の話です。

 どうも、それがご不満でこの校長はお辞めになったらしい。
 「公募校長に何をやってほしいのかというビジョンが全く見えない」とご本人は不満顔です。
 でも、誰がどう考えても、小学校でまず求められているのは、「英語教育やグローバル人材育成以前」の基礎教育でしょう。決められた時間に学校に来る、授業に出る、教科書やノートや筆記用具を持参する、授業中は決められた座席に座って静か学習する、名前を呼ばれたら返事をする、まわりの生徒の学習を妨害しない、出された宿題をやってくる・・・そういったたぐいのことです。
それさえできない子どもに英語やらグローバル教育(何を想定していたのでしょうか?英語でのディベートとか金融工学とか財務諸表の読み方とか?)を施すことはできません。

 当たり前の話です。
 当然、教委も他の職員も校長にそれを望んだはずです。
 でも、子どもにでもわかるこの要望をこの校長は「全く見えな」かった。
 これは端的に知性の問題だと僕は思います。
 彼はどうも知性の運用に深刻な問題を抱えていた人物のようです。
 「つねに世界の動向を注視しつつ、激化する国際競争に対応」できる人物として校長に自薦してきたわけなのに、自分の担当する学校での「校長への要望」には対応できなかったわけですから。

 知性の不具合はあくまでその人個人の問題であって、他人がどうこういう話ではありません。でも、彼は「教育基本条例」の掲げる理想を実現すべく選抜された「大阪の教育の未来」を担う人物でした。これは看過されてよいことではありません。
 記事からは彼が学校教育というものの実情をよく知らないで応募したらしいということが窺い知れます。
 でも、なぜそのような人物が複数の応募者の中からあえて選抜されたのでしょうか。

 とりあえずわかることは、採用者が民間人校長の選考に際して、「教員としての適性」を採用条件に掲げなかったらしいということです。その他のいったいいかなる能力を基準に採否を決したのかは知りませんが。

 僕がとくに興味を感じたのは、この校長のコメントでも、条例でも、繰り返し口にされる「グローバル」という言葉の例外的な「軽さ」です。
 彼らが言う「グローバル」というのは何のことなのでしょう?
 世界で今何が起きているかについての広々とした見識、他国の人々の価値観や感性についての共感力、そういうものがなければ「時代の変化」も「世界の動向」もわからないということは誰にでもわかります。

 だとすると、「赴任先の職場で何が起きているのか」予測できず、「そこでまわりの人々が何を感じ、何を思っているのか」を理解できなかったということを自らカミングアウトしている人物が「グローバルな知性」の持ち主であると推論することはきわめて困難だと言わねばなりません。

 それ以上に問題なのは、この条例採択を強行した大阪市長が先月「時代の変化」と「世界の動向」をうっかり見落としたせいで、世界各国の各種機関やメディアからきびしい非難を浴び、当面はアメリカにも中国にも韓国にも「表敬訪問」の機会さえ与えられない状態にいるということです。
同盟国であるアメリカの政府報道官から「非道かつ侮辱的」(outrageous and offensive)と評されるようなコメントを記者会見で公言した政治家が「私はつねに世界の動向を注視しつつ、激化する国際競争に対応しているグローバル人材である」と主張することにはかなりの無理があります。

 こういうふるまいのことを俗に「世間を狭くする」というふうに形容します。
 内向きのポピュラリティを狙っていわずもがなの暴言を吐き、結果的に国際社会に対しておのれの「世間を狭く」し、日本の国威を傷つけ、また大阪という都市の名誉を損なった(なにしろ姉妹都市のサンフランシスコから「公式訪問にも表敬訪問にも来ないでくれ」と言われたのですから)政治家に「国際感覚がある」という評を下すことはできないだろうと僕は思います。
 では、いったいこの人たちは「グローバル」という語をこれまでどういう意味で使ってきていたのでしょうか。

 彼らはたぶんその語を「伝統的な制度文物や生活習慣、祖先から伝えられたものの見方や感じ方、時代が変わってもその価値を変えることのない見識や技能」を否定するすべてのものに付すことのできる万能的な形容詞だと思って使っていたのでしょう。
 教育基本条例の冒頭にある「加速する昨今のグローバル社会」という日本語として意味不明のフレーズには「加速」と「昨今」という徴候的な語が二つはめ込まれています。
 彼らが固着するのはたぶんそれです。

 「スピード」と「今」。
 ものが加速度的に、どんどん速度を増しながら変動している。
 そのこと自体が彼らにとっては「絶対善」のように思えるのでしょう。
 そして、「昨今」。
 彼らにとって「昨今」というのはせいぜい数年のことです。それ以上の時間は射程にありません。

 ビジネスマンの書く文章だったら、それでよいのでしょう。
 でも、これは公教育について書かれた文章です。
 このまま社会制度の変化(というより端的に「崩壊」)が加速度的に進行し、「昨今」以上の過去も未来も視野にないのが「当然」だと思い、それに最適化する人間を作り出すというのが大阪府の教育基本条例の基本的な発想です。
 文科省の「英語が使える日本人」育成プログラムや「グローバル人材」育成プログラムの文章とも通じています。

 これらの文章には数年以上先の子どもたちの生き方についての見通しは何も語られていません。彼らがどんなふうに市民的に成熟を遂げてゆくのか、どういうふうに共同体の未来を担うことになるのか、どのように個人的な自由や幸福を享受できるようになるのか、それについては一言も書いていません。

 書かれているのは「言う通りにしないと、仕事がないぞ、金が稼げないぞ」ということだけです。この恫喝が説得力を持つためには、「言う通りにしない」せいで、仕事がなく、お金が稼げず、社会の底辺で苦しむ人間が一定数存在して、「あんなふうにはなりたくないだろう」という脅しが効くことを彼らはむしろ願っているようにも見えます。

 繰り返し言いますが、ビジネスマンがビジネスについて書く文章だったら、それでよいでしょう。株式会社の寿命は日本で7年、アメリカで5年です。「昨今」のことだけ考えていれば十分足りる。
でも、生身の人間はそうではありません。子どもたちについては「昨今」だけでなく、数十年先のことまで考えてあげなければならない。
 数十年後に「時代の変化」「世界の動向」どうなるか、そんなこと誰にも予測できません。
 だとすれば、子どもたちには「どんな苛烈な状況をも生き延びることのできる汎通性の高い人間的能力」を身に付けてもらうというのが学校教育でできる最大のことです。「昨今」も大事だけれど、その先があるんですから。

 それがどういう能力であるかについては教師ひとりひとり、親ひとりひとりで思うことは違うでしょう。
 違っていて構わないし、違っているべきだと僕は思います。
 それぞれが信じるところに従って、それぞれに「違うこと」を教えたせいで、多様なタイプの人間が共生している集団の方が、子どもたち全員が「似たような能力」を開発されて、似たような顔つきで並んでいる集団よりも、たぶん生き延びる確率が高い。
 だからこそ、政治や市場が、それぞれの定型的な要請によって学校教育の「アウトカム」を標準化しよう、規格化しようとすることに、僕はつよい懸念を抱くのです。

 今回の公募校長の辞職事件でわかったことは、彼は主観的には自分自身を「スピード感」を持って「昨今」の変化に対応できる人間であると思っているらしいということでした。そうでなければ、なかなか三ヶ月で仕事を辞めたりはしません。
 たぶん、彼は「自分みたいな人間」を学校教育を通じて量産しようという願いを抱いて赴任したのでしょう。

 でも、さすがに日本のグローバル企業も「こんな人間」(自分が周囲にかけた「迷惑」をきっぱりゼロ査定するような人間)を優先的に採用するように僕には思えません。
 いや、そんなことはない。こういう人物こそ真のグローバル人材である。ぜひ我が社にCEOとして招きたいというような会社がすでに彼の家の門前に列をなしているのでしょうか。
 そうだとすれば、僕にもうこれ以上言うべき言葉はありませんが。

お便りはこちら

みんなのミシマガジンはサポーターの皆さんと運営しております。

内田樹(うちだ・たつる)

1950年東京生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。 現在、神戸市で武道と哲学のための学塾「凱風館」を主宰している。 神戸女学院大学名誉教授、多田塾甲南合気会師範、合気道七段。

著書に、『街場の現代思想』『街場のアメリカ論』(以上、文春文庫)、 『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書・第6回小林秀雄賞受賞)、 『日本辺境論』(新潮新書・2010年新書大賞受賞)、 『街場の教育論』『増補版 街場の中国論』『街場の文体論』(以上、ミシマ社)など多数

バックナンバー