凱風館日乗

第11回 凱風館日乗(7月前半)

2013.07.20更新

 前回に続き、またも政治ネタです。もうすぐ参院選の投票日ですから、ご勘弁ください。

 今回の参院選の非常に重要な「見えない争点」は農業と食糧安保の問題だと僕は思っています。
 ひとことで言えば「食」の問題です。
 グローバリズムによる市場統合と階層化(中産階級の崩壊、富裕層と貧困層への階層分離)へのプロセスの主戦場が「食」をめぐっているという事実を日本人はあまり自覚していません。その話をします。

 いま僕たちが聞かされている農政にかかわる議論は「農作物は商品である」ということを前提にしています。現に、新聞記事を読むとわかりますが、農業政策について一番頻繁に使われている単語は「効率」と「コスト」です。
 参院選でも、グローバリスト政党は、株式会社の農地取得や、経営の大規模化と効率化を目標に掲げています。ふつうの工業生産と同じように、コストを削減し、効率的な農業生産を行い、国際競争力をつけることでしか日本の農業は生き残れないというのです。

 お米とか野菜とか卵とか牛肉とかが、自動車やパソコンと同じような商品であるなら、そういう考え方でよいかもしれません。
 でも、農作物は商品ではありません。
 厳密に言うと、「供給量が足りている限りは商品であるが、ある供給量以下になると商品性格を失う」ものです。

 食品は足りているかぎりは商品です。あれを食べるか、これを食べるか、消費者に選ぶ権利がある。でも、供給量がある限度を切ったときには、「気に入らないから、食べない」という選択肢は僕たちにはもうありません。
 ベンツを買おうかレクサスを買おうか、車に乗らずに1年間迷うことは可能ですが、米を食べるかパンを食べるか決断せぬまま何も食べずに1年迷うことはできません(餓死します)。
 
 食品というのは、供給量があるラインを上回るか下回るかで性格を変えます。供給量が多ければ商品として流通しますが、供給量が少なければ、「それなしには生きていけない糧」となる。
 iPhoneみたいなガジェットならば、仮に通量が減ったとしても、あるいはアメリカと日本が国交断絶して輸入停止になったとしても、「欲しいけど、我慢する」ことができます。なくても死なないから。でも、日本が海外から食糧の大半を輸入していた場合、輸入が止ったときに、日本人は餓死し始めます。

 だから、食糧は商品として扱うべきものではないと僕は思っています。

 アメリカにはアグリビジネス(農政複合体)というものがあります。日本のグローバリストたちが農業改革のときにモデルにしているのは、このアメリカのやり方です。
 日本にはまだこれに類するものが出現していないので、うまく想像できないと思いますけれど、アメリカには農業生産を純粋にビジネスとして行う人たちがいて、現在では彼らが農業生産をほぼ全面的にコントロールしています。

 アグリビジネスは生産から流通・加工・販売までを一企業が垂直的に統合するものです(この垂直統合はアメリカでも独占禁止法で規制されていましたが、レーガン時代の「規制緩和」で可能になりました)。
 垂直統合によってこれによって農業生産は劇的に効率化されました。

 大幅なコストカットのおかげで、アグリビジネスは巨額の収益を手にし、消費者は安価な食品を享受することができるようになりました。でも、いいことばかりではありません。実際に土をいじり、家畜を飼っていたフロントラインの生産農家は生産コストを限界まで切り下げられ、独立性を失い、つぎつぎと契約労働者に没落してゆきました。堤未果さんの『(株)貧困大国アメリカ』(岩波新書)によると、ケンタッキーフライドチキンの12ピースはアメリカでの小売価格26ドル。うち21ドルがKFC社に入り、加工業者に4ドル、実際にニワトリを育てている養鶏業者には30セントしか回らない。生産現場に環流されるのは売値の1.2%で、管理部門が80%を持っていく。これが企業化された農業における配分比率です。

 契約養鶏農家は年収2万ドル以下という極貧レベルにまで貧困化し、それでも初期投資のローンを払うためにひたすら働き続けることを余儀なくされている。
 今、アメリカで自営の農家はアグリビジネスとのコスト競争に敗北して、次々廃業に追い込まれています。生き残るためには、過酷な取引条件を受け容れ「労働力以外に売るものがない」賃労働者に身を落すしかない。そんなふうにして、アメリカ国内ではこの30年間に30万軒の農家が消滅しました。
 
 コスト意識のない農家は廃業してもらい、その土地を株式会社が買い上げて効率よく企業化した農業をする。日本でも、グローバリストたちはそう主張しています。アメリカのように企業化し、効率化するしか農業が生き残る道はない、と。どの新聞を読んでもそう書いてあります。
 でも、企業化された農業がどういうものになるのか、もう少し精密なシミュレーションをしてみる必要があるのではないでしょうか。

 たしかに農業生産が企業化されると、生産は効率的にプログラムされ、コストは削減され、消費者は安価な食品を手に入れることができるようになるでしょう。これは間違いない。でも、よく考えてください。「効率化」というのは要するに「人手が要らなくなる」ということです。100人がかりでやっていた仕事を1人でできるようなることを効率化と呼ぶのです。

 これを手放しで喜ぶことができる人の気持ちが僕にはよくわかりません。だって、それは言い換えれば99人が失職するということなんですよ。生産性の向上というのはその領域については端的に「雇用機会の減少」のことです。大きな収益を上げた企業はいずれ「違う領域で」「新たな雇用」を生み出すだろうと言って当該分野の生産性向上を正当化しますけれど、海外のグローバル企業の先例が教えているのは、企業が大きな収益を上げた場合、それは雇用の拡大や賃上げには結びつかず、株主配当か内部留保か、いずれにせよ「富の富裕層への排他的な蓄積」に向かうということでした。アメリカでも、中国でも、韓国でもそうでした。

 農業はたしかに生産性の低い産業です。「生産性が低い」というのは「人手が要るのに収益が上がらない」ことです。これを「生産性の高いもの」に変えるということは、要するに自営農民たちを価格競争で市場から追い払い、離農に追い込み、低賃金労働者として雇用するということです。たぶん、数値的に見れば、それによって「日本の農業は効率化した。コストカットに成功した。国際市場で戦える価格になった」ということが言えるでしょう。けれども、それは要するに、自営農が貧困化するときに「吐き出した」富を企業の収益に付け替えたに過ぎません。新しい富を生み出したわけではない。

 農業の効率化はアメリカでもカナダでもメキシコでもアルゼンチンでも、「独立農民の農奴化」という結果をもたらした。それが現実です。今日本で、農業の効率化やコストカットを威勢良く主張する人たちは、列国で起きたこの事態を回避するためのどういう「手立て」を用意したのか、まずそれを示すところから話を始めるべきだと僕は思います。何も手立てはない、アメリカのようにするのだということでしたら、アメリカの農業がどうなっているのかをまず広く国民に告知する義務があると思います。

 農業の企業化にはもうひとつ深刻なリスクがあります。それは、生産性向上をめざせば必ず商品性の高い作物の「単一栽培(monoculture)」が行われるようになるということです。
 その土地の気候、土質、農業技術、灌漑施設、流通の利便性などを勘案するとその土地で栽培すると「最も費用対効果が高い」作物が自動的に決定されます。それだけを栽培する。見わたすかぎりのトウモロコシ畑や綿花畑やコーヒー畑を想像すればモノカルチャーの風景は想像できるはずです。

 でも、日本の農村の原風景はそういう「地平線まで拡がる無人の単一作物畑」ではありません。あぜ道があり、農家が自家消費するための田畑があり、雑木林があり、鎮守の森がある里山の風景です。モノカルチャーにとってそのような「里山的夾雑物」は非効率のかたまりです。山を削り、森を切り、池を埋めて、何十ヘクタールも拡がるのっぺりした単一栽培耕地を作らないと機械化ができません。

 1990年代に多国籍産業のアグリビジネスが入り込んだアルゼンチンでは中小農家が次々と破産し、アグリビジネスがそれを買い上げ、全土のモノカルチャー化が行われました。アルゼンチンでは大豆が選択されました。その結果、1996年に1万ヘクタールだったアルゼンチンの大豆畑は2000年には(わずか4年で)1000万ヘクタール(1000倍!)になりました。その変化がアルゼンチンの景観をどう変えたか、生態系にどういう影響を与えたか、アルゼンチンの人々のメンタリティにどういう傷を残したのかについて僕たちには何も知らされていません。

 商品作物だけに特化することのリスクはそれだけではありません。商品作物の最大のネックは「市場動向で価値が乱高下する」ということです。モノカルチャー化した国の人々は「(もうそれしか作っていないから)売らなければならない作物の価格下落」と「(もうそれを作っていないから)買わなければならない作物の価格高騰」というふたつのリスクに絶えずさらされます。

 アメリカ、カナダと自由貿易協定(NAFTA)を締結したメキシコのケースがそうです。自由貿易によってアメリカから安価なトウモロコシが流入し、GM種子の特許料負担を課せられたために、短期間にメキシコの300万人の零細トウモロコシ農家は廃業しました。アメリカから安いトウモロコシが入ってきたので消費者は自国のトウモロコシ農家の廃業に別に同情しませんでした。でも、その後、トウモロコシがバイオマス燃料として着目され市場価格が高騰しました。国内にはトウモロコシ農業がもうない。輸入したくても高くて買えない。メキシコ国民は主食が食べられないという飢餓状態に陥りました。

 農業を企業化し効率化することがすばらしいことであるかのように語る政治家やメディアは、これらの事実について「日本の場合は、それらのリスクに対する十分な備えがある」ことについての説明責任があると僕は思います。でも、僕は聞いたことがない。彼らが話すのは「効率」と「コスト」の話だけです。農業に企業経営を持ち込むことのリスクについては一言も言及されない。これについて、メディアの責任は重いと思います。

 この思考停止は原発の場合とも構造的には同じです。

 原発は「事故なく稼働していれば、コストの安い発電技術」ですが、「いったん事故が起こったときには国民と国土に回復不能の傷を負わせる、破滅的なテクノロジー」です。でも、原発推進論者たちは原発の「商品性」にしか興味がない。それが抱える「リスク」については考える責任も説明する責任もないと思っている。

 あらゆる政策の適否を短期における「効率」と「コスト」でのみ判断し、長期的なスパンでの危機に備えることを(悪意ゆえか知性の不調ゆえは知りませんが)忌避する人たちが今の日本ではエスタブリッシュメントを形成しています。

 なんだか絶望的な気分になりますけれど、参院選ではとにかく原発稼働とTPPに賛成している議員の数がひとりでも減ることを願っています。

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内田樹(うちだ・たつる)

1950年東京生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。 現在、神戸市で武道と哲学のための学塾「凱風館」を主宰している。 神戸女学院大学名誉教授、多田塾甲南合気会師範、合気道七段。

著書に、『街場の現代思想』『街場のアメリカ論』(以上、文春文庫)、 『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書・第6回小林秀雄賞受賞)、 『日本辺境論』(新潮新書・2010年新書大賞受賞)、 『街場の教育論』『増補版 街場の中国論』『街場の文体論』(以上、ミシマ社)など多数

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