凱風館日乗

2011年秋の開館以来、内田樹先生の主宰する道場「凱風館」には、数々の著名人や武道家が訪れ、伝説のような出来事が日々起こっています。合気道(多田塾甲南合気会)には門人が150名を超え、入門待ちの状態・・・。そこで、通いたくても通えない方々に「誌上入門」していただこうと、本連載を内田先生に依頼しました。道場に通えない方も、道場には興味がないという方も、内田師範の「教え」を体感してみてください。とにかく、気持ちいいですから!(編集部)

第13回 凱風館日乗(8月15日)

2013.08.19更新

 昨日は凱風館で寺子屋ゼミの拡大版兪炳匡先生による「日米医療セミナー」がありました。
 兪先生はカリフォルニア大学デーヴィス校医学部公衆衛生学講座准教授でご専門は医療政策・医療経済学。

 大阪のご出身で、北大医学部を出たあと、臨床医をされていましたが、わが国の医療政策のありかたに根本的な疑問を抱き、どういうふうに医療政策は起案され、その成否を検証されているのかを調べたところ、厚生省の官僚から「わが国には医療政策の成否についての判定基準は存在しない(なぜなら、日本の医療政策はすべて正しく、すべて成功しているから)」という驚愕すべき回答を得ました。

 わが国には医療に関する政策の適否を判断する審級が存在しない。
 というか、医療だけでなく、どのような政策についても「選択肢としてプランA、プランB、プランC・・・などがあるが、その中で最終的に『民の安寧』に資する蓋然性が最も高いのは・・・である。 その論拠となるデータは・・・」というタイプの言説は存在しません。
 存在するのは「政策Aを実施することに決まったので、それが『正しい選択』であることを立証するデータを集めよ」という順逆の転倒した政策論だけです。

 日本では年間数十兆の国家予算が医療のために投じられていますが、その分配の適切性や、効果についての科学的研究(医療政策論・医療経済学)は事実上存在しません。
 大学にそのような名を冠した講座はあるのですが、そんなところで学位を取っても大学にも役所にもどこにもそのような専門家を求める「ニーズ」がないので、誰もまじめに専攻しない。
 というわけで兪先生は臨床を止めて、ハーヴァード大学で医療政策・管理学で修士号、ジョンズ・ホプキンス大学で医療経済学の博士号を取って、スタンフォード大学、アメリカ厚生省疾病管理予防センター、ロチェエスター大学医学部などで研究を続け、2011年から現職にあります。
最初に兪先生とお会いしたのは、2011年の8月のこと。ちょうど二年前です。

 ぼくがまだ御影にいたころで、アメリカから一時帰国していた兪先生から「会いたい」という連絡があり、「医療経済学の専門家が、おいらに何の用だろう・・・」と怪訝に思いながら、御影駅前高杉にて、1時間半ほどお話をしました。

 このときのことはブログ日記に書いてあります。

 昨日伺ったところでは、兪先生はぼくの書いた本やブログをかなり熱心にご覧になっていて、ぼくがアメリカについて書いたところを中心に「異議あり」ということが何点かあって、それについて質しに来たのだそうです。
 ところが本題に入る前に、ぼくが「医療経済学って、どういうお仕事なんですか?」と訊いたので、兪先生、うっかり自己紹介をかねて専門の話を始めてしまいました。

 ご存じのとおり、ぼくは「異業種の人の話」を聴くのが病的に好きです。
 ですから、医療経済学・医療政策論的観点から日米の医療をめぐる諸問題を兪先生が切れ味よく分析するのを「ほうほう」と(ケーキを食べながら)聴いて、そのうち「あ、もう時間なので、ばいばい」といきなり立ち去ってしまい、兪先生は呆然と取り残された、と。そういうことだったそうです。

 それからときどき日米でメールのやりとりをしておりました。
 先般、一時帰国されたときにも講演にご招待頂いたのですが、ぼくの方の日程が合わず、それならいっそ凱風館に来てセミナーやってくださいとお願いしたら、ご快諾いただき、昨日のセミナー開催という運びになったのであります。

 ツイッターで告知したら、医療関係者からの聴講希望がたくさんありました。
 オーディエンスの半数ほどが医療関係者だったと思います。甲南合気会のドクター佐藤、ドクター黒江はじめ、新城先生や岩田健太郎・朝子ご夫妻など、専門家のみなさんがおいでになって、アメリカの医療崩壊と保険制度の推移、そしてTPPによる日本の医療制度の変化についての兪先生のお話に聞き入り、質疑応答も活発に行われました。

 今回のセミナーは「セミクローズド」でしたので、「ここだけの話」満載(懇親会は「フルクローズド」でしたので全部「ここだけの話」)
 どのトピックも、日米比較政策論・比較文化論として学ぶことが多く、まことに知的刺激に満ち満ちた一夕でした。
 うかがった話をここではとても紹介し切れませんが、これから先、「そういえば兪先生からうかがった話ですが・・・」というかたちで断片的に取り出して、そのつど吟味するということがあるだろうと思います。

 今日はとりあえずひとつだけ。
 それはアメリカでも「貧困層」が巨大な社会集団を形成していて、その人たちを集中的に搾取する「貧困ビジネス」が大きな産業となっているということです。
 欧米の社会はどこも「小学校5年生程度の読み書きができない」人たちを大量に抱えています。
合衆国教育省教育統計センターによると、短い文章を見て簡単な意味を理解することができないものは成人の14%。

 イギリスでは、成人の17%が11歳児のリテラシー能力を欠いている。
 フランスでは、非識字率が15%という統計が出ています。
 どこもだいたい似たようなパーセンテージですが、この人たちが小学校卒業程度の学力を持たないまま卒業して、社会に出て、まっすぐ貧困層を形成することになります。

 問題になるのは、この人たちは単に字が読めない、書けないだけでなく、「世の中の仕組み」というものを理解していないということです。
 例えば、「保険制度」や「生活保護」という自分たちを保護する仕組みが存在していることは何となく知っているけれど、「どのボタン」を押すとそれが機能し始めるかということは知らない。
 知らなければ、誰かに訊けばいいわけですけれど、自分の身を守る仕方を「ひとに訊く」ということについて、低学力集団の人たちは激しい心理的抵抗を示します。
 これはイギリスでも、フランスでも同じです。

 人にものを訊くのは「恥ずべきことだ」というイデオロギー的な刷り込みが年少のときからなされているからです。
 だから、世の中のルールについてつねに「自分は熟知している」という態度を採ろうとする。
 さまざまなルールがあることは知っているが、そんなのは階層上位者が決めたものであり、彼らを利するだけのものだから、「無視する」という態度をとることでプライドを守ろうとする。

 これはどこの階層社会でも、階層下位者の際立った心理的傾向です。
 そして、深刻な問題はこのようなメンタリティは多分に「イデオロギー的に刷り込まれた」ものだということです。
 当たり前ですけれど、人間の出来にばらつきがあれば、階層下位においても、「自分は世の中の仕組みがよくわかっていない。だから、だれかに就いて体系的に学んで、世界の成り立ちを理解したい」と思う人が一定数出現するはずです。

 そういう人の前には社会的上昇のキャリアパスが開く。
 しかし、実際にはそういうふうに「思う」こと自体がきびしく抑圧されています。
 階層社会では、階層下位者ほど「学ぶこと=自分の無知をカミングアウトすること」をつよく忌避し、むしろ自分が世の中の仕組みについて熟知していることを誇る傾向がある。
 これは苅谷剛彦先生が統計的に示した仮説ですが、ぼくの経験的な知見もこれに一致します。

 昨日、兪先生からうかがったお話でも、アメリカの貧困層の人に医療を受けるために必要な煩瑣な保険システムや生活保護の手続きについて説明しようとすると、彼らは文字が読めなかったり、仕組みが理解できなかったりすることを隠すために、しばしば「興味がないふりをする」のだそうです。
 非識字者を「カモ」にして、被保険者が圧倒的に不利になるようなめちゃくちゃな契約内容の書類にサインさせて、保険料だけ取って、治療を行わせないという悪質な保険業者がアメリカにはあります(「入院2日目以降は保険がカバーしないことに同意します」というような条項に文字が読めない人はチェックを入れてしまったりする)。

 でも、そういう悪質な保険会社にひっかかる人がいくらもいる。
 契約書を読めないのだが、そのことを隠しているために、カモにされる。
 もちろん非識字者であることを認めた上で、それにつけこんだ保険会社を訴えることは可能なのですが、訴訟にもまた煩瑣な手続きがあり、無数の文書を読みサインすることが求められるので、非識字者を遠ざけてしまう。
 この人口の20%に近い貧困層・非識字者・低学力集団を標的にした貧困ビジネスがアメリカでは巨大産業になっている。
 ジャンクフードや、低価格衣料など。単価は安いけれど、コストはもっと安いので、利益率が高い業種です。

 そういうものしか食べられない、そういう服しか着られない、そういう家にしか住めないという階層は売り手からするとある意味で理想的な顧客です。
 商品を選択できないんですから。「それ」を買うしかない。
 人々をそういうところに追い詰めて、文字通り「搾り取るだけ搾り取る」ような商売がアメリカではビッグビジネスになっています。

 もちろん、そういうあくどい商売は長くは続きません。
 保険会社だって、州政府や自治体を相手にして、そこから治療費を受け取るわけですから、あまりでたらめなことはできない。だから、いずれ認可が取り消しになる。でも、それまでの5年、10年で荒稼ぎしているので、行政に瑕疵を指摘されたら「じゃあ、保険会社止めます」で退場してしまう。それでも、経営者や株主たちはすでに巨額の個人資産を手にしている。

 これまでも何度も書いてきましたけれど、「長期にわたって商売を続ける」という発想がもうアメリカにはないのです。
 兪先生のお見立てでは、いずれアメリカでも悪質な保険会社は市場から消え去るだろうけれど、それまでに官民共倒れで「保険制度」そのものが消えてしまっているリスクがあるということでした。

 オバマケアによってアメリカは保険制度に関してはヨーロッパや日本の制度の「後追い」を始めています。果たして成功するかどうかわかりません。
 でも、「搾取されるだけのために存在する社会集団」を組織的に生み出すシステムは手つかずのままです。
 そして、日本でも政治家や官僚やビジネスマンたちは「低学歴・低学力集団」を毎年数十万規模で作り出すシステムに「経済成長」の手がかりを見出そうとしています。
 アメリカのモデルを彼らが模倣するつもりであるなら、彼らがもっとも熱心に攻撃するのは「学校教育を通じて子どもたちを市民的に成熟させるシステム」であるはずです。
 そして、現にそれは着実に「成功」を収めつつあります。

 前回の続きの「嘘を見破る方法」はまた今度ね。

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内田樹(うちだ・たつる)

1950年東京生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。 現在、神戸市で武道と哲学のための学塾「凱風館」を主宰している。 神戸女学院大学名誉教授、多田塾甲南合気会師範、合気道七段。

著書に、『街場の現代思想』『街場のアメリカ論』(以上、文春文庫)、 『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書・第6回小林秀雄賞受賞)、 『日本辺境論』(新潮新書・2010年新書大賞受賞)、 『街場の教育論』『増補版 街場の中国論』『街場の文体論』(以上、ミシマ社)など多数

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