凱風館日乗

第14回 凱風館日乗(8月後半)

2013.08.23更新

 みなさん、こんにちは。凱風館日乗です。

 この前の前に「嘘をつく人間の見分け方」をお教えしますと告知だけしておいて、次の回に違うことを書いてしまいましたので、今回は予告通りその話をします。
 これは短い話で済むのでご安心ください。

 嘘をつく人間には二種類があります。
 「ふつうの嘘つき」と「病的な嘘つき」です。
 「ふつうの嘘つき」は自分が嘘をついていることを自覚している人です。
 「病的な嘘つき」は自分がついた嘘を他人より先に自分自身が信じてしまう人です。
 「見分け方」はそれぞれについて違います。

 まず「ふつうの嘘つき」について。
 この場合は嘘をついていることの「疚しさ」にフォーカスします。
 一番わかりやすいのは「キーワードがそこだけ微妙に早口になったり、あるいは滑舌が悪くなって、固有名詞や数詞が聴き取りにくくなる」という徴候です。
 
 そういうとき人間は嘘をついているか、少なくとも自分の言ったこと「相手がきちんと聴き取り、理解し、長く記憶すること」を望んでいないか、どちらかです。
 なぜ「自分の言ったことを相手が聴き取り、理解し、記憶すること」を望まないのか。
 変ですよね、そんなの。

 学者の場合は「何か訊かれたのだが、『知らない』と言いたくないので、早口でごちゃごちゃっと言って、人名とか書名とかをはっきり聴き取らせない」という技をよく使います。
 学会というところに行って、廊下で30分くらいまわりの学者たちの話に聞き耳を立てていると、この「わざ」を学者たちがどれくらい頻繁に使用するかわかります。
 「え?それ誰?」とか「え?それ何の話?」とか訊き返せば、それによって新しい知識が一つ増えるチャンスもあるのに、厭なんですね、「教えて」って言うのが。

 「そんなことは私も疾くから熟知しておるが、そのトピックにはぜんぜん興味がないのでスルー」といううんざしした表情とともにこの「わざ」は使用されます。
 まあ、一般市民の方はあまり学会とかに行く機会がないでしょうから、「自分はすごく物知りだと思っているやつ」とか「何にでも一家言ある口うるさい上司」とか、そういう人間が身近にいたら観察してみてください。

 もう一つ「嘘をつくとき」の表情的な特徴があります。
 眼が泳ぐ。
 これはほんとうです。
 人間は「昨日どこにいて何をしていましたか?」と訊かれたときに「思い出そうとするとき」と「嘘をついて言い逃れしようとするとき」では眼の動かし方が違います。

 人間ははっきりしない記憶を呼び起こすときには、右か左かどちらか斜め上方に目を向けます。
 ただし、これには個人差があります。僕の場合は「記憶をたどるとき」は右斜め上を見ます。
 「嘘をつくとき」はこれが逆になる。
 ですから、ふだんからどういう場合に嘘をついているか、どういうときには真実を語っているかをきちんと識別しておけば、嘘をついているときは一発でわかります。

 妻とかガールフレンドから「昨日何していたの?」となにげなく訊かれたときに、こちらが「ええと・・・」と言っただけで、まだ何も言わないうちに「あなた、何か私に隠してない?」と瞬時に見破られてしまうのは、彼女たちが「眼が泳いでいること」を感知したからです。
 恐ろしいですね。
 
 さて、もう一種類「病的な嘘つき」というものがあります。
 これはもう息を吸ったり吐いたりするように嘘をつく人たちです。
 別に嘘をつくことで自分が得をするとか、そういう功利的な嘘ではありません。

 「昨日何時に寝たの?」
 「え、午前4時くらいかな」
 「じゃ、ほとんど寝てないんじゃない!」
 「おう、眠くて眠くて、ちょっとここで寝ていい?」
というふうに無意味に口走った「午前4時」のせいで、あくびをしてみせたり、タヌキ寝入りをしてみたり、よけいなことをあれこれしなくちゃいけなくなって、全然いいことなんかないんですけど、それでも止らない。

 なんか「午後11時に寝た」というよりは「午後8時から寝ちゃった」とか「午前4時まで起きてた」とかいうほうが「劇的」だという判断があるんだと思います。
 小学校にはだいたい病的な嘘つきの子がクラスに一人はいて、そういう子が「私の父親はフランス大使なの」とか「さっきまでフライ級の世界チャンピオンがうちにあそびに来ていた」とか「荒川の河原にカンガルーがいる」とか「『少年ジェット』の撮影は先週オレの家でやったんだよ」とかいうことを際限なく言い募っておりました(いずれも実話)。

 これは小田嶋隆さんがどこかで書いていたことですけれど、僕たちはこういうタイプの「妄言癖」の級友をけっこう愛していたのかも知れません。
 「もしかすると荒川の堤にカンガルーがいるかもしれない」と思ってドキドキしていた方が、「なもん、いるわけねえだろう」と鼻であしらうよりも子どもにとっては過ごす時間が濃密なものになります。
 病的な嘘つきの多くは「人生を劇化する志向」が強いようです。
 だから嘘に嘘を重ねる。
 言い逃れができなくなるとさらに嘘をついて、ますます自分を出口のない窮地に追い詰めてゆく。

 「え。さっきまでカンガルーいたよ。ほら、尻尾が見えた!」
 「どこだよ!」
 「これ、見てご覧、この茶色い毛、カンガルーのだよ。ほら」
 「それは犬の毛だろう、ばかやろう」
 「てめえ、そういう嘘をついて、俺らを引っ張り回すの、いい加減にやめろよ。これ以上嘘つくと、殴るぞ」

 そういう切羽詰まった状況そのものがたぶん「人生を劇的なものにする」という彼ら彼女らの目的には合致しているのでしょう。
 嘘をついたせいで殴られそうになっている自分の劇的状況にも軽く陶酔している。
 そういう切羽詰まった状況に立ち合っている「殴るぞこのやろう」的立場の子どもたちも、やっぱり彼の嘘のせいで微妙に非日常的に興奮している。

 嘘つきの作り出した不均衡と危機を全員がそれなりに享受している。
 だから、こういう人たちが他人を騙して金を巻き上げるとか、そういう犯罪的なところに踏み込むということはあまりないようです。
 「ふつうの嘘つき」の方がしばしば罪が重く、「病的な嘘つき」の方がむしろ人畜無害であるというのも、考えてみると不思議なものであります。

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内田樹(うちだ・たつる)

1950年東京生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。 現在、神戸市で武道と哲学のための学塾「凱風館」を主宰している。 神戸女学院大学名誉教授、多田塾甲南合気会師範、合気道七段。

著書に、『街場の現代思想』『街場のアメリカ論』(以上、文春文庫)、 『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書・第6回小林秀雄賞受賞)、 『日本辺境論』(新潮新書・2010年新書大賞受賞)、 『街場の教育論』『増補版 街場の中国論』『街場の文体論』(以上、ミシマ社)など多数

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