凱風館日乗

第17回 凱風館日乗(10月半ば)

2013.10.19更新

 前回からちょうど一月空いてしまいました。無音をお詫び致します。
 でも、忙しかったんです。ほんとに。
 本2冊出して、テレビの収録が3日あって、新聞雑誌の取材を8回受けて、講演を5回やって、対談2回やって、合気道の合宿に2回行って、新幹線に12回乗って、原稿を5本書いて、ゲラ一冊分見て、仲人一回やったんですから。日記書いてる暇なんか、ありませんでした。

 でも、ようやく最悪の時期は過ぎて、ここ2日ほどはちょっとほっとしております。その隙を突いて三島くんから「凱風館日乗更新されてませんけど・・・」という督促がありましたので、とりあえず一つ書くことにします。
 でも、一月前のことなんか遠い過去のことで、もう思い出せませんので、とりあえず今日書いた話について。

 これはある雑誌からの依頼で、「租税回避と共同体」について長いものを頼まれました。8000字ほど書いて、書き上げて「やれやれ」と肩をぽんぽんと叩いて、三宮にちょっと懸案の用足しをしにゆきました。電車の中でツイッターに「租税回避者について書いた」と書いたら、すぐに平川君からツイートが来て「オレも書いてて、さっき送稿したよ」と教えてくれました。
 
 どんなこと書いたのか知りたくて、メールで送ってもらいました(こういうやりとりについては電子ガジェットって、ほんとうに便利ですね)。読んだら、僕とよく似たことを書いていました(もちろん彼の方はきちんとした統計資料などを駆使したしっかりした論考で、僕のは与太エッセイなんですけど、趣旨はよく似ていました)。
 その話をします。

 平川君の書きもののキモの部分はこちらです。
「企業というものは、国民国家のなかで発展してきた存在であり、法律を遵守し、雇用を確保し、納税する義務がある。それらの義務を遂行するのが市民の努めであり、そういうことの積み重ねによって成熟した市民社会が形成される。成熟した市民社会は、それが何によってもたらされるのかを知っている成熟した市民によって支えられている。同じように、成熟した産業社会は、成熟したよき法人の努力によって形成される。
 もし、企業がただ、株主の利益を最大化するためだけの収益装置であり、コストを下げて利益を増大化するというロジックだけで動くとすれば、市民社会が税金逃れをする市民ばかりでは成立しないように、国民経済というものが成り立たなくなる。
多国籍企業にとっては、国民経済など知ったことではない、企業間の競争に勝てばそれでよいのだというのは、多国籍企業としての論理には適っているが、そのような企業ばかりになったときには、もはや国民経済というものはその意味を失うことになる。」

 そして「国民経済」という今ではもう誰も使わなくなった言葉について、下村治(池田内閣のときの経済成長戦略の起案者)の言葉を引きます。
「本当の意味での国民経済とは何であろうか。それは、日本で言うと、この日本列島で生活している一億二千万人が、どうやって食べどうやって生きて行くかという問題である。この一億二千万人は日本列島で生活するという運命から逃れることはできない。そういう前提で生きている。中には外国に脱出するものがあっても、それは例外的である。全員がこの四つの島で生涯を過ごす運命にある。その一億二千万人が、どうやって雇用を確保し、所得水準を上げ、生活の安定を享受するか、これが国民経済である」(『日本は悪くない悪院はアメリカだ』文春文庫頁93)

 偶然ですけれど、実は僕も自分のエッセイでこれとまったく同じ箇所を引用しました(もともとこの本を読めと言ってくれたのは平川君の方なので、真似をしてるのは僕なんですけど)。現代の政治家も官僚もメディアも、もはや国民経済という観点から経済政策の可否を論じる習慣を失ったという話を僕は書きました。同じ引用箇所のあとに、僕はこんな文章を続けました。その部分を採録しておきますね。

「下村がこう書いたのは1987年、四半世紀前のことである。2013年現在、同じ自民党政権でありながら、下村のこの国民経済論に同意する政治家も官僚も財界人も、ジャーナリストさえ日本にはもうほとんど存在しない。そのことに私たちは驚くべきだろう。
 下村は別に机上の空論を述べていたわけではない。彼は戦後日本でもっとも成功した経済政策を起案し実施した実践家である。その『もっとも成功した経済政策』の最優先課題は『日本列島で生活するという運命から逃れることができない』同胞をどうやって食わせるかということだった。
だが、今、その基本理念をとりあえず党名は同一である政党は捨てた。そのことを指摘する人はほとんどいないが、そうなのである。
 『日本列島で生活するという運命から逃れることのできない』人間たちはグローバル経済の時代においては、もう政策的配慮の優先的な対象ではない。列島内の生産性の低い産業セクター(例えば農林水産業)にしがみついていたせいで彼らがこの先どれほど貧窮化しても、それは『日本列島で生活するという運命』から逃れようとしなかった彼らの意思(と無能)の帰結であり、自己責任で引き受けるしかないということである。生き延びたければ、『日本列島から逃れる』ことのできるような機動性の高い人間になる他ない。それが現代日本の常識である。だから、人々は必死になって英語を覚え、子供を英語圏の学校に送り出し、できることなら海外に生活拠点を移し、海外に人間的ネットワークを構築し、日本が滅亡しても自分だけは生き残れるようなタフな人間になろうとしている。
 これを『日本人もグローバル化して結構なことだ』と言祝いでいるおめでたい人がいるが、そういう人は何か根本的な勘違いをしていると思う。忘れてはいけないのは、グローバルであることに高い価値が賦与されるのはドメスティックな文脈においてだということである。英語が話せることがアドバンテージになるのは英語が話せる人間があまりいない社会においてである。ハーヴァードやスタンフォードでの学位が法外に高く評価されるのは、同じ学位を持つ人間がまわりにいない環境においてだけである。海外に工場や支店を展開して『国際的なビジネスマンになった』と自慢顔の経営者に新聞雑誌が取材を求め、その経営哲学をうれしげに拝読する読者がいるのは日本国内だけである。
 だから、政府に2000億円支払わせた消費者金融の御曹司が今香港社会でどのような格付けをされているのか、私はそれに興味がある。むろん彼の周りには彼から金を巻き上げようとする無数の人間が満面の笑顔で蝟集してきてはいるだろう。だが、彼の蓄財と処世の才に深い敬意を抱き、その人生哲学を聴かせて欲しいとか、グローバル時代のロールモデルとしてわれわれの範となって欲しいとかいう人間はたぶん香港にも一人もいないはずである。繰り返し言うが、皮肉なことに『グローバルであること』がアドバンテージを持つのは、グローバリストが砂を掛けて立ち去ったはずのローカリティの内部においてだけなのである。
 今、われわれの国では、『日本のシステムはダメだ。だから、私は日本で教育を受けず、日本に拠点を置かず、日本でビジネスをしない』と公言する人間ほど日本社会内部で高い評価を受けるという倒錯的な格付けが行われている。
 わかりやすい比喩を使って言えば『船が沈没するときにまっさきに脱出できるように上空にヘリコプターを待機させておけるほど目端の利いた人間に船の舵取りは任せるべきだ』というロジックが通用しているのである。『いつでも日本を捨てることのできる人間(あるいは、すでに捨て始めている人間)』が日本人のあるべきモデルとされているのである。」

 このあと自民党の改憲案の分析とか、いささかややこしい話になるのですが、そこは割愛。「政府に2000億円払わせた云々」というのは消費者金融大手の武富士の創業者の長男の話です。この人は親から1300億円相続しました。最初は課税されて延滞金含めて1600億円払わされたのですが、自分は実質的には香港に居住実態があるので、日本政府に課税されるいわれはないとして訴訟を起こして、最高裁判決で勝訴したのです。利息を含めて日本政府は彼に2000億円払った、という話です。

 たぶんこれは氷山の一角で、資産を海外に移転して、租税回避をしている富裕層はたくさんいるんだろうと思います。まあ、好きにしたら、としか言いようがありませんが、気になるのは海外の学校に子供を「逃がす」親たちが富裕層だけでなく、中産階級からも出てきていることです。

 先日僕が連載をしている『GQ』という雑誌で、「子供を海外の寄宿学校に入れるノウハウ」の特集が組まれていました。そこに出てきた30代40代の親たちは、「日本の学校なんかに入れたらグローバルな人間になれない」ということで自分の子供たちを中学生くらいからインターナショナルスクールや香港やシンガポールやヨーロッパの寄宿学校に送り出している。僕はその人たちの自慢話を聞きながら、なんだかその子供たちのことが心配になりました。

 彼らはいったいこの先「どこ」に帰属することになるのか、それが心配になったのです。
 そのまま彼らが留学した先の学校を卒業して、その土地で働いて、家族を作って根を下ろすというのなら、それはそれでひとつの生き方だろうと思います。でも、その土地は彼らが選んだものじゃない。親が「グローバル人材育成の費用対効果」を電卓で叩いて決めた土地です。「やっぱスイスのボーディングスクールの学費はちょっときついなあ。近場で香港のインターナショナルスクールにしとくか」というような感じで。別にその国の社会の政体や文化や伝統や習俗に敬意や関心があったからじゃありません。だから、送り込まれたそこに根を下ろす必然性がない。とりあえず親はそんなことを許しません。だって、子供を外国に送り出したのは「その方がドメスティックな格付けが高くなるから」という判断に基づいてのことだからです。子供は海外で学位を取ってきたら、さっさとそこを離れて日本に「凱旋」することを期待されている。

 でも、子供の身にもなってみてください。10歳くらいでひとりぼっちで外国にやられて、言葉もろくに通じないところでがんばって暮らして、ようやく友だちも出来て、その土地の仕組みにもなじみ、そのローカルな文化にも親密な感じを持てるようになったところで、「さあ、日本に帰って一流企業に勤めろ」と言われても、困るでしょ。だいたい、帰ってこいという日本社会は「この国はろくでもないところだから、こんなところで学校教育を受けたらいいことがない」という烙印を押されて国なわけでしょ。海外で勉強している間も、その苦しみに耐えるために、子供自身「ここで勉強できる自分は日本にいる子供たちよりずっと幸福な身の上なんだ」と自分に言い聞かせてきたわけです。

 そんな不幸な国に「さあ、帰ってこい」と親から言われても困る。友だちもいないし、社会の仕組みもわからない。価値観も美意識も作法もわからない。だいたい日本語がよくわからない。外資系で社内公用語は英語だからノープロブレムといわれても、日本語ではむずかしい話もニュアンスのある話もできない。政治も経済も文学も音楽も語れない。だいたい日本文学も日本の音楽も知らないというのでは、デートの話題にも事欠きがち。

 だから、たぶん帰ってこないと思うんです。彼らの相当数は。あるいはいったん帰って来ても、日本社会に適応できなくて、病んでしまう。だいたい、「日本はろくでもない国だ」と親にずっと言われてきたわけですから、そんな不出来な社会に自分を変えてまで適応する努力をする理由がわからない。当然、自分の意思が通じないときは「だから日本人はダメなんだ」というふうに自動的に他罰的なかたちで処理してしまう。そんな若者が周りから好かれたり信頼されたり敬意を持たれたりする可能性はありません。

 だから、香港のインターナショナルスクールに入れた子供はきっと香港とかシンガポールとかジャカルタとかクアラルンプールで働く方が「まだしも気が楽」ということになって、そっちに行ってしまうだろうと思います。親としては大金を投じて「ドメスティックな格付け」を上げるために子供を海外にやったのに、子供はいつのまにかアジア無宿になってしまいました・・・というような話がこれからいくつも聞かされることになるだろうと思います。親の方は「バカ」で済みますけれど、子供さんが気の毒ですよね。

 だって彼らはもう「どこ」にも帰属できないんです。日本人なのに日本人ではない。「日本社会はダメな社会であり、日本列島から出て行ける人間こそが優れた日本人なのだ」というロジックに乗せられて親たちは子供を海外に送ってしまったわけですけれど、これはグローバリストが国民国家を収奪するためにつくった「嘘」ですから。どう考えても、「私は日本ではないところで教育を受け、日本人以外の友人知人を持ち、住むのも働くのも、できることなら海外がよいと思っているのだが、日本国内だと高い格付けが得られるらしいので、いやいやこんなろくでもない国で暮らすことにしたのだ。ついては私を尊敬しろ」と本人が言い張っても、誰も聞いてはくれません。でも、そういうような立場に追い込まれてしまうんです。

 僕は「日本列島以外のところで暮らせる人間、同胞に対して扶養の義務も支援の義務も感じない人間、日本の言語にも、宗教にも、伝統にも、芸術にも、生活文化にも何の関心もなく、そんなものは『なくても困らない』人間こそが理想の日本人である」というこのグローバリストのロジックは論理的に破綻しているという以上に、これをうっかり信じてしまった多くの個人に深い、取り返しの付かない傷を残すような気がします。

 グローバリストを信じるなということを僕は論争的な意味で言っているのではありません。若者たち、子供たちを守るために言っているのですが、なかなかご理解頂けないのであります。まあ、平川君がいるからいいけど。

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内田樹(うちだ・たつる)

1950年東京生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。 現在、神戸市で武道と哲学のための学塾「凱風館」を主宰している。 神戸女学院大学名誉教授、多田塾甲南合気会師範、合気道七段。

著書に、『街場の現代思想』『街場のアメリカ論』(以上、文春文庫)、 『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書・第6回小林秀雄賞受賞)、 『日本辺境論』(新潮新書・2010年新書大賞受賞)、 『街場の教育論』『増補版 街場の中国論』『街場の文体論』(以上、ミシマ社)など多数

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