凱風館日乗

第18回 凱風館日乗(10月の終わり)

2013.11.01更新

 福島みずほ参院議員の議員生活15周年の記念パーティがあって、その「呼びかけ人」になっていたので、東京まで出かけてきました。

 福島さんの率いていた社民党は彼女が土井たか子さんから党首を引き継いだ10年の間にすっかり党勢が衰えてしまいましたが、福島さんご自身はその間もたいへん活発に市民運動と議会をつなぐ「ブリッジ」の仕事をされております。
 昨日のパーティにも実にさまざまな市民運動の方がおいでになっていました。

 「福島さんほど見ず知らずの市民の訴えに耳を傾けてくれる議員はいない」という評言は全員に共通のものでした。そういう人なんですね。
 僕は「人権派」というタイプの人が苦手で(たいてい僕のことを頭から叱りつけるので)、できるだけ近づかないようにしているのですが、福島さんは例外的な存在です。僕がどんな暴論を語っても、ぜんぜん怒らないで、人の話を頷きながら聴くことのできる方であります。

 そういう福島さんなので、「乾杯のご発声」をと頼まれて、地に墜ちた社会民主主義の復活を祈念して乾杯をさせて頂きました(失礼な話といえば、ずいぶん失礼な乾杯でしたけど・・・)
 でも、社会民主主義の復活はありそうな気もします。その話を今日はしたいと思います。

 先日対談した政治学者の白井聡さんは弱冠33歳の気鋭の論客でしたが、なんと「マルクス=レーニン主義者」でした。
 生きている30代のマルクス=レーニン主義者と会ったのは30年ぶりくらいのことです。びっくりしました。
 その前に中島岳志さんとおしゃべりしたときも、中島さんが「僕は保守です」と言ったのを聴いて、新鮮な感動を覚えました。

 世の中は「グローバリスト」と「アンチ・グローバリスト」に二分されつつあるようですが、この「アンチ・グローバリスト」たちの共通性は「わりとオールデイズ」ということのようであります。
 白井さんは「55年体制というのは、戦後日本では成功したシステムだった」ということを言われてました(これは僕も同意見)。中島さんは「改革だ、リセットだと浮かれずに、じっくり政策の適否を吟味してから判断する」保守の構えを勧めています(これは僕もそうです)。  

 マルクス・レーニンの再評価もアンチ・グローバリズムが要請したものでした。
 現に、自分の書いたものを読むと、グローバリズム批判の文体は『資本論』でマルクスがイギリスの児童労働の「ブラック」性をはげしく難詰するときの感情に近いものに駆動されています。加速する経済活動のために生身の人間が破壊されてゆくことへの生物としての怯えが資本主義勃興期の社会主義者にはありました。生産様式が変化し、生産力が右肩上がりに上がってゆく趨勢はとどめがたいけれど、そのスピードが生身の人間の成長や加齢や衰弱の「生物学的時間」とあまりに乖離すると、人間は壊れ始める。そのことへの生き物としての危機感が19世紀の社会主義者たち(マルクスやエンゲルスだけでなく、ロバート・オーウェンのような"空想的"社会主義者やピョートル・クロポトキンのようなアナキストにも)共有されていました。

 でも、その後、人間はしたたかにこの変化の速度に適応してゆきました。そして、経済活動の時間はどんどん加速されて、ついに人間の計測できる時間を超えてしまった(いま、1秒間に何十回というスピードで株式や為替の取引をしているのは人間ではなくアルゴリズムです)。
 かつての資本家や工場経営者は「自己利益」のために労働者を搾取していました。彼らはそれによって豪奢な家に住んだり、華やかな衣類をまとったり、美食や美酒を楽しんでいました。労働者と比べると桁外れではありましたが、それらの快楽は「身体ベース」でした。

 身体ベースであるということは、「身体という限界」があるということです。
 人間は同じ時間に二つの場所にはいられない。ですから家を何十軒を持っていても夜寝ることができるのはそのうちの一軒だけです。服を何千着持っていても、いちどに着られるのは一着だけです。ご飯だって一日三度を超えて食べ続けると死んでしまいます。人間の欲望が身体的欲求に基づいて構想されている限り、収奪にも「人間的限界」がありました。

 でも、今のグローバリストはそうではありません。彼らはもう身体的な欲求に基づいて利益を求めているのではないからです。個人資産100億ドルというような天文学的スケールの超富裕層はどれほど蕩尽しても、もうお金の使い道がない。日替わりで自家用ジェット機を乗り換えても、世界中のリゾート地に別荘を作っても、使い切れない。あとは「金で金を買う」しかすることがない。だから株を買い、国債を買い、通貨を買い、不動産を買い、金を買い、石油を買う。これらは貨幣の代替物です。貨幣で貨幣を買う。これが今の経済活動の本質です。そこにはもう人間的欲求はかかわらない。だから、人間的限界もない。

 グローバル資本主義というのはそういうものです。もう身体の基礎的欲求に基づいて市場は形成されておりません。機関投資家がどこかの国債を売り浴びせるとか、金を買い占めるとかいう行動を取ることは、ディスプレイの前でキーボードを叩いている投資家自身の身体とも、(国債が暴落したり、金が高騰したりしたせいで)路頭に迷っている人たちの身体とも、もう何の関係もありません。
 そんなふうに人間的欲求を無視していたら、いずれ行き詰まるんじゃないかとふつうは考えます。

 でも、この場合の「いずれ」というのは、あくまでも人間的時間の尺度に基づいた「いずれ」です。自分や自分の子や孫が生きているあいだのこと、ざっと100年くらいまでのことを僕たちは「いずれ」と呼ぶ。

 でも、現在の経済活動の基本単位はもう「秒」です。経済活動で、ある程度たしかなことが見通せるのはせいぜい四半期(それだって企業は毎日のように下方修正したり上方修正したりしてます)。それより先の「いずれ」のことなんか考えることはできません。
 だから「そんなことをしていたらいずれ行き詰まるんじゃないか」と「人間」に言われても、「経済」の方は「『いずれ』のことなんか知るかよ。この四半期が勝負どころなんだから」と鼻先で笑っておしまいです。

 この加速趨勢に対して、これから「人間的時間の回復」というタイプのカウンターが登場してくるのは歴史的必然だろうと僕は思います。
 人間的時間を基準にして、政策の適否を判断する。人間の身体的欲求に準拠して、生産や流通のありようを決定する。生身の身体を「価値の度量衡」に据える。そういう「尺度としての身体の復権」の動きがこれから社会のあちこちから同時多発的に湧き出てきて、それが「アンチ・グローバリズム」の滔々たる流れを形成することになるのではないか。なんだか、僕にはそんな気がします。

 話を戻します。「アンチ・グローバリズム」の諸潮流の特徴が「なんとなくオールデイズ」だということを上に書きました。この「オールデイズ」感は「モノラル録音の、一発採りの、50年代ポップスのアナログ盤」を聴いているときの感じに似ています。そこにはたしかに生身の人間の身体があるということが実感される。あちこちから持ってきた電磁パルスの情報をコンピュータで処理して作り上げたパッチワーク的な音楽とは違う「なまもの」感がある。

 たぶん若い人たちは今の時代のありように「なんだか知らないけど、『なまもの感』がない」ということをひそかに感じているのではないでしょうか。
 彼らの世代は、極端なことを言うと、生まれてから一度も「なまもの」に触れたことがありません。宮崎駿のアニメを見て、それで「里山の美しさ」を記号的に学習しただけ、というような人たちもいるでしょう。だからこそ、逆に「なまもの」に対する輪郭の定かでない、「飢えのようなもの」があるのではないか。

 若い人たちが都市に就職するのをやめて、(朝顔の栽培くらいしか経験がないままに)農業に向かうという動きにも、江藤淳や福田恆存のような保守思想家の再評価の動きにも、「なまもの感」のある政治思想(農本主義とか空想的社会主義とか)への接近という動きにも、僕は同じようなトレンドを感じます。
 いずれも「生身の身体を基準にして、地面に近いところから、ものごとの正否を考量しようとする態度」です。

 これは鈴木大拙によれば、古く鎌倉時代に生まれた「日本的霊性」の基本的な構えでした。日本人が例外的に創造的になることができるのはこの「earthyな」構えを取るときである、というのは僕の経験的実感です。
 日本的霊性から武芸が生まれ、能楽が生まれ、鎌倉仏教が生まれました。この消息についてはまた別の機会に詳述するとして、21世紀の日本に再び「日本的霊性」が賦活する動きが「アンチ・グローバリズム」というかたちで登場してくるというのは、個人的にはたいへん希望の持てる展開であります。

 問題は、この流れのどこに福島さんたち「社会民主主義者」の場所があるかということです。
 ロバート・オーウェン型の空想社会主義的な実践ならば、これからの時代にも「脈がある」と僕は思います。
 まず自分の身銭を切って、小さいサイズの「ここだけはものごとの条理が通る空間」を手作りしてゆく。そういう小さな「まともな共同体」をゆるやかに連携して、だんだん拡げてゆく。そういう手だてが迂遠にみえるけれどこの社会を人間的なものにするためにはどうももっとも効率的なものらしいということは現代日本人にもだんだんわかってきているのではないでしょうか。

お便りはこちら

みんなのミシマガジンはサポーターの皆さんと運営しております。

内田樹(うちだ・たつる)

1950年東京生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。 現在、神戸市で武道と哲学のための学塾「凱風館」を主宰している。 神戸女学院大学名誉教授、多田塾甲南合気会師範、合気道七段。

著書に、『街場の現代思想』『街場のアメリカ論』(以上、文春文庫)、 『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書・第6回小林秀雄賞受賞)、 『日本辺境論』(新潮新書・2010年新書大賞受賞)、 『街場の教育論』『増補版 街場の中国論』『街場の文体論』(以上、ミシマ社)など多数

バックナンバー