凱風館日乗

第25回 凱風館日乗(2/22〜4/1)後編

2014.04.05更新

 次は共著です。晶文社から出る『街場の憂国会議』。特定秘密保護法の国会通過につよい危機感をもった8人の書き手たちに集まってもらいました。
 鷲田清一、高橋源一郎、平川克美、小田嶋隆、孫崎享、想田和弘、中島岳志、中野晃一のみなさんです。文体もアプローチもまったく違う人たちに安倍晋三の政治について語ってもらいました。これも「まえがき」を立ち読みしていただきます。

「日本はこれからどうなるのか。まっすぐに「滅びの道」を転がり落ちてゆくのか、どこかでこの趨勢に「歯止め」がかかるのか。正直に言ってよくわからない。今この文章を書いているのは3月末だけれど、本が出る頃に日本の政治がどうなっているか、私には予測がつかない。
 もちろん「たいしたことは起きやしない」とクールに構えることもできるだろう。けれど、そういうことを言う人は「たいしたこと」が起きたときには仰天して絶句することになる。そのくせ、しばらくするとまたしゃしゃり出てきて、「きっと『こんなこと』が起きると思っていた。こんなのは想定内」としたり顔で言うのだ。そういうのを若い頃から腐るほど見てきた。
 驚かされると人間の心身の能力は著しく低下する。だから、武道家にとって、「驚かされること」は最大の禁忌のひとつである。それに処するための方法も経験的に知られている。 逆説的なことだが、「驚かされない」ための最も有効な方法は「こまめに驚く」ことなのである。「驚かされる」のは受動的なふるまいだが、「驚く」は能動的なふるまいだからである。ふだんからさまざまな種類の微細な変化に細かく反応していれば、地殻変動的な変化についてもそのかすかな「予兆」を感じ取ることができる。「風の音にもおどろかれぬる」詩人はいざ「秋が来た」ときにはそれほど驚かされずに済む。
 私が時事問題について論じるときに自分に課している心構えは「人が驚かないときに驚き、人が驚かされるときに驚かされないこと」である。それは要人警護のSPの心得とそれほど変わらないと思う。彼らは警護すべき人の通り道を毎日歩き、そこに何があるかを記憶する。それはリスクというのはつねに「ないはずのものがある」か「あるはずのものがない」というかたちで徴候化するからである。彼らのセンサーはそのいずれにも反応して、アラームを鳴動させる。それは言い換えれば、日々「風の音に」驚くということである。人が気づかない変化に気づくこと。それが巨大な危険を回避するためにもっとも有効な備えであることを経験は教えている。
 この本を編んだのはそのためである。寄稿者たちは誰しもが「それぞれの風の音」を聴き取っている。そして、それぞれの立場から「巨大な危険」について不安な想像を胸の奥に養っている。読者の方々にはぜひそれを読み取って欲しいと思う。」

 いささか気負いが感じられますけれど、それだけ僕の危機感はつよいのであります。
 さて、この「立ち読み」シリーズ、楽に字数増えていいですね。もうちょっと続けますよ。
 僕は『AERA』という週刊誌に隔週で寄稿しているのですが、その中でぜひみなさんに読んでほしいものがあるので、それを転載しておきます。

「ある団体から憲法記念日の講演依頼があった。護憲の立場から安倍政権の進めている改憲運動を論じて欲しいという要請だった。お引き受けしたら、過去に二度集会を後援してくれた神戸市と神戸市教育委員会に今回も後援依頼をしたところ、今回に限って後援を断られたという連絡があった。後援拒否の理由は「昨今の社会情勢を鑑み、『改憲』『護憲』の政治的主張があり、憲法集会そのものが政治的中立性を損なう可能性がある」ということだそうである。
 行政のこの発言は「公務員の憲法遵守義務」が事実上否定されたという点において憲政史上大きな意味をもっていると私は考える。市長も教育委員も特別職地方公務員である。憲法99条は公務員が「この憲法を尊重し擁護する義務を負う」と定めている。30年前私が東京都の公務員に採用されたときにも「憲法と法律を遵守します」という誓約書に署名捺印した。当然、神戸市長も教育委員たちもその誓約をなした上で辞令の交付を受けたはずである。にもかかわらず、彼らは彼ら自身の義務であり、かつ公的に誓約したはずの「憲法を尊重し擁護する義務」を「政治的中立性を損なう」ふるまいだと判定した。
 総理大臣が改憲派である以上、護憲論は「反政府的」な理説である。お上に楯突く行為を行政が後援すれば政府から「お叱り」を受けるのではないか。そう忖度した役人が市役所内にいたのだろう。
 立憲主義の政体においては、憲法は統治権力の正当性の唯一の法的根拠であり、いかなる公的行為も憲法に違背することは許されない。しかし、神戸市は「時の権力者が憲法に対して持つ私見」に基づいて、公務員の憲法遵守義務は解除され得るという前例を残した。
 私人としての彼らがどのような憲法観を抱いているか、それは彼らの思想信条の自由に属する。しかし、ひとたび公人としてふるまう場合は「憲法を尊重し擁護する義務」を免ぜられることはない。
 憲法は私人から見れば一個の法的擬制に過ぎないが、公務員にとってはその職務の根本規範である。私人と公人の区別がわからない人が公務を執行する国を「法治国家」と呼んでよいのだろうか。」

 相当腹を立てていますね。でも、民主制の崩壊はこういう小さな「蟻の穴」から水が漏れるようにして始まるのではないかと僕は思っています。制度は巨大で確信犯的な悪意によって崩れるのではありません。臆病で利己的な人間の「せこい」ふるまいの算術的総和によって崩れるのです。それはネット上で匿名で他人を非難罵倒する人間の「せこさ」と同質のものです。
 自分のふるまいについて個人として責任を引き受けることを免ぜられるときに、どこまで卑劣にふるまえるかで人間の質は考量できます。これは若い頃から経験を通して学んできたことです。「何をしても処罰されない」という条件を示されたときに「悪いこと」を思いつく人間がいます。その人が「そういう人間」だということはそのときまで、まわりの人間も、本人さえも知らなかったのです。「何をしても処罰されない」というような条件はごく短期間しか続きませんし、ごく特殊な状況においてだけですから、「そういう人間」でいられる期間は短く、地域も限定的です。その時期が過ぎ、その場を離れると、「悪いこと」をした本人も自分が「そういう人間」であったことを忘れてしまう。でも、僕はそういう人間のことは忘れない人間です。
 それまでごく穏やかな人間に見えた人が、「処罰されない」という条件を示されると、どれくらい卑劣にふるまうか、僕は知っています。

 前にも書いたことですけれど、桑原武夫学芸賞の授賞式のとき(茂木健一郎さんが受賞したときにお祝いに駆けつけたのです)、選考委員だった杉本秀太郎さんが桑原武夫の思い出としてこんな逸話を紹介してくれました。
 以前、杉本さんが当時売り出し中のある気鋭の学者について桑原武夫に人物評を請うたことがあったそうです。杉本さんの口ぶりから察するに、世評にはいささか懐疑的だったようです。問われて一言、「頭のいい男やね」と桑原武夫は言ったそうです。
「でも、ぼく、あの男と一緒に革命やろうとは思わん」
 戦前の京大で学者仲間が次々と特高に逮捕され、免職され、発禁処分を受ける様子を手をつかねて見ていた「賢い学者」たちのことを桑原は忘れませんでした。その嫌悪感が「一緒に革命をやろうとは思わん」という評言には込められています。

 僕は今の日本がまた少しずつ戦前の日本に近づいているような気がしています。政治システムがどうであるとか、イデオロギーがどうであるとかいうことではなく、自己利益のために同胞や仲間を裏切ることにさしたる心理的抵抗のない人たちが順調に出世して、大きな声で僕たちに指図していることへの深い疲労感と強い嫌悪感がしだいに募ってくるのを禁じ得ないからです。
 来月はもう少し明るい話をしますね。今月はここまで。

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内田樹(うちだ・たつる)

1950年東京生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。 現在、神戸市で武道と哲学のための学塾「凱風館」を主宰している。 神戸女学院大学名誉教授、多田塾甲南合気会師範、合気道七段。

著書に、『街場の現代思想』『街場のアメリカ論』(以上、文春文庫)、 『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書・第6回小林秀雄賞受賞)、 『日本辺境論』(新潮新書・2010年新書大賞受賞)、 『街場の教育論』『増補版 街場の中国論』『街場の文体論』(以上、ミシマ社)など多数

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