月刊 越尾比屋人

 明治時代。日本が国を開き、海のかなたに広がる世界が意識されはじめると、誰も行ったことも、聞いたこともなかった異国の名に漢字があてられた。
 「越尾比屋」もそのひとつだ。

 福沢諭吉が「阿(あ)非利(ふり)加(か)の内地(ないち)の様(さま)は知(し)られざるも 大概(あらまし)かぎる国境(くにざかひ)南(みなみ)の方(かた)に越(えち)尾比屋(をぴや)・・・」(『世界國書』)と書いた、そのどこかぎこちない当て字にも、未知の大陸に思いを馳せた時代が透けてみえる。

 さて、21世紀の日本。アフリカは、ぼくらにとってどれだけ身近になったのか。グローバル化だ、第三の開国だ、と叫ばれるなか、エチオピアは、いまだ「越尾比屋」のままなのかもしれない。

 たぶん、それはアフリカだけではない。おとなりの中国だって、韓国だって、とかく異国のことは、なんだかよくわからない「他者」でありつづけている。

 自分にとっても、「エチオピア」はアフリカの遠い異文化を想起させる「記号」に過ぎなかった。それが15年くらい通いつづけるうちに、いつからか抽象的な他者ではなく、いろんな人の顔や匂いが浮かぶ生身の存在になっていた。

 今回の連載では、いままで私が出会ったエチオピアの人びとのことを書いてみようと思う。あの国はどうだとか、~人はこうだとか、つい自分たちとはまったく違う記号のように語ってしまう。そこにぼくらと同じ血の通った、いろんな感情をもって生きている人がいる。むしろ国とは、そうした生身の人間の集まりでしかない。
 そんなあたりまえのことを書こうと思う。

第1回 ナジフとタデセ(前編)

2013.04.18更新

 まずは、はじめてエチオピアに行ったときに出会った少年たちの話から。
 当時、大学生だった私がエチオピアで書いた文章をもとに――。

 1998年8月。20日ぶりにアガロの町に帰ってきた。日が暮れかかっていたせいか、10時間のバスの旅を終えてたどりついた場所は、悲しくなるほど地味な田舎町だった。

 アガロはエチオピア西部にある人口3万人ほどの町だ。コーヒー栽培の中心地として知られる。6月から7月まで予備点な調査を行ったあと、いったんビザの更新のために首都アジスアババに向かい、私だけ一足先にアガロに戻ってきた。

 翌日の朝、私はひとり「ハランベ」に向かった。アガロで過ごした最初の2カ月間、ほぼ毎日のように通っていた朝食屋である。そら豆の煮込みに卵をくわえた「アンド・バンド」。同じく豆のベースに唐辛子のきいた「フル」と卵入りの「フル・スペシャル」。スクランブル・エッグとあまり変らない「インクラル・フルフル」。これらをパンにつけて食べる。

 壁際の席に腰かけ、アンド・バンドをたのむ。いつものように朝食をとる人でごった返している。しかし、そこに彼の姿はなかった。見覚えのない少年が客のうるさい注文に顔色ひとつかえず忙しく走りまわっている。
 「シャイ(紅茶)まだかよ、急げ!」       
 客から容赦なく苛立った声があがる。

 朝8時から11時半までのあいだ、続々とやってくる客から注文を聞き、料理を席まで運んで勘定をする。ついこの前まで、それは「ナジフ」と呼ばれる少年の仕事だった。私たちが来るとナジフはいつもまぶしそうに目を細め、にやにやしながら注文をとりにきた。

 「今日は何にするの?」
 「アンド・バンドとフル・スペシャルかな」
 「オーケー、アンド・バンドとインクラル・フルフルね」
 彼はこうやってよく私たちの注文を勝手にかえてしまった。

 ある日の午後、仕事を終えたナジフに道で会った。彼は口元をにやつかせながら声をかけてきた。

 「昼間は何もすることがなくて、ヒマなんだわあ~」

 家に帰る途中だった私は、そのままナジフと話しながらゆっくり家の方に歩いた。ナジフのアムハラ語はとても聞きとりにくかった。口のなかでふにゃふにゃと話し、最後はきまって投げやりな感じで言葉を濁す。彼の言っていることは半分も理解できなかった。ただ、そのとき両親が南部に行ってしまい、ひとりで生活していることを知った。
 歳はまだ14歳だった。

 そのナジフがいない。風邪でもひいて休んでいるのか。彼のことを訊けないまま、ハランベをあとにした。モスクの横の道を家に帰る。
 あのときのナジフの顔が、何度もよみがえってくる。
 
 7月18日。ビザ更新のためにアジスに出発する前日のことだった。その日、ハランベの外では一台の車が拡声器で騒がしく喧伝してまわっていた。ナジフに聞くと、エリトリアとの戦争で兵士が不足しているので、若者に志願兵として戦争に参加するよう呼びかけているのだと教えてくれた。

 私は冗談で、「ナジフも戦争に行く?」といってみた。
 彼はにやけていた顔を一瞬真面目にして、答えた。
 「ああ、もちろん」

 16歳以上でなければ兵士にはなれない。一緒にいた友人と顔を見合わせて笑ったあと、「じゃあ俺も一緒に行くわ」と言うと、「いいわ、行こう行こう!」とまた例のにやけ顔に戻る。彼とのこんな会話が私たちの楽しみのひとつでもあった。

 朝食を終え、翌日アジスに行くことを告げて店を出る。家に戻った私たちは荷物の整理にとりかかっていた。その様子を眺めていたベイビー(となりに住む高校生)が門の外に向かって声をあげた。

 「なにか用があんの? 何なんだよ!」
 「誰なの?」と私は訊ねた。
 「ナジフ。ハランベの」

 私があわてて門の外にでると、彼はもう帰りかけていた。
 「どうしたの?」
 振りかえった彼は、顔をこわばらせていた。そして、大きく見開いた目を潤ませながら、かすれた声をしぼりだすように言った。
 「ジャパンに・・・ジャパンに、オレも一緒に連れていって・・・」

 半分泣き出しそうなその表情から、さきほどの冗談のつづきでないことはすぐにわかった。私は一瞬たじろんでから言った。

 「日本に帰るんじゃないんだ。アジスに行って、また戻ってくるから」

 彼は緊張した口元にさっと笑みを浮かべ、「そうかそうか、それじゃあいいんだ」と言って去りかける。と、もう一度振り返り、すがるような眼で、「ベイビーには黙っててね。お願いだから」と言い残して足早に帰って行く。

 その背中をしばし見送ったあとで、私は心にずしりと重いものを受け止めてしまったと感じた。

 ベイビーが「何言っていたの?」と訊く。
 「さあ、わかんない」と肩をすくめて、そのままトイレに向かう。底の見えない暗い穴に視線を落とし、ため息をつく。これが現実か。ナジフの思いつめたような顔が頭から離れない。重いままの頭を垂れながら、私は部屋にもどって荷造りをつづけた。

 あの日から3カ月あまりがたつ。アガロに戻ってきた私はそこからさらに15キロほど離れた集落に住み込み、やっと調査らしいことをはじめていた。2度目のビザ更新の時期が近づいていた。ふたたびアジスに行かなければならない。

 10月10日、私はひさしぶりに村からアガロに戻った。最後にひとりで行って以来、ハランベには足を運んでいなかった。それがふとしたことでナジフの名前を耳にした。彼はハランベをやめていた。おそらくクビになったのだろう。ベイビーの話では、バス乗り場のあたりでシャイを売り歩いているとのことだった。

 ぜひ会ってみたい。あまり時間はなかった。2日後の早朝にはアジスに向かう予定だった。

 翌日の午後、私は彼がシャイを売っているというバス乗り場に向かった。日曜ということもあって、バス乗り場は閑散としていた。近くにいた子どもたちに聞いてみるが、ナジフのことを知っている者はいなかった。思い切ってハランベに行ってみた。店長の息子が勘定台に座っている。歳はナジフよりも2つ3つ下に見える。

 「ナジフ、いまどうしているか知らない?」
 「ああ、ナジフは国に帰ったよ。サンボっていうジンマからちょっと行った・・・」

 話が違う。徒労感に襲われる。と、隣からべつの少年が口をはさんできた。

 「ナジフならいるよ。たしかバス乗り場から坂を登ったところに住んでるんじゃないか」

 私はもう一度バス乗り場の方へ歩きはじめた。道端に座り込んでいる少年や若者たちの顔をひとつひとつ確かめていく。いきおい彼らの怪訝そうな眼とぶつかる。好奇の視線にさらされながら、しだいに足が早まった。

 結局、ナジフは見つからなかった。アガロにいるのかさえ、わかったものではなかった。歩き疲れて道端の長椅子に腰を下ろす。靴磨きの少年が客から預かった皮靴にブラシをかけている。私も足を木箱のうえにのせ、埃塗れのスニーカーを磨いてもらうことにした。

(後編につづく)

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松村圭一郎(まつむら・けいいちろう)

1975年、熊本生まれ。立教大学社会学部・准教授。エチオピアや中東都市部を中心にフィールドワークを続ける。富の所有や分配、貧困や開発援助、海外出稼ぎの問題などを研究。主著に『所有と分配の人類学』(世界思想社、2008)、『基本の30冊 文化人類学』(人文書院、2011)。

『平日開店ミシマガジン』では「<構築>人類学入門」、KYOTO的では「エチオピア的」を連載した。

立教大学社会学部松村研究室

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