月刊 越尾比屋人

 明治時代。日本が国を開き、海のかなたに広がる世界が意識されはじめると、誰も行ったことも、聞いたこともなかった異国の名に漢字があてられた。
 「越尾比屋」もそのひとつだ。

 福沢諭吉が「阿(あ)非利(ふり)加(か)の内地(ないち)の様(さま)は知(し)られざるも 大概(あらまし)かぎる国境(くにざかひ)南(みなみ)の方(かた)に越(えち)尾比屋(をぴや)・・・」(『世界國書』)と書いた、そのどこかぎこちない当て字にも、未知の大陸に思いを馳せた時代が透けてみえる。

 さて、21世紀の日本。アフリカは、ぼくらにとってどれだけ身近になったのか。グローバル化だ、第三の開国だ、と叫ばれるなか、エチオピアは、いまだ「越尾比屋」のままなのかもしれない。

 たぶん、それはアフリカだけではない。おとなりの中国だって、韓国だって、とかく異国のことは、なんだかよくわからない「他者」でありつづけている。

 自分にとっても、「エチオピア」はアフリカの遠い異文化を想起させる「記号」に過ぎなかった。それが15年くらい通いつづけるうちに、いつからか抽象的な他者ではなく、いろんな人の顔や匂いが浮かぶ生身の存在になっていた。

 今回の連載では、いままで私が出会ったエチオピアの人びとのことを書いてみようと思う。あの国はどうだとか、~人はこうだとか、つい自分たちとはまったく違う記号のように語ってしまう。そこにぼくらと同じ血の通った、いろんな感情をもって生きている人がいる。むしろ国とは、そうした生身の人間の集まりでしかない。
 そんなあたりまえのことを書こうと思う。

第2回 ナジフとタデセ(後編)

2013.05.14更新

 石の上に段ボールを引いただけの腰掛けに座り、木箱の上に足をのせる。

「いくら?」
「50サンテム(約10円)」

 靴磨きをしてもらっていると、よくアイツのことを思い出す。
 彼の「仕事」は完璧だった。
 これまであれほど丁寧に磨いてくれる子はいない。
 
 タデセという名の靴磨きだった。
 彼は私たちがアジスアベバで常宿にしたパークホテルの前を仕事場にしていた。
 歳はもう20歳を越えていた。

 エチオピア北部の出身で、10代前半で家を出たあと各地を転々とし、6年ほど前からパークホテルの前で働くようになった。靴磨きをするかたわら、客の車を洗ったり、使いっぱしりをして小銭を稼いでいた。

 私たちがエチオピアに来て、まだ2週間あまりのころ。
 タデセが生まれたばかりの3匹の小犬とたわむれていた。彼はその小犬たちのためにホテルの向かいに小屋をつくった。雨季が近づいていた。彼は木の枝とボロ切れでつくったその小屋に何度も手をくわえ、それはしだいにしっかりとした犬小屋になっていった。

 タデセは近くの店からミルクを買ってきては小犬に与えた。育ち盛りの小犬たちは、靴墨の缶のフタに入れられたミルクを先をあらそってなめた。

「母親はいないの?」と私はタデセに訊いた。
「いない。車にはねられて死んだんだ」

 彼は自分の手で子犬を育てるつもりなのだろうか。ビニール袋に入った500ccほどのミルクは3ブル(約60円)もした。彼にとって大きな負担にちがいなかった。
 私にはタデセが無謀なことをはじめているようにも思えた。

 あるときタデセが小犬に近寄ろうとする大きなメス犬に石を投げつけていた。

「失せろ!失せろ!」

 ほかの靴磨きの少年が「小犬の母親だよ」とささやく。
 母犬は死んでなどいなかった。

 タデセは、その母犬の姿が見えなくなるまで執拗に石を投げた。その姿には怒りにも似た感情が渦巻いているようでもあった。こいつらはオレのものなんだ、そんな叫びを聞いたような気がした。しかし、それも長くは続かなかった。

「ミルク買う金くれないかなあ。小犬たちが飢えているんだ」

 そんな言葉を吐くようになった。私も折りを見てはミルクを買って彼に渡した。
だが、毎日というわけにはいかない。

「母親がいるんだったら、母親に育てさせなきゃ。その方がいいにきまってる」
 私はやや強い口調で彼に言った。
「いや、あいつは乳なんかでない・・・」

 だが、それから3日もたたないうちに、母犬のお乳にむしゃぶりつく子犬たちの姿があった。母親のあとを追っては乳をねだる小犬たちに、タデセもまんざらでもないようだった。

 ある日、私が大学から帰ってくると、3匹いたはずの小犬が2匹だけになっていた。

「1匹はどうしたの?」と私は靴磨きの子に訊いた。
「もらわれていった」

 そのときタデセは、母親も入れるように大きくした犬小屋の周りにさらに石を積み上げていた。その背中はやはりさみしげだった。

 それから1週間もたたないうちに小犬は2匹から1匹になり、そしてついには1匹もいなくなってしまった。おそらく子犬を見たホテルの客が連れていってしまったのだろう。
 タデセがそれを拒否できるはずもなかった。

 立派な犬小屋と老いぼれた母犬だけがあとに残った。
 タデセもホテルの前の椅子にぼおっと座っていることが多くなった。

 タデセはどちらかというと物静かで、会うといつも人のよさそうな笑みでこたえてくれた。
 それが、ときどき変に横暴な態度をとることがあった。

「10ブルくれないかな。チャット(覚醒作用のある葉)を買いたいんだ」

 ある日、タデセが血走った目で詰め寄ってきた。あまりにしつこく言うので、私は雨季用に日本から持ってきていたブーツを部屋までとりにかえった。

「これ洗ってくれる? 2ブルは払うよ」

 お金だけを渡す気にはなれない。とくに洗う必要もなかったが、その靴を彼に預けた。
 そのときもタデセは時間をかけてぴかぴかに仕上げた。

 しかし、磨きおわった彼は「5ブル」といって譲らない。
「最初に2ブルって言っただろう」

 私は裏切られたような気分になり声を荒げた。周りの少年たちも息を呑んで見守っている。彼らも5ブルが高すぎることくらい分かっている。

「2ブルで十分だ」

 私も意地になっていた。ポケットにあった2ブルを渡し、そのまま部屋に戻った。彼らとは本当の意味で友人にはなれないのか。あのとき感じた寂しさが今もふと蘇ってくることがある。

 それから私はタデセとあまり話をしなくなった。そして、そのままアジスを離れた。
 後味の悪い別れ方をしてしまったと、ほろ苦い思いが胸のすみに残っていた。

 少年がブラシで木箱の縁を二回たたく。
 靴磨きが終わったという合図だ。
 私は50セント硬貨を渡し、すぐにその場をあとにした。

 翌朝午前5時、まだ明けきらない暗い道を街中へと向かった。
 アジス行きのバスは、早朝に一本しかない。

 遠くからムスリムの儀式に使われる太鼓の音がかすかに聞こえてくる。
 バス乗り場にはすでに30人ほどの人が集まっていた。
 荷物をわきにおいて、乗り込む順番に名前が読みあげられるのを待つ。

 と、暗闇の中から一人の男がぬっと現れた。
「ケイ!」

 差し出された手を握る。目を凝らしてよく見るとナジフだった。

「ナジフ、どうしてたんだよ」
「いや、ここでシャイを売ってるんだ」
「国に帰ったとか聞いたから・・・」

 彼はそれに答えるかわりに目を細めてにやりとすると、すぐにきびすを返して人込みの中に消えた。彼はあんなに大きな身体をしていただろうか。顔立ちも大人びたような気がする。

 左手にグラスの入ったバケツを持ち、右手にシャイの入ったやかんを下げて、ナジフはバス乗り場に集まった人びとの間を行ったり来たりしている。私も一杯のシャイをたのんだ。

「日本に帰っちゃうの?」
 慣れた手つきでシャイをつぎ分けながら、ナジフが訊いてきた。
「いや、また戻ってくるよ」
「そうか、パンはいらない?」

 他の人にもひとしきりパンをすすめたあと、ナジフはまた別の客の方に歩いていった。

 朝のこの時間帯は彼にとって一番の稼ぎどきなのだろう。人びとの間をせわしなく歩きまわる彼の姿を私はじっと目で追った。

「まだ、アガロにはいる?」と、グラスを取りに戻ってきた彼に私は訊いた。
 ナジフは顔を上げて「ああ」と目で答えた。
 それで充分だった。

 いつもそうだがバスでの移動はつらい。
 ひどく揺れるうえに狭い座席に長時間身動きがとれないままじっとしていなければならない。チャットを噛んだり、知らない者どうし大声で談笑しているエチオピア人がうらめしくなる。

 今回も夕方4時過ぎにアジスに着いた頃には疲れ切っていた。すぐにミニバスと呼ばれるトヨタのハイエースでパークホテルのあるピアッサに向かう。

 ホテルでは、すっかりなじみの顔に迎えられた。ボーイのバサネ、掃除や雑用を任されているゲタチョ、レセプションのダッマカ。みんなと抱き合って再会を喜ぶ。

 ところがいつもいた靴磨きの少年たちの姿が見えない。もちろんタデセも。
 知らない男の子がひとり、タデセがよく座っていた椅子に腰かけている。

 つぎの日、ホテルの前にいた子に聞いてみた。
「タデセはどこにいるの?」
「いない・・・。いなくなった」

 あいつのことはもう聞きたくないといった感じで吐き捨てるようにつぶやく。
 何かあったのだろうか。

 それから数日後のことだ。
 タデセがホテルの金400ブルを盗んで逃げたという話を聞いたのは。
 
 エチオピアの街ではよく道端で働いている子供たちを目にする。
 靴磨きの少年、ガム売りの少女、物乞いをする子。彼らのなかには、生まれ故郷を離れてきたり両親を亡くしたりして、ひとりで生活している者も多い。

 生きるためには稼がねばならない。カネを求め生き場を求め、彼らはときに「仕事」を変え、「棲み家」を変える。そんな子供たちが何人も私の前を通り過ぎていった。

 アジスで靴磨きをしていた少年に地方の町でばったり出会ったことがあった。彼は仕事を求めて流れてきていた。しかし、そのとき彼に仕事があるようには見えなかった。

 ピアッサでガムを売り歩いている少女がいた。3カ月ぶりに会うと、彼女はカネをつかみ、タバコやお菓子などを売る小さな露店を道端に出していた。少女の相棒だった女の子はいまだにガムを4・5本もって夜の酒場を歩き回っている。

 みんなしたたかに強く、明るく生きていた。そう思えるときもあった。
 だが、ふとしたことから彼らの深い闇に触れて胸をしめつけられるようなことも起きた。

 そんな彼らをまえに、私はじっと立ちつくしているよりほかなかった。
 乾いた風のように通り過ぎてゆく小さな背中を、ただ黙って見送るよりほかには。

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松村圭一郎(まつむら・けいいちろう)

1975年、熊本生まれ。立教大学社会学部・准教授。エチオピアや中東都市部を中心にフィールドワークを続ける。富の所有や分配、貧困や開発援助、海外出稼ぎの問題などを研究。主著に『所有と分配の人類学』(世界思想社、2008)、『基本の30冊 文化人類学』(人文書院、2011)。

『平日開店ミシマガジン』では「<構築>人類学入門」、KYOTO的では「エチオピア的」を連載した。

立教大学社会学部松村研究室

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