月刊 越尾比屋人

第3回 アンビセ(前編)

2013.06.17更新

 エチオピアでは、いろんな出会いがあった。
 前回書いたように、たくさんの人が「通り過ぎて」いった。
 通り過ぎたからこそ、美しい思い出として心に残ることもある。
 「旅情」は、その一過性のなかに宿る。

 人類学の調査ではそうもいかない。何度も同じ人たちのもとに通い、くり返し出会いつづける必要がある。
 旅が日常から非日常の世界に飛び出すことなら、人類学のフィールドワークは非日常だった世界のなかに別の日常を築きあげる営みだ。
 ある尊敬する人類学者が、そんなことを言っていた。

 日常の反復する時間のなかで「美しい」だけでは済まないことも起きる。
 人との出会いは、多くの出来事で彩られた複雑な意味合いを帯びていく。

 彼女の場合もそうだ。
 「アンビセ」という名を口にすると、いまも胸の奥が疼く。
 彼女は私が調査村で最初に出会った人だと言ってもいい。

 腰に手をあて、斜に構えるような姿勢で片足を前に伸ばし、ぎょろっとした大きな目でこちらを見据える。そんな姿がいまも目に浮かぶ。

 1998年8月。村で住み込み調査をはじめようとしていた。まず問題になるのが住居の確保だ。
 当初、国営のコーヒー農園を調査するつもりで、農園事務所にかけあい、労働者のキャンプに住み込めないか打診していた。しかし結局、政府施設ということで断られてしまう。

 代わりに農園に隣接する村の長屋を間借りすることを勧められた。農園職員の男性が大家をしている部屋に空きがあるという。
 村には電気も水道もなかった。食事をするにも食堂もない。
 私はひとりの女性をお手伝いとして雇うことにした。
 それがアンビセだった。

 彼女は私たちがアガロの町で世話になっていた家族の知人だった。
「彼女ならしっかりしているから、大丈夫よ」
 その言葉だけを頼りに、彼女に話をしにいった。農園事務所の裏につづく長屋のひと部屋だった。

 当時、彼女は17,8歳だっただろうか。少し話をしただけでも、聡明で勘がいいことがわかった。
 私の拙いアムハラ語でも、すぐにこちらの意図を理解してくれた。
 「しっかり者」の評にふさわしく、誰にでも物怖じせず、はっきり意見を言う子だった。外国人が村ではじめる暮らしへの好奇心もあるようだった。

 生活の見通しがたち、私は町で皿や鍋、灯油のコンロやランプなど生活用品を買いそろえて村に向かった。
 アンビセはアガロまで2〜3時間の道のりを歩いて、定期市で日々の食事に必要な食材を買いそろえてくれた。

 彼女は毎朝部屋に来ると、私のために朝食の準備をし、20リットル入るジェリカンで水を汲みにでかけた。
 それから土間の床を掃いて、昼食や夕食の準備をする。服の洗濯もお願いした。彼女が家のことをやってくれたので、毎日、私は調査らしいことに専念できた。

 とはいえ初めての海外調査で何から手をつければいいのか、見当もつかない。雨期で道がぬかるんでいたので、毎日、膝まである長靴を履いて農園や村のなかを歩き回っていた。

 部屋に戻り、その日に感じた疑問をアンビセに確認するのが日課になった。
 彼女は興味のないことには「知らない」と素っ気なかった。ときに興にのると大きな目を見開き、早口でまくしたてるように話してくれた。
 ただ彼女がこちらがわかると思って話しても、よく理解できないことも多かった。そんなとき彼女はちょっと失望したような、物足りないような表情をみせた。

 長屋の部屋は、隣に住む大家の部屋と裏でつながっていた。
 大家は、よくふらっと部屋に入ってきては、じろじろと私の持ち物を眺めまわした。
 彼は、いつもぼそぼそと低い声でもったいぶった話し方をした。
 これは何に使うのかとか、いくらなのかとか、品定めするように訊いてきた。
 しだいに大家とはそりが合わなくなった。

 大家が要求した部屋の賃料が通常の4〜5倍だと後で知って、さらに不信感が募った。いま思えば、初めて身近に接する「外人」にあらぬ期待をしたとしても仕方がない。
 でも、当時はまだ学生でお金もなかったし、なにより「外人」としてではなく、対等に扱ってほしいという思いが強かった。

 いつも物欲しそうな大家に、私は「貧乏学生だから」と言い逃れをしていた。
 やがて彼は私のことを「貧乏外人」と言ってからかうようになった。彼としては気の利いた冗談のつもりだったのかもしれない。
 でも、私はむきになって「貧乏エチオピア人」と言い返していた。

 うまく意思疎通ができないストレスや孤独感からか、食欲もなくなり、村の生活をはじめて1ヵ月でたぶん5キロ以上は体重が落ちたと思う。
 当時の写真をみると、我ながら哀れな姿をしている。

 2ヵ月がたとうとしていた。
 アンビセも私ひとりではやることも少なく、手持ちぶさたにじっと座っていることが増えた。思ったより面白いことも起こらず、退屈していたのかもしれない。
 ときどき、ふらっと姿を消すこともあった。

 首都のアジスでビザを更新したあとも、村での調査を続けるつもりだった。
 このままでは何もできないという焦りがあった。

 村を歩き回るなかで、農園よりも村の農民の暮らしに興味をもちはじめていた。
 住んでいた長屋は表通りにあり、農園の職員など地元の農民ではない人が大半だった。
 人通りも多く、いつも通りから好奇の視線を向けられている感じも馴染めなかった。

 農民の生活に近づきたいという思いと、はやく長屋を出たいという思いがあった。
 アンビセに話すと、彼女の伯父にあたる農民の男性に訊いてみると言ってくれた。
 先方の反応は「いつでも来なさい」という前向きなものだった。さっそく訪ねてみることにした。

 農民の家は表通りからコーヒー林のなかの小道を抜けた奥まったところにあった。
 男性は60代前半で、小柄ながら農民らしい引き締まった身体をしていた。
 柔和な笑顔に迎えられ、「今日からでも泊っていけばいい」と引きとめられた。外国人だからと特別扱いもせず、自分を飾って取り繕うようなこともなかった。

 お礼も兼ねて写真を撮ろうとすると、ぼろぼろに破れた野良着のまま胸を張る。
 あわててアンビセが「もっときれいな服に着替えたら」と言うと、「オレは百姓なんだから、これでいいんだ」と笑ってみせた。
 こんなエチオピア人は初めてだった。その自然体の笑顔に救われた気がした。

 それがアッバ・オリとの出会いだ。
 後の私の調査の最大のキーパーソンとなった人物だ。

 彼は小さな草葺きの家で妻のンママと末息子のディノと3人で暮らしていた。
 けっして豊かにはみえない農家に居候させてもらう心苦しさから、私はアンビセに家事の手伝いを続けてもらうことにした。

 私がいることで料理や水の確保などの負担を増やしたくなかった。
 アンビセがいれば、家事を分担してもらえてンママも助かると考えた。それが間違いだと気づくまでに、それほど時間はかからなかったのだが。

 とにかくアジスから戻るとすぐに、4畳半ほどのスペースで家族3人に私とアンビセが川の字になって寝る生活がはじまった。
 彼らは私のために居間の一番奥に藁のマットを敷いてくれた。アンビセは、土間に一番近いところで寝ていた。
 みんなほとんど寝返りが打てないような状態だったが、そのこと自体を誰も不自然なこととも、不平に思っている様子もなかった。問題は別のところにあった。

 私は、同じようにアンビセにお金を渡して町の定期市で食材を購入してもらった。
 アッバ・オリ家族の分も含めて、それまで以上に毎週たくさんの食糧を買ってくるよう頼んでいた。

 アンビセは、私がどんな料理を好むかも必要な物もわかっていた。
 私としては、何でもお願いできる彼女がいると安心でもあった。
 彼女も、私のことは自分が一番理解しているという思いがあったのだろう。ときどき伯母のンママに強い調子で意見することもあった。

 そして私はアンビセに毎月給料を払い続けていた。
 アッバ・オリの家では「宿泊代」を渡すわけでもなく、まったくの居候だった。
 本来は伯父と姪という親戚関係に、外国人に雇われたお手伝いという奇妙な関係が入り込んで複雑になっていた。

 アンビセの自信に満ちた強気な態度も、ときに衝突を招いた。
 近くに住むアッバ・オリの三男のヤスィンとはとくに折り合いが悪かった。あるとき「話がある」と彼に呼び出された。

「アンビセが市場で買ってきた食材を自分の家に持ち帰っているのを知ってるか?」
 彼は重大な事実を打ち明けるかのように、声を潜めて言った。

「この前買った砂糖の一袋も半分は家に持って帰ったんだ。それにやたらと高い食材ばかり買って、あんたのお金を浪費している。彼女は買物の仕方を知らない・・・」

 私にはアンビセが食材を持ち去ったことよりも、アッバ・オリの家族が彼女をよく思っていないことのほうがショックだった。

 そして事件は起きた。
 ヤスィンの小言にアンビセがいつもの調子で言い返すと、ヤスィンが彼女の頬を平手打ちしたのだ。
 アンビセは猛然と声を荒げてヤスィンを罵り、家を飛び出して行った。

 すぐにアンビセの兄弟や親戚の男たちが棍棒や山刀を持って殴り込みにきた。
「ヤスィンはどこだ!」家の外で怒鳴り声が聞こえる。

 私はうろたえた。なぜこんなことになるんだと混乱もしていた。
 とっさに男たちの前に飛び出すと、大声を上げて泣きじゃくっていた。

(後編につづく)

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松村圭一郎(まつむら・けいいちろう)

1975年、熊本生まれ。立教大学社会学部・准教授。エチオピアや中東都市部を中心にフィールドワークを続ける。富の所有や分配、貧困や開発援助、海外出稼ぎの問題などを研究。主著に『所有と分配の人類学』(世界思想社、2008)、『基本の30冊 文化人類学』(人文書院、2011)。

『平日開店ミシマガジン』では「<構築>人類学入門」、KYOTO的では「エチオピア的」を連載した。

立教大学社会学部松村研究室

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