月刊 越尾比屋人

 明治時代。日本が国を開き、海のかなたに広がる世界が意識されはじめると、誰も行ったことも、聞いたこともなかった異国の名に漢字があてられた。「越尾比屋」もそのひとつだ。そのどこかぎこちない当て字にも、未知の大陸に思いを馳せた時代が透けてみえる。
 さて、21世紀の日本。アフリカは、ぼくらにとってどれだけ身近になったのか。グローバル化だ、第三の開国だ、と叫ばれるなか、エチオピアは、いまだ「越尾比屋」のままなのかもしれない。
 たぶん、それはアフリカだけではない。とかく異国のことは、なんだかよくわからない「他者」でありつづけている。自分にとっても、「エチオピア」はアフリカの遠い異文化を想起させる「記号」に過ぎなかった。それが15年くらい通いつづけるうちに、いつからか抽象的な他者ではなく、いろんな人の顔や匂いが浮かぶ生身の存在になっていた。

 今回の連載では、いままで私が出会ったエチオピアの人びとのことを書いてみようと思う。あの国はどうだとか、~人はこうだとか、つい自分たちとはまったく違う記号のように語ってしまう。そこにぼくらと同じ血の通った、いろんな感情をもって生きている人がいる。むしろ国とは、そうした生身の人間の集まりでしかない。
 そんなあたりまえのことを書こうと思う。

第4回 アンビセ(後編)

2013.07.11更新

 涙がとまらなかった。
「ごめんなさい。悪いのは自分なんだから・・・」
 そんなことを夢中で叫んでいた気がする。

 山刀などを手にした男たちは、予想外の展開に虚を突かれたような顔をして立ちすくんでいた。やがてアッバ・オリのとりなしで静かに帰っていった。

 私は全身の力が抜けて、床の上に倒れ込んだ。
 小さな子どものように、しゃくりあげていた。

「わが子よ、そんなに悲しまなくてもいい」
 アッバ・オリがやさしく声をかけながら、私の震える腕や足をさすってくれた。
 その目にも涙が浮かんでいた。

 なんでこんなことに・・・。その問いだけが頭のなかでくるくると空しく回っていた。
 ヤスィンやアンビセが悪いわけではない。
 外国人である私の存在が、みんなの関係をもつれさせてしまった。
 村の生活にとけこみはじめている。そんな過信が根底から崩れた。

 アンビセは、私が口にしやすい料理をつくるために、少し値がはっても市場でいろんな食材を買いそろえようとしてくれていた。私がそれほど買物の費用に執着しないこともよくわかっていた。
 でも、それはヤスィンたちの感覚からしたら、考えられない浪費でしかなかった。いつも彼らは数十セントをめぐって根気づよく交渉して買物をしていた。ヤスィンたちも、私のお金のことを本気で心配してくれていたのだ。

 誰もが私によかれと思ってくれたことが諍いにつながった。
 調査以前に、彼らのなかで暮らそうとする「私」の異質さを突きつけられた。

 数日後、私はアンビセの実家を訪ねた。
 彼女は、頬を紅潮させながらヤスィンやンママのことを罵った。
「彼らはあなたに嘘の話をして、私を追い出したかったのよ」

 このまま彼女にお手伝いとして働いてもらうわけにはいかなかった。
 彼女も「あの家族とはもう関わりたくない」ときっぱりと言った。

「あなたはまだあそこにいるつもりなの?」
 そう問われて言葉に詰まった。
 私にはアッバ・オリのもとを離れるという選択肢はなかった。他に行くあてもなかった。なにより村ではじめて信頼できる家族と築きはじめた関係を失いたくなかった。

 結局、私はアンビセを犠牲にして、アッバ・オリたちの家にとどまった。
 彼女にしてみれば、せっかく得られた働き口を失っただけでなく、それまでの単調で希望のない日常から抜け出せるかもしれないという淡い期待も奪われてしまった。
 その後、アンビセは、私たちがアガロで世話になっていた家族のもとを訪れ、アッバ・オリの家から不当に追い出されたと泣きながら訴えたという。

 私は何もできなかった。
 彼女もアッバ・オリたちのいる集落には近づかなかったし、私が彼女の家を訪ねることもなくなった。ときどき路上ですれ違っても、軽く挨拶の言葉を交わすくらいだった。

 数ヶ月後、私はエチオピアを離れ、京都の下宿で大学生活を再開していた。
 しばらくして1通の手紙がエチオピアから届いた。アンビセからだった。
 拙いアムハラ文字で書かれた文面を苦心して読み解くと、こう書かれてあった。

「元気にしていますか?私は元気にしています。父親が農園の作業場でケガをして仕事を休んでいます。給料が入らず、家族みんな苦しい生活をしています。あなたの健康を祈っています」

 短く生活の窮状を訴える手紙だった。
 私は手元にあった少額の米ドル紙幣を手紙にはさんで送った。

 2年後の2000年に再び村を訪ねると、私がアンビセにお金を送ったことを誰もが知っていた。この手の話はすぐに広まってしまう。彼女はとても喜んでいたという。
 気まずさもあって、私はますますアンビセを避けるようになった。
 アッバ・オリ家族にも悪い気がしていた。

 しばらくして彼女は村の男性と結婚した。
 ヤスィンに言わせれば「土地も仕事も何もない貧しい男だ」という。
 私が最初に間借りした長屋の近くで生活をはじめたようだった。
 それでも私はアンビセの家を訪ねなかった。

 ほどなくアンビセが村から50キロほど離れたジンマという街の飲み屋で働きはじめたという噂を耳にした。彼女の姿を村で見かけることもなくなった。
 数年の歳月が流れた。

 2007年10月。断食月のラマダン明けで村は賑わっていた。
 コーヒー農園で医者をしている男性の家を訪ねたときのことだ。ひとしきり世間話をしたあとで、男性が急に表情を曇らせて懇願するように言った。

「しばらくアンビセに会っていないだろう。一度でいいから、彼女の家を訪ねてやってくれないか。貧しくてどうしようもない状態なんだ」

 その場にはヤスィンも一緒にいた。
 返事をためらっていると、男性は説き聞かせるように続けた。
「最初にこの村のことをお前に教えたのはアンビセじゃないのか?」

 翌日、ひとりで村はずれまで行く用事を済ませたあと、意を決してアンビセの家を訪ねた。たまたま道ばたで挨拶を交わした女性の隣の家だった。何事もなかったかのように、つとめて明るく挨拶の言葉をかけて家に入った。

 アンビセは少しやつれていた。
 目の周りがくぼんで、ぎょろっとした目がさらに大きく見えた。アンビセの夫と会うのも、そのときがはじめてだった。たしかにどこか頼りなさそうな男性だった。

 急な訪問にアンビセは少し慌てていた。少し緊張しているようにも見えた。
「元気にしている?」私は雑然とした部屋を見回しながら言った。
「うん。最近、子どもが生まれたのよ」
 彼女は小さな赤子を抱きかかえていた。

「まだ時間あるでしょ。コーヒーを煎れるから少し待って」
 アンビセが腰をあげようとするのを制止して、私は言った。
「家族の写真を撮ろう。みんな外に出て」

 アンビセたちを家の前の庭に立たせた。カメラの前で肩を寄せ合って並ぶアンビセ夫婦は、とてもお似合いにみえた。さきほど道で会った隣の女性や近所の人も集まってきた。写真撮影会がはじまった。
「また次のときに写真をもってくるね」そう告げて、家を出た。

 数日後、アンビセの隣に住む女性とアッバ・オリの家の近くで再び会った。
 私が挨拶の言葉をかけようとすると、唐突に女性が言った。
「アンビセが困っているの・・・。少し援助してもらえないか」
 硬い表情のまま私を見つめる。息をこらしてこちらの反応を伺っていた。
「あぁ・・・うん、わかった」
 私は胸のポケットにあった50ブル紙幣を差し出した。女性は受けとったお金をさっと布にくるむと、何も言わず踵を返して去っていった。

 翌年、現像した写真をもってアンビセの家に向かった。すぐに近所の人も集まってくる。隣の女性が自分たちの写真を奪うように取って出ていく。

アンビセは、手にした家族写真を満足そうに眺めていた。
「とってもきれいに撮れているわね。どうもありがとう」
「こんなことしかできないけれど...」

 このときも少し話をしただけで、すぐに家を出た。家を出るときに一緒についてきた彼女の弟に50ブルを持たせた。少年は驚いた顔をして、慌てていま来た道を走っていった。
 それがアンビセと会った最後になった。

 2009年2月。村を訪れると、アンビセが亡くなったと聞く。
 アンビセの実家を訪ねると、彼女の母親がひとりで家にいた。具合が悪いのか、それまで床に伏せていたようだった。

「アンビセのことを聞いて...こんな急に...」どう言葉をかけるべきかわからなかった。
「原因はよくわからないの。ほんとに急なことで...」
 彼女はうつろな目をして首を振った。

 子どもは夫の母親に引き取られたという。彼女がHIVに感染していたと噂する者もいた。呪術が関係しているという者もいた。真相はわからなかった。

 いまでもあのとき自分はどうすればよかったのかと自問する。
 人類学の調査者と現地の人との関わりは、相手を傷つけ、傷つけられるような愛憎の渦巻く人間関係のなかに身をおくことでもある。そこでは客観的な科学的/学問的態度など何の役にも立たない。

 それでも「人間」についての学問がありうるとしたら、その渦のなかでもがくしかないようにも思う。

お便りはこちら

みんなのミシマガジンはサポーターの皆さんと運営しております。

松村圭一郎(まつむら・けいいちろう)

1975年、熊本生まれ。立教大学社会学部・准教授。エチオピアや中東都市部を中心にフィールドワークを続ける。富の所有や分配、貧困や開発援助、海外出稼ぎの問題などを研究。主著に『所有と分配の人類学』(世界思想社、2008)、『基本の30冊 文化人類学』(人文書院、2011)。

『平日開店ミシマガジン』では「<構築>人類学入門」、KYOTO的では「エチオピア的」を連載した。

立教大学社会学部松村研究室

バックナンバー