月刊 越尾比屋人

明治時代。日本が国を開き、海のかなたに広がる世界が意識されはじめると、誰も行ったことも、聞いたこともなかった異国の名に漢字があてられた。「越尾比屋」もそのひとつだ。そのどこかぎこちない当て字にも、未知の大陸に思いを馳せた時代が透けてみえる。
 さて、21世紀の日本。アフリカは、ぼくらにとってどれだけ身近になったのか。グローバル化だ、第三の開国だ、と叫ばれるなか、エチオピアは、いまだ「越尾比屋」のままなのかもしれない。
 たぶん、それはアフリカだけではない。とかく異国のことは、なんだかよくわからない「他者」でありつづけている。自分にとっても、「エチオピア」はアフリカの遠い異文化を想起させる「記号」に過ぎなかった。それが15年くらい通いつづけるうちに、いつからか抽象的な他者ではなく、いろんな人の顔や匂いが浮かぶ生身の存在になっていた。

 今回の連載では、いままで私が出会ったエチオピアの人びとのことを書いてみようと思う。あの国はどうだとか、~人はこうだとか、つい自分たちとはまったく違う記号のように語ってしまう。そこにぼくらと同じ血の通った、いろんな感情をもって生きている人がいる。むしろ国とは、そうした生身の人間の集まりでしかない。
 そんなあたりまえのことを書こうと思う。

第5回 ディノとヤスィン(前編)

2013.08.15更新

 エチオピア人のことを書くといっても、私にはエチオピアで出会った人びとを客観的に描くことはできない。もちろん一般論としてエチオピア人ってこんな感じです、という書き方もあるだろう。でも、それはやっぱり「記号」でしかない。

 「典型的なエチオピア人」なんて実在しない。「典型的な日本人」が誰のことだかわからないように。ぼくらが人を記号のように語ってしまうのは、他者を「典型」に押し込めて「わかったこと」にしておきたいからだ。

 人間は、そう簡単に一般化できない。個人的なエピソードばかりで申し訳ないけれど、私が触れてきた生身の姿を描き続けよう。

 ディノとヤスィン。
 この兄弟は私が村でもっとも長い時間をともに過ごしてきた二人だ。

 ディノは私と同い年で、アッバ・オリの四男。
 アッバ・オリ家に居候しはじめた頃から同じ屋根の下で寝起きしてきた仲だ。

 アンビセが去ったあと、アッバ・オリの家の横に彼が建てた小さな草葺きの家で二人で寝るようになった。ときどき身体の上にのしかかってくる彼の足を押し返しながら、小さなベッドで並んで寝たものだ。

 彼は10代後半で村を離れ、首都のアジスのホテルで給仕係として働いていた。
 ホテルでの仕事のことは、私にもよく話してくれた。彼は雇い主にも信頼され、すぐにカフェの責任者を任されるまでになった。それでも朝から晩まで働き詰めの生活は長く続かず、1年ほどで村に戻ってきた。

 当時のことを話すとき、彼は村では経験できない刺激的な日々を懐かしみながらも、都会の厳しい生活を苦々しく思い返しているようだった。

 「また村を出てアジスに行きたいと思う?」
 私がそう訊くと、彼ははっきりと言った。
 「いや、村のほうが断然いい。あんな生活はもうごめんだよ」

 時間に追われながら人にこき使われる日々は、ゆったりと時間が流れる農村育ちの彼には耐えがたかったに違いない。

 アジスに出た頃の彼の写真を見せてもらうと、肌つやもよくハンサムな色男だった。それが私が出会った頃には、だいぶ痩せてやつれていた。

 気性がやや荒いので村では乱暴者だと怖れられていたが、彼を信頼して慕ってくる友人も少なくなかった。私のことも、いつも優しく気づかってくれた。みんなで食事しているときなど、おもしろいことを言って場を和ませるのも彼だった。

 最初の調査を終えて村を離れる前の晩のこと。
 私はお世話になったお礼に何をしたらいいかずっと考えていた。寝る前にディノと二人になったとき、用意していた100ブル(当時のレートで1200円ほど)を渡そうとした。

 「これ、お世話になったから・・・」
 私がポケットからお金を出そうとすると、ちょうど彼も10ブル紙幣を握りしめていた。
 「アジスはお金がかかるから、これ持たせようと思ったんだけど・・・」

 なんとも気まずい瞬間だった。
 私は自分の間の悪さを恥じながらも、ディノの素朴な優しさに心打たれていた。
 ディノもアッバ・オリたちも、居候の外国人のことを本気で心配してくれていたのだ。

 ディノより三歳年上で三男のヤスィン。
 アンビセとの仲違いの原因ともなった彼だが、思い返してみれば彼と最初に会ったのはアンビセの家だった。村に住み始める直前、お手伝いを頼みにアンビセの家を訪ねたときのことだ。

 入り口のそばの椅子にちょこんと座っていたヤスィンは、ほがらかな表情で何やらブツブツつぶやきながら、紙片に小さな文字を書き続けていた。
 当時、彼は精神的に少し病んでいたのだ。

 ヤスィンはアッバ・オリの5人の子どものなかで唯一、8年生まで終えた秀才だった。
 アムハラ語の読み書きはもちろん、英語のアルファベットも読むことができた。父親に代わって村に出す書類などを書くのも彼の役目だった。

 ただ農民の子が学校を卒業したからといって、いい就職ができるわけではない。
 彼も村を離れ、ピックアップトラックの運送を手伝う仕事をしながら、しばらくアジスや南部の都市をめぐる生活をしていた。

 少しばかりお金を手にして村に戻ったヤスィンは、すぐに結婚してアッバ・オリの隣の敷地に自分で家を建てて新婚生活を始めた。
 ディノの不格好な掘っ立て小屋とは違い、しっかりとした造りの立派な家だった。
 家の周囲には高値で売れる換金作物のチャット(カート)をびっしりと栽培していた。

 でも、その生真面目すぎる性格のせいか、1年ほどで奥さんに逃げられてしまう。
 そのころから少し精神的におかしくなったようだ。

 そんなヤスィンも私がアッバ・オリの家で生活を始めるころには、だいぶ正気に戻っていた。私の村での調査にも興味を持ってくれた。

 村で見聞きした細かな話をディノに訊いても、すぐに集中力が切れて要領を得なかった。 ヤスィンはいつも根気強く私の質問に耳を傾けてくれた。

 私がたどたどしいアムハラ語でアッバ・オリに村の歴史などを訊ねると、その意図をわかりやすく言い換えて説明してくれるのもヤスィンだった。

 2000年に二度目の滞在で本格的な調査を始めたときには、ヤスィンの助力は欠かせなくなっていた。

 村の土地利用図を作ろうとGPSで測量したときも、まずヤスィンがおおまかな地図の下書きを作ってくれた。そもそも村人で「地図」をきちんと描けること自体がめずらしかった。
世帯調査のときも、一軒一軒の家族構成や出身地などを訊ねる単純な作業にずっと付き合ってくれた。

 何かと理由をつけて畑仕事を怠けていたディノとは違い、ヤスィンは毎日のように畑に通っていた。朝、ディノの家で寝起きしていた私のところに来ると、「今日は何か仕事はあるか?」と確認してから畑に出かけて行った。

 私も他にやることがない日は、ヤスィンと畑に行って農業や村の話を聞いた。コーヒー林のなかの小道を一緒に歩きながら、彼からいろんなことを学んだ。

 ディノはよく友人を家に招いて、一緒にチャットの葉を噛みながら過ごしていた。
 あまり社交的ではないヤスィンは、基本的にひとりでいることが多かった。たとえ農作業がなくても、畑のそばの出作り小屋で静かに時間を過ごすほうが心地いいようだった。
 私もそんなヤスィンと過ごすことが増えていった。

 「あいつは農業のやり方をわかっていない・・・」
 ときどきヤスィンは私にそう言って、ディノのことを愚痴った。
 ヤスィンとアッバ・オリが小作として耕していた畑のちょうど向かい側の斜面にディノが友人とともに耕し始めた畑があった。そこで彼の姿を見ることはまれだった。

 それでもヤスィンが面と向かってディノを責めるようなことはなかった。ヤスィンが精神的に不安定だったとき、彼のことを陰で支えていたのはディノだった。ヤスィンもそのことをよくわかっていた。

 ディノもヤスィンの頭のよさを尊敬しながらも、その融通の利かない生真面目さや人前に出たがらない引っ込み思案のところを不満に感じていた。いざとなれば自分のほうが村のなかでうまく立ち回っていけるという自信もあるようだった。

 二度目の調査を終えるとき、私はアッバ・オリ家族にどんなお礼をしたらよいか、前もってヤスィンに相談した。

 「家族みんなの役に立つことがあるとしたら、何だと思う?」
 ヤスィンはしばらく考えてから言った。
 「以前から父親に犁を引かせる牛を買いたいと思っていたんだ。もし自分たち小作の側に牛があれば、地主に払う小作料を減らすことができる。他の人に貸せば、賃料として穀物も受け取れる」

 1人1人にお金を渡しても、すぐに使われてなくなってしまう。家に1頭でも牛がいれば、家族みんなが食べる作物を増やすことができる。とてもいい考えだと思った。

 当時、犁を引かせる去勢牛が1頭で800ブルほどした。日頃の生活から調査までお世話になったのだから、それくらいのお礼はすべきだと考えていた。

 でも「みんなの役に立つ」というのは私の思い上がりに過ぎなかった。
 この牛がまた騒動の発端をつくってしまう。

 翌年、村を訪れ、ひさしぶりの再会をみなと抱き合って喜ぶ。
 この瞬間は、いつも緊張する。誰かが病気したりしていないか、みんなの元気な顔を見るまでとても不安なのだ。

 このとき、なぜかディノの表情が硬かった。ヤスィンは畑に行って姿がなかった。とりあえず荷物をディノの家に運び込み、ンママの出してくれたコーヒーを味わう。
 しばらくすると、ディノが声をかけてきた。

 「ちょっと話があるから一緒に来てくれないか」
 硬い表情のままのディノに促されて外に出る。

 何があったのか。いつもとあきらかに様子が違う。
 二人とも黙ったままヤスィンがいる畑への道を急いだ。

(つづく)

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松村圭一郎(まつむら・けいいちろう)

1975年、熊本生まれ。立教大学社会学部・准教授。エチオピアや中東都市部を中心にフィールドワークを続ける。富の所有や分配、貧困や開発援助、海外出稼ぎの問題などを研究。主著に『所有と分配の人類学』(世界思想社、2008)、『基本の30冊 文化人類学』(人文書院、2011)。

『平日開店ミシマガジン』では「<構築>人類学入門」、KYOTO的では「エチオピア的」を連載した。

立教大学社会学部松村研究室

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