月刊 越尾比屋人

 明治時代。日本が国を開き、海のかなたに広がる世界が意識されはじめると、誰も行ったことも、聞いたこともなかった異国の名に漢字があてられた。「越尾比屋」もそのひとつだ。そのどこかぎこちない当て字にも、未知の大陸に思いを馳せた時代が透けてみえる。
 さて、21世紀の日本。アフリカは、ぼくらにとってどれだけ身近になったのか。グローバル化だ、第三の開国だ、と叫ばれるなか、エチオピアは、いまだ「越尾比屋」のままなのかもしれない。
 たぶん、それはアフリカだけではない。とかく異国のことは、なんだかよくわからない「他者」でありつづけている。自分にとっても、「エチオピア」はアフリカの遠い異文化を想起させる「記号」に過ぎなかった。それが15年くらい通いつづけるうちに、いつからか抽象的な他者ではなく、いろんな人の顔や匂いが浮かぶ生身の存在になっていた。

 今回の連載では、いままで私が出会ったエチオピアの人びとのことを書いてみようと思う。あの国はどうだとか、~人はこうだとか、つい自分たちとはまったく違う記号のように語ってしまう。そこにぼくらと同じ血の通った、いろんな感情をもって生きている人がいる。むしろ国とは、そうした生身の人間の集まりでしかない。
 そんなあたりまえのことを書こうと思う。

第7回 ディノとヤスィン(後編)

2013.10.14更新

 2006年12月。3年ぶりにエチオピアの村へと向かう。
 幹線道路から村につづく舗装されていない道を入る。いくつかの丘を越え、坂を下り、しだいに村が近づく。車の激しい振動に揺られながら、胸の動悸が早まるのを感じる。
 助手席の手すりをつかむ手に汗がにじむ。

 3カ月ほど前、一通の手紙を受けとっていた。ヤスィンからだった。3行ほどの短い手紙で、彼が書いたとは思えないほど字が乱れていた。まるで震える手を押さえながら書いたかのようだった。簡単な挨拶文と「病院」「切った」という文字は読みとれた。

 何があったのか。真相を確かめたい気持ちと、知るのが怖い気持ちが交錯した。
 「しばらくしてかならず村に行くから」とだけ返事を書いて送った。

 ひとつの大きな集落を過ぎると、鬱蒼としたコーヒーの林がつづく。ぽつぽつと見慣れた人家が見えてくる。道の脇で懐かしい顔が通りすぎる。

 製粉所の前で車を降りると、すぐに人だかりができる。そのなかにディノもいた。ひさしぶりの再会にうまく言葉が出ず、ただ強く互いの肩を抱き合う。ディノも何も言わなかった。また少し痩せたようだった。

 いつもは陽気な声に迎えられるのだが、周りで見守る若者たちの顔にも笑顔はなかった。ひとりの少年が「ほら」と私に目くばせをする。
 あちらからヤスィンがゆっくり歩いてくる。シャツの右袖がだらんと垂れている。

 思わず駈け寄って肩を抱く。涙があふれてくる。
 「なんで・・・、なんで・・・」それしか言えなかった。
 彼は右腕を失っていた。

 その顔からは最後に会ったときの自信に満ちた力強さが消え失せていた。がっしりとした筋肉に覆われていた身体もひとまわり小さくなった。

 車から荷物を下ろし、コーヒー林のなかの小道を歩いてアッバ・オリの家に向かう。ヤスィンは「お前が来るというから、ひさしぶりに表通りに出たよ」と力なく笑った。
 
 私がヤスィンと手をとって歩いてくるのを見て、出迎えたアッバ・オリの目にも涙が浮かぶ。敷地に入ると、正装の白いショールをかぶった女性たちが迎えてくれた。

 アッバ・オリの屋敷のなかもがらっと様子が変っていた。ヤスィンがあたらしい家を建てていた場所には何もなかった。
 居間に腰を下して、ヤスィンと向き合う。その生気のない顔を見ると、また涙がこみ上げてくる。荷物を運び終えたディノも横に座る。

 「お前のいない間、どれほどたいへんだったか・・・」ディノが伏し目がちにつぶやく。
 「いくつの地獄をみたことか・・・」アッバ・オリもかすれた声でそう言うと、何度も首を横に振った。

 ちょうど1年ほど前から、ヤスィンはディノたち兄弟とケンカが絶えなくなった。
 「お前たちは何もわかっちゃいない! 怠け者めが!」
 ヤスィンは兄弟を大声で叱責し、棍棒で殴りかかることもあった。彼の強すぎる自信が周囲の者への敵意となって空回りしたのだろうか。

 その行動はどんどんエスカレートし、彼を諫めようとする近所の老人にまで暴力をふるうこともあった。みんなしだいにヤスィンの様子がおかしいと思いはじめる。誰もが以前ヤスィンが精神を病んだことを思い出していた。

 アッバ・オリはヤスィンをイスラームの導師や村の呪術師のもとに連れていって相談した。だが奇行はおさまらなかった。かえって呪術師を侮辱する悪口を言いふらすなど、家族の手にも負えなくなった。妻のアバイネシも耐えきれず、幼い2人の子どもを連れて家を出た。

 40キロほど離れたジンマという町の近くに「悪魔祓い」で有名な教会があった。アッバ・オリは抵抗する彼を車に乗せ、引きずるように教会まで連れていった。司祭たちは数日間にわたって、ヤスィンの頭から聖水をかけ、身体を十字架で何度も叩いたという。

「あんなことされて、ますますおかしくなったよ・・・」ヤスィンはそう振り返る。
 帰り道で彼は逃げ出し、ひとり森のなかをさまよい歩いた。彼にもそのときの記憶はほとんどない。

 どこをどう歩いたのか。数日して村に帰ってきた彼の手足は傷だらけになり、服もぼろぼろに破けていた。兄弟たちは、みなで相談して彼を拘束することにした。身体を押さえつけてワイヤーで手足をきつく縛り、部屋に閉じ込めた。

 そのときの捕縛による鬱血が原因で右腕を切断することになった。ジンマの病院に入院したヤスィンは、手術後すぐに正気を取り戻す。 

 ディノとアッバ・オリの口から一部始終を聞き終り、私は深いため息をついた。横で聞いていたヤスィンは、右腕を失ったことをまだきちんと受けとめられない様子だった。

 「あんなに強く縛ったりするから・・・」そう悔しそうに言って唇を噛んだ。
 ディノは「でも、あのときは・・・」と言いかけて、口をつぐむ。
 ディノも、ヤスィンも、互いへの言葉にできない微妙な思いがあるようだった。

 ヤスィンは叔父の助けで、近くにトタン屋根の家をつくってもらい、戻ってきたアバイネシたちとの生活をはじめていた。農作業ができなくなり、畑の耕作はすべて小作に任せていた。アバイネシは明るく気丈に振る舞いながら、ひとりでは何もできなくなったヤスィンの面倒をみていた。
 
 「地獄」のような日々をへて、しだいに生活は落ち着きを取り戻しつつあった。
 3年のあいだに村の生活も大きく変化した。アッバ・オリたちの家では表通りから自分たちで電線を通し、電気が使えるようになった。夜の闇のなかで1つの白熱灯が家族の集いの時間をつくっていた。
 
 場所によっては携帯電話もつながるようになった。
 私の携帯をディノに渡すと、彼は電波を求めて屋根によじ登り、山向こうのチョチェという町にいる親戚に電話をかけた。

 「みんな元気にしてるか? こっちはみんな元気だ」
 近所の人も集まり、次つぎと携帯を手渡しながら、みな同じ挨拶だけを繰り返していた。

 私はひさしぶりに村の様子をみようと、ヤスィンを連れだって歩きまわった。腕を失った姿を見られるのが恥ずかしくて外に出なくなったと聞いたので、彼を無理にでも外に連れ出す意図もあった。

 道すがら村人と会うたびに再会の挨拶を交わす。みんなヤスィンにも声をかけ、近況を訊ねた。最初は人の視線を避けていた彼も、みんなと言葉を交わすうちに、どこかで少し吹っ切れたようだった。

 あれからもう7年がたとうとしている。
 ヤスィンはその後、何でも自分でできるようになった。左手できれいな字もかけた。犁を引くことはできないが、手鍬一本でコーヒー林の下草を刈って、たくさんの苗を植えはじめた。水差しを口にくわえながら器用に手を洗ったり、髭を剃ったりしている。

 ディノとヤスィンとのあいだには、まだわだかまりが残っているようだった。ヤスィンはアッバ・オリやディノの家から離れた場所に自分の家を建てなおした。

 2008年、大きな変化の波が村を襲った。村の女性たちが家政婦として中東に出稼ぎに出はじめたのだ。女性たちの仕送りで立派なつくりの家が増え、テレビやソファー・セットなどが買いそろえられた。それがまた女性たちを外の世界へと駆り立てた。

 ディノの妻のラザは2年ほど前にオマーンに行き、最近帰ってきたそうだ。アバイネシは去年、サウジアラビアに旅立った。残されたヤスィンは、いまもひとりで息子ふたりの面倒をみている。
 
 アフリカの貧困というと、「飢餓」を思い浮かべるかもしれない。でも、よほどのことがなければ彼らが「飢える」ことはない。アフリカでは、食べ物を分かち合うのはあたりまえだからだ。アパートの一室で人知れず餓死者が出るなんてことは起こりえない。

 彼らが「貧困」という問題を抱えているとしたら、それは日本で暮らすぼくらの「豊かさ」や「貧困」と直結している。

 エチオピアの人びとが苦しむ急速なインフレの進行は、膨大な貿易赤字が原因だ。街にあふれる日本車はその不均衡な貿易の一端だし、それは日本の「豊かさ」の裏返しでもある。そして日本で進む非正規雇用の拡大は、ラザやアバイネシが安価な労働力として参入した世界の労働市場の平準化とつながっている。

 ディノやヤスィンたちが生きている日常は、エチオピアだけの物語ではない。
 今年も、もうすぐ彼らの村を訪ねる。

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松村圭一郎(まつむら・けいいちろう)

1975年、熊本生まれ。立教大学社会学部・准教授。エチオピアや中東都市部を中心にフィールドワークを続ける。富の所有や分配、貧困や開発援助、海外出稼ぎの問題などを研究。主著に『所有と分配の人類学』(世界思想社、2008)、『基本の30冊 文化人類学』(人文書院、2011)。

『平日開店ミシマガジン』では「<構築>人類学入門」、KYOTO的では「エチオピア的」を連載した。

立教大学社会学部松村研究室

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