月刊 越尾比屋人

第9回 アッバ・オリ(前編)

2013.12.10更新


 村で迎える朝は、アッバ・オリがコーランを朗唱する声で目覚める。
鳥のさえずりとともに、低くしわがれた声が枕元に響いてくる。
傾いた木枠の窓の隙間から、うっすらと薄日が差し込む。

 アッバ・オリは、1935年、イタリアがエチオピアに侵攻した年に村で生まれた。
78歳。もう村でも長老のひとりだ。

 つい最近まで、牛に引かせた犁で畑を耕したり、出作り小屋に泊まって夜通し畑を荒らすサルやイノシシを追い払ったりしていた。

 「農作業はもう息子たちに任せたらいいのに」と私が言うと、「なぁに、まだまだ。あいつらは頼りにならない」と胸を張った。

 小柄で痩せているものの、張りのある筋肉と大きくてぶ厚い手は、長年、土とともに生きてきた農民の証だ。

 私がそっと部屋の扉をあけると、「起きたかい?」と不釣り合いに大きな老眼鏡をとって優しくほほ笑む。この慈愛に満ちた笑顔に何度救われたことか。

 最初に会ったときからそうだった。
 外人とみると何かを期待して近づく者が多いなかで、アッバ・オリは打算や計略からはほど遠い純朴な人だった。他人に対して見栄をはることも、着飾ることもなく、いつも自然体で慎ましい生活を送っていた。

 これまでアッバ・オリから何かほしいと求められた記憶はない。
 今年村を訪れると、1年前に私があげたハイネックのチャックをきちんと上まで閉めて、真っ黒になってほつれた袖元を折り返して着ていた。外出のときの一張羅のスーツも、7年くらい前に渡した私のお古だ。

 いつからか私はアッバ・オリから「ムチャ・コー(わが子)」と呼ばれるようになった。外から帰ってくると、きまって「ムチャー・コーが腹を空かせているんじゃないか? ちゃんと食べさせたか」と妻のファトマに声をかける。

 「いま食べたところだよ」と私が答えても、「さぁこっちへおいで、一緒に食べよう」と誘う。それでも断ると、少し首をかしげて「そうかい、しょうがないねぇ、じゃあひとりで食べようか」とつぶやくように言って、にたっと笑う。

 夜になると、ひとつの灯りの下で、息子たちがアッバ・オリを囲んでその話に耳を傾ける。幾度か繰り返された昔話かもしれない。それでも、ディノやヤスィンは眼を輝かせながら相づちを打ったり、真剣な顔で質問したり、腹を抱えて笑ったりした。

 ぽかんと口をあけてアッバ・オリを見つめていた子どもたちも、いつの間にかその場で横になってうとうとしはじめている。満天の星空がめぐり、静かに夜が更けいく。

たとえ話の内容が聞き取れなくても、その光景にはいつもうっとりさせられた。
長く人生を送ってきた分だけ、知恵や経験が積み重なる。その年月の重みに年少者は素直に頭を垂れる。こんな美しい家族の時間は日本ではもうみられないかもしれない。

そんな話のなかには、おきまりの笑い話もあった。
アッバ・オリ家族はみんなムスリムだが、さほど厳格でもないので、ときどきお酒も口にする。いつもは穏やかで温和しいアッバ・オリも、酒が入ると気が大きくなって、日頃の鬱憤が出ることもあったようだ。

あるとき、酔ったアッバ・オリは大声をあげて飲み屋を飛び出すと、どこかに姿をくらましてしまった。いつまでも帰らないので心配して家族が探し回ると、屋敷地のはずれにある大木の下で前屈みになってうなだれている。近づくと、「このやろう!このやろう!」とつぶやきながら、木の根元を拳で殴りつけていた。

 「酔っ払っても、人は殴れないから、木を殴ってたんだよ」とディノは笑う。

 人前で自分の意見を大声で主張したり、政治的な役職についてきたわけでもないので、村のなかでも発言力のある存在ではない。それでもその誠実な人柄に信頼を寄せる人は少なくなかった。

 病気や薬草の知識も豊富で、目や歯の病気の施術を受けに、よく小さな赤子をつれた母親が家を訪ねてきた。そんなときのアッバ・オリは、きりっとした引き締まった表情になってあれこれ指示を出すと、手際よく治療を施した。治療を終えると、何事もなかったかのようにすっと自分の仕事に戻っていった。恩を売るような素振りをみせることも、見返りを要求することもなかった。

 小さな屋敷地くらいしか土地がなく、けっして豊かな家ではない。
 それでも、村の貧しい人などが訪ねてくると、食事を出してあげたり、一緒にチャットを噛んだりしながら、ずっとその世間話につき合っていた。

 私が端から見ていても、迷惑な訪問客だなという場合でも、いつもニコニコと話に頷きながら歓待していた。長居した客が帰ったあとで陰口をたたくようなこともけっしてなかった。

 ディノやヤスィンは、そんなアッバ・オリを人がよすぎる、と非難することもあった。

 今年、村での滞在中にイスラームの祝祭(アラファ)があった。
 祝祭は、村人にとって数カ月ぶりに肉の食事にありつける格好の機会でもある。

 数日前から、誰それが共同で牛を購入してつぶすらしいとか、あっちのグループでは何某から1人いくらで牛を買うらしい、といった情報が飛び交い、男たちが色めき立っていた。みんな自分の懐具合を考えながら、どの組に加わって肉を調達するか、思案をめぐらせていた。

 祝祭の前日、家の裏手に広がるコーヒー林のなかで三頭の牛が屠られていた。年長者は、ふつうそばで見守りながら指図するくらいなのだが、アッバ・オリは若者たちにまじって、率先して牛の解体作業に手を貸していた。

 長い布を鉢巻きのように頭に巻き、裾を膝までめくって喜々として包丁を振るうアッバ・オリの姿は、まるで少年のようだった。

 その日、私は昼過ぎには村を離れなければならなかった。アッバ・オリは、作業の途中で一塊の肉を家に持ち帰り、私のために急いで調理するよう告げて、再びコーヒー林に戻っていった。

 両親や家族の分も含めて、別の場所で牛の解体をしていたディノが肉を持ち帰ってきたときには、私はすでに早めの昼食をとったあとだった。アッバ・オリが肉を持ち帰って調理させたと聞いて、ディノはあきれた顔をしてつぶやく。

 「タダだとでも思っているのか! お金を払うあてもないのに、すぐ調子に乗って・・・」

 そんなアッバ・オリと生活をともにしながら、私はたびたび村がたどってきた歴史について訊ねた。アッバ・オリは、いつも自分の息子たちに語るのと同じように、淡々と自分の体験を話してくれた。

 その口から語られた歳月は、柔和でお人好しなアッバ・オリの人柄からは想像もできないほど激動の日々でもあった。

(つづく)

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松村圭一郎(まつむら・けいいちろう)

1975年、熊本生まれ。立教大学社会学部・准教授。エチオピアや中東都市部を中心にフィールドワークを続ける。富の所有や分配、貧困や開発援助、海外出稼ぎの問題などを研究。主著に『所有と分配の人類学』(世界思想社、2008)、『基本の30冊 文化人類学』(人文書院、2011)。

『平日開店ミシマガジン』では「<構築>人類学入門」、KYOTO的では「エチオピア的」を連載した。

立教大学社会学部松村研究室

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