月刊 越尾比屋人

第10回 アッバ・オリ(後編)

2014.01.14更新

 ヨーロッパ列強がアフリカ諸国の植民地支配を進めていた19世紀末。
 エチオピアでは北部のエチオピア帝国が南部の諸民族を征服する過程にあった。

 アッバ・オリたちが暮らす村の周辺には、当時、広大な森が広がっていた。
地元のオロモ人の王国は帝国の遠征軍に降伏し、1000ヘクタールをこえる森の土地もやがて中央から派遣されたひとりのアムハラ人貴族に領有されることになった。

 アッバ・オリが結婚して家庭をもった1950年代。この貴族の孫や町の事業家などが森の土地で近代的なプランテーションを開設しようとしていた。

 それまでは貴族の領地といっても積極的な開発は行われず、配下の者が農民から小作料を徴収するくらいだった。地元の農民は監視の目を盗んで、森のなかに家を建てたり、畑にしたりしていた。

 アッバ・オリは言う。
「アムハラの手下が小作料を払わないオロモ農民を追い出しても、しばらくしたらすぐに戻ってくる。それからまた追い出される。そのくり返しだよ」

 アッバ・オリも使われていなかった森を自分で伐り開き、トウモロコシ畑にしたり、コーヒーを植えたりしていた。

 ところが、1960年代に近代的なプランテーション開発が始まると、事態は一変する。
農園主たちは、町から連れてきた労働者を動員して農民たちを追い出しはじめた。

 ある農園主は、労働者に命じて集落の生け垣を壊し、果樹などをすべて伐り倒させた。農民の家だけがとり残された。すぐにトラクターで土地の耕起がはじめられる。農民たちは外に出る道を断たれ、牛を放牧地に出すこともできなくなった。牛が農園の敷地に入ると、1頭につき10ブルの罰金を支払わされた。

 それでも立ち退かなかった農民の家が脅しのために焼き払われた。抵抗する者は鞭やこん棒で殴られた。やがて残っていた家もすべて更地にされ、商業農園につくりかえられる。

 アッバ・オリも、コーヒーを植えてやがて実がなろうとしていた土地から追い出され、10年ほど耕してきた畑からも立ち退きを迫られた。それでも当時は、まだ使われていない土地が残っていた。アッバ・オリは遠く離れた森を開墾して畑をつくった。

 その後、アッバ・オリたちはさらに大きな変化の渦に巻き込まれていく。
 1974年9月、皇帝ハイレ=セラシエ1世が軍の将校たちに拘束され、その廃位が宣言される。軍部が主導する「デルグ」といわれる政権が誕生し、皇帝を頂点とした封建体制が一夜にして崩壊したのだ。

 翌年3月、新政権によるラジオ放送が始まる。
「すべての土地はエチオピア人民の共有財産となり、今後、いかなる者も、企業も、その他すべての組織も、土地を私的に所有することはできない」
 この放送を聴いたある地主は、怒ってラジオを壁に投げつけたという。

 やがて村に1台の車がやってきた。車から降りた2人の男は、農民たちに新政権の政策について説明した。
「ハイレ=セラシエ皇帝の時代は終わった。地主はいなくなる。土地はすべて農民のものだ。小作料も支払う必要はない。地主の牛もすべて耕作者のものになる」

 都会の学生が農村部に下放され、その指導のもとで社会主義的な土地改革が実行されていった。大土地所有者の財産が調査され、すべて差し押さえられた。農園主のなかには、危険を察知してケニアなどに亡命した者もいた。

 没収された土地のほとんどは、あらたに開設された国営コーヒー農園の土地になった。農民に分配された土地はわずかだった。村では、学生たちの命令で8人の地主が処刑される。土地の接収や再分配は「反抗すれば処刑される」という雰囲気のなかで進んだ。

「誰も逆らうことはできなかった」
 アッバ・オリは述懐する。
「地主に小作料を払う者はいなくなった。その代わり、誰もが税金を課された。最初は7ブル、その後15ブル、すぐに20ブルになった」

「革命」がはじまって1年あまりで村の生活は劇的に変化した。

 農民組合が結成され、村人は組合の共同コーヒー園のために無償で労働奉仕をしなければならなかった。戦場に赴いたデルグ兵士の畑をみなで耕すなど、週のほとんどが共同労働となることもあった。

 アッバ・オリも、1週間ずっと組合の労働奉仕が続いて家に帰れないこともあった。仕事を怠けた、私語をしたといっては逮捕され、夜は村の牢屋に入れられた。毎日30人から40人が些細な理由で拘束されていた。

 開設された国営農園では、古いコーヒー林が切り倒され、新たに品種改良されたコーヒーの木が植えられていった。1980年代に入ると、農園の規模を拡張するため、農民の強制退去が進められた。退去した農民の多くが農園労働者になるよう説得された。

 当時、村で組織されたエチオピア労働党が労働者の勧誘活動を主導した。党員たちは、みなユニフォームを着用し、村人から賄賂を受け取って便宜を図るなど、強い影響力をもつようになっていた。

 農園で働く者は、土地を明け渡すかわりに労働者村に入り、住居と自給用の畑の提供を受けられる。このとき、多くの農民が「軽い仕事をするだけで、毎月の給料がもらえる」という労働党員の誘いにのって契約書に署名させられ、土地を失った。

 アッバ・オリも、2ヘクタールほどの土地を農園側に譲り渡して、農園の労働者として雇われた。しかし、勧誘のときに聞いていた「楽な仕事で毎月給料がもらえる」といった甘い話は、現実とはかけ離れていた。

 深い森を斧で伐りひらき、コーヒーを植林していくという作業は重労働だった。配給食糧の代金が給料から天引きされ、さらに現場監督との関係が悪くなると、月給はどんどん減額された。アッバ・オリが最初の月にもらった給料は、わずか25セントだった。

 アッバ・オリは、経理担当の女性に食ってかかった。
「女は家で料理でもしているもんだ! なんで正しい給料を払わないんだ!」
 すぐに銃をもった守衛が飛んできて、25セント硬貨とともに外に放り出されてしまう。

 農民組合の労働奉仕から逃れて入った国営農園の仕事も過酷だった。
 アッバ・オリは言う。
「火の中に入れられたような時代だった」

 1980年代後半には、内戦が激しさを増した。14歳以上の男子には兵役が義務づけられ、強制連行も行われた。村の自警団が銃を手に学校まで押しかけ、少年を連行することもあった。少年たちは、いっせいに教室の窓から逃げ出した。「召集がある」という噂が流れると、村の若者たちは森の中に入って身を隠した。家から食事が運ばれ、何日も森に潜むこともあった。

 アッバ・オリの長男モクタルもこのときデルグの兵士となって徴兵された。ヤスィンは、身長が低かったために難を逃れた。1990年には60歳の老人までもが徴兵されはじめた。政権の崩壊は時間の問題だった。

 1991年5月末の早朝、国営農園の近くに進軍していた反政府軍が激しい砲撃を開始した。威嚇のための砲撃によって、農園は一瞬にして大混乱に陥る。農園幹部はいっせいにジンマに向けて車で逃亡しはじめ、他の職員も家財道具を村に移した。

 混乱のさなか、労働者たちがトウモロコシやコーヒーの貯蔵されている農園の倉庫に押しかけた。最初に農園の北側にあった倉庫が略奪を受ける。地元の農民も加わって暴徒化した一団は、次に農園事務所に向かった。事務所の裏には大量の穀物が蓄えられた3つの倉庫があった。労働者たちが向かっていることを聞きつけた農園の守衛たちは、銃をもって待ちかまえた。

 午前11時ごろ、事務所の門の前に集まった群衆は「中に入れろ!」と口々に叫んだ。
 守衛のひとりが銃を3発空にむけて撃ち放った。
「明日からのわれわれの食糧じゃないか! それを奪ってどうするんだ!」
 彼の力強い言葉に人びとはたじろぎ、略奪は押しとどめられた。

 1991年9月、農園労働者をあつめて集会が開かれた。そこには農園の幹部もそろって出席していた。新政権の役人が前に立ち、労働党の政党活動を行なっていた者や不正行為をした者に名乗り出るように告げた。

 人びとは「お前もパーティーの人間だろう!」、「○○も立つんだ!」とやじを飛ばした。名指しされた者のなかには泣いて許しを乞う者もいた。名前のあがった者は、みな倉庫に集められ、尋問を受けた。問題ありとされた者は町に連行され、刑務所に入れられた。多くは1週間ほど政治思想などの講習を受けて村に帰される。

 マネージャー以下の役員は全員解任されて別の任地に赴いた。労働党の幹部として賄賂を受けとるなど影響力を誇っていた者も、井戸の守衛などの職に追いやられた。

 アッバ・オリは、新政権のもとでも国営農園で働くことになった。
 ところが、しばらくして作業中に蛇にかまれたことが原因で床に伏してしまう。高熱にうなされ、起き上がれない日々が続いた。その後も体調がすぐれないことが多く、仕事も休みがちになった。1994年には、ついに小額の金を渡されてクビになる。

 本来ならちょうど退職金と年金を受けられる60歳になっていた。だが、働き始めるときに年齢を若く偽っていたこともあって、何も受けとれなかった。横で話を一緒に聞いてきたヤスィンが首を横に振りながらつぶやく。
「親父はほんと間が抜けてるんだよな...」

 すべての土地を農園に譲り渡していたアッバ・オリには、もう耕す土地もなかった。親戚から小さな土地を借り、小作農として暮らしはじめた。

 数年後、アジスなどで働いていたディノやヤスィンが村に戻ると、アッバ・オリは息子たちとやや広い土地を借りて耕すようになった。生活も少し落ち着いた。日本の大学生がふらりと村にやってきたのは、そんなときだった。

 アッバ・オリの口から語られる村の歴史を聞くと、いつも目眩がしてくる。農民たちは、くり返し国家や資本家といった外部の大きな力に翻弄されながら、想像をこえる激動の時代を生き抜いてきた。

 自分がいかに平和な場所で生まれ育ってきたかを身にしみて感じる。日本からみえている世界は、ほんの小さな井の中にすぎない。そんな気分になる。

 日本にいるときも、いつもエチオピアに生きるアッバ・オリたちの姿が頭の片隅にある。 名もなきエチオピア農民の生きざまから世界の成り立ちを考える。いつの頃からか、それが自分のやるべき仕事だと思うようになった。

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松村圭一郎(まつむら・けいいちろう)

1975年、熊本生まれ。立教大学社会学部・准教授。エチオピアや中東都市部を中心にフィールドワークを続ける。富の所有や分配、貧困や開発援助、海外出稼ぎの問題などを研究。主著に『所有と分配の人類学』(世界思想社、2008)、『基本の30冊 文化人類学』(人文書院、2011)。

『平日開店ミシマガジン』では「<構築>人類学入門」、KYOTO的では「エチオピア的」を連載した。

立教大学社会学部松村研究室

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