月刊 越尾比屋人

第11回 モクタルとヤスフ(前編)

2014.02.15更新

「世界を知る」とは、異国の文化や歴史を学ぶことだけではない。
 遠く離れた土地で生きる人を同じ世界の一員として思い浮かべながら思考できるようになること。それが想像のなかの「世界」を拡張する。
 エチオピア人の生のあり方が、わずかでも日本に暮らすぼくらの「世界」を広げることを願いつつ、続けよう。

 アッバ・オリには、4人の息子と1人の娘がいる。
 これまで、三男のヤスィンと四男のディノについては書いてきたが、あとの2人の兄弟については、ほとんどふれてこなかった。

 長男のモクタルは、同じ集落の少し離れた場所に家を建てて住んでいる。私が最初に村を訪れたとき、アッバ・オリたちと仲違いしていて、あまり姿を見せなかった。1980年代に徴兵されて戦場に赴いていたこともあって知識も豊富で、村ではそれなりに発言力のある存在だった。いつも大声でまくし立てるような話し方をするので、私はあまりなじめなかった。

 次男のヤスフは、ある事件に巻き込まれて長いこと刑務所にいた。私が村に通いはじめて4年ほどして村に帰ってきた。とてもやさしい性格で、私のこともよく気にかけてくれた。 ただ、あまり働こうとせず、頭が痛いとか、眠れないとか、身体の不調を訴えることも多かった。いろんなことに思い悩んでいるようだった。

 彼らのことを書こうとすると、少し躊躇してしまう。それは兄弟のあいだで争いごとが絶えなかったからだ。

 アフリカの農村というと、貧困というイメージの一方で、誰もが協力して平和に暮らしている、というイメージもある。いずれも現実はそう単純ではない。
 アムハラ語で「争いごと」のことを「チキッチキ」という。村の生活には「チキッチキ」があふれていた。

 1991年に内戦が終わり、村に戻って再婚したモクタルは、村の農民組合がアッバ・オリに与えたコーヒー林をひとりで使うようになっていた。

 アッバ・オリは、自分のことしか考えない長男に業を煮やし、ほとんど絶縁状態になった。数年後、アジスから村に戻ったディノの強い意向もあり、アッバ・オリはこのコーヒー林への権利主張を村に申し立てる。

 しかし、村はその主張を退け、他に土地のなかったモクタルにそのコーヒーの土地を与えることを決めた。

アッバ・オリは、かつてモクタルに与えた別のコーヒー林についても、返還するよう要求した。村は、この要求に対しても「コーヒー林はモクタルのものである」という決定を下した。

 モクタルのことが許せなかったディノは、コーヒーが実る時期(11月〜12月)を待って、このコーヒー林の扱いについて、あらためて村に異議を申し立てた。村はこの問題を集落の年長者による調停にゆだねた。

 年長者たちは話し合いをもち、アッバ・オリとモクタルにコーヒー林の土地を分割することを提案した。アッバ・オリとモクタルはコーヒー林に向かった。

 後から話を聞いたディノは、急いでコーヒー林に駆けつけた。
 すでに土地の分割が終わろうとしていた。

「ここのコーヒーの木は1本たりとも渡さないからな!」
 ディノは、モクタルや年長者たちを睨みつけた。
「アッバ・オリの土地はどこなんだ?」
「やめなさい。もう決着がついたことだから・・・」
 アッバ・オリは、声を荒げるディノをなだめた。

 年長者たちはアッバ・オリに「家で沸かして飲むくらいのコーヒーの土地を受け取りなさい」と告げていた。その土地はほんの5メートル四方くらいしかなかった。

 それを知ったディノは怒りを爆発させた。
「お前らみんなここから出て行け!」

 手を焼いた年長者たちは、村に「自分たちでは解決できない」と回答した。

 その後、ディノのおじにあたるジアドが、年長者の仲裁を受け入れるようディノを説得し、もう一度コーヒーの土地の分割が行なわれることになった。
 結局、面積は小さいが良質なコーヒーが生えている土地をアッバ・オリに、面積は広いがコーヒーがまばらな土地をモクタルに与えることで決まった。

 それでも、ディノのモクタルへの反感はおさまらなかった。
 アッバ・オリがモクタルの結婚に際して、その妻に分け与えていた小さなコーヒー林で、ディノは勝手にコーヒーの実を摘みをはじめた。

 ディノは「全部摘みとってやる」と言って、採集したコーヒーをすべて売却した。モクタルの妻は、コーヒー摘みをしているディノの姿をみても何もいわず、コーヒー林にも近づかなくなっていた。

 アッバ・オリ夫婦は「人のコーヒーに手をつけてはいけない」と、ディノの行動を諫めた。ディノもようやくコーヒー摘みをやめる。

「おれはコーヒーが欲しかったわけではない」と、ディノは言う。
「コーヒーを売った金で服を買ったわけでもない。もしおれがアジスから戻ってこなかったら、アッバ・オリはコーヒーの土地も何もかも失っていたはずだ。親を苦しめる悪い子どもが許せなかったんだ。モクタルは最低なやつだ」

 私は兄弟間の埋めがたい深い溝を感じて、暗い気持ちになった。

 それからしばらくたった2002年12月ごろのこと。ディノの知人2人が穀物袋をさげて家にやってきた。オレンジの木によじ登り、いっせいに果実を地面に落としはじめた。

「オレンジの実をまるごと買い取った」のだという。それを見て、ヤスィンは「ディノが売ってしまったんだ。あとでモクタルともめるぞ」とこぼした。よく聞いてみると、この木は長男であるモクタルが若い頃に植えたものだった。

 ディノは言った。「オレンジをこのままにしていたら、子どもたちが食べつくしてなくなってしまう。これを売ったお金は自分のものにするんじゃない。父親の税金を払うためにつかうんだ」

 ディノ自身も、モクタルがこのオレンジを植えたことは知っていた。だからこそ、オレンジを売って得たお金は自分のものにするのではなく、父親の税金の支払いに当てると言って正当化したのだ。

 このオレンジをめぐって、その後、小さな事件が起きた。私が家で調査ノートの整理をしていると、外でモクタルとンママが言い争うような声が聞こえてきた。

 たまたまアッバ・オリの屋敷地を通ったモクタルは、自分の植えたオレンジの実が少なくなっていることに気づいた。激昂したモクタルは、その木によじ登って熟れた実をとりながら、木の下にいたンママに対して、吐き捨てるように言った。

「なんでおれのオレンジをとるんだ。このブダ(邪視)が!」
 モクタルは、ひとしきりオレンジをもぎとって、帰っていった。
「ブダ」とは、目で見ただけで人が病んでしまう力をもつ者のことで、エチオピアでもっとも侮辱的な言葉のひとつだ。

 そのあとが大変だった。
 ンママは、ちょうど畑仕事から帰ってきたヤスィンに「モクタルが、わたしのことをブダ呼ばわりしたのよ!」といって、声を荒げながら騒ぎはじめた。

 ヤスィンの妻アバイネシなども加わって、そのときのモクタルの言動がンママの口から何度もくり返し語られた。しばらくのあいだ、屋敷のなかには自分の母親にあまりにひどいことを言った、とモクタルを非難する言葉があちらこちらで飛び交っていた。

 それから、ヤスィンも、帰ってきたディノも、そのオレンジの木に登ってオレンジをもぎとりはじめた。それまで子どもたちがオレンジをもぎとることはあっても、ヤスィンやディノが自分で木に登ってとることは、ほとんどなかった。

 もうこれ以上モクタルにはとらせない、という意思表示のようでもあり、ひどい言葉を吐いたモクタルの罪をオレンジで弁済させるかのようでもあった。

 オレンジの木から降りたヤスィンは、顔を紅潮させて言った。
「この木を植えたとき、モクタルが街からオレンジの苗を手に入れてきた。でも、モクタルは小学校に通いはじめたくらいの幼い自分に指図して植えさせただけで、自分では何もしなかった。雑草を抜いたりオレンジの世話をしてきたのは、全部おれだ。それなのに、モクタルがこのオレンジを自分のものだというのはおかしいだろ?」

 こうした兄弟間の確執の背景には、エチオピア農村部の圧倒的な土地不足がある。1970年代以降、村の土地の大部分が国営農園とされ、多くの農民が土地を失った。

 当初は、土地のない小作や若者にも土地が分配されていたが、若者の数が増えるとともに、すでに村には分け与えるべき土地は残っていなかった。若者世帯の多くが、人の土地を借りて耕したり、日雇いの仕事をしたりして生計を立てるしかなかった。

 屋敷地と小さなコーヒー林くらいしか土地のなかったアッバ・オリの家でも、4人の兄弟がその小さな土地をめぐって、つねに緊張関係にあった。

 村に戻ってすぐに結婚したヤスフも、厳しい暮らしのなかで苦悩しているひとりだった。

(つづく)

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松村圭一郎(まつむら・けいいちろう)

1975年、熊本生まれ。立教大学社会学部・准教授。エチオピアや中東都市部を中心にフィールドワークを続ける。富の所有や分配、貧困や開発援助、海外出稼ぎの問題などを研究。主著に『所有と分配の人類学』(世界思想社、2008)、『基本の30冊 文化人類学』(人文書院、2011)。

『平日開店ミシマガジン』では「<構築>人類学入門」、KYOTO的では「エチオピア的」を連載した。

立教大学社会学部松村研究室

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