月刊 越尾比屋人

第13回 アンバル(前編)

2014.04.10更新

 アッバ・オリには、ひとり娘がいる。末っ子のアンバルだ。
息子たちに諍いが絶えないなかで、両親にとっても、兄弟にとっても、明るく快活なアンバルの存在は救いだった。

 私も、アンバルをほんとうの妹のように愛おしく感じていた。ひさしぶりに村を訪れると、みなとハグをして、頬にキスを交わす。アンバルは、きまってぎゅっと力強くハグしてくれた。彼女の心から嬉しそうな笑顔に迎えられると、幸福感に満たされた。

 彼女は、兄弟の誰とも率直に話ができる関係だった。男兄弟たちは、みな自分が一番アンバルのことをかわいがっていると思っているようで、おかしかった。

 アンバルは、私が最初に村を訪れた1998年にアブドという農民男性と結婚した。息子と娘ふたりずつ、4人の子どもに恵まれた。夫のアブドもやさしい性格で、いつもふたりは仲むつまじい様子だった。子どもたちは目がぱっちりしてまつげが長いアブドにそっくりだった。

 アンバルは結婚してからというもの、私が村を訪れるたびに痩せていった。よく体調を崩しては、床に伏せていたのだ。2003年に村を訪れたときには、長いあいだ原因不明の病気を患い、とても苦しそうにしていた。

 アブドは、隣村にやってきた新顔の呪術師のもとを訪ねた。
「よく病気を治してくれて、すごい力をもっているって評判なんだ」とアブドは言った。

 アブドがアンバルの病気について相談に行くと、呪術師は「悪魔にとり憑かれていて、他にも邪視の影響もある」と言った。

 呪術師は二種類の呪薬を処方した。戻ってきたアブドからその薬を見せてもらうと、ひとつは「干しぶどう」で、もうひとつは村人が「スブリ」と呼ぶアラブの民間薬だった。

アブドやアンバルは干しぶどうを初めて目にしたようだった。
「これは貴重な薬だと言われたんだけど、知っている?」と、アンバルが聞いてきた。

 ジンマのスーパーマーケットでも売られているのを私は知っていたが、それを言うのも悪い気がして、「身体にいい薬だよ」とだけ答えた。

 アブドは呪薬の代金として30ブルを要求された。これは町の医者にかかって処方される薬よりも少し安い。村人は、町の病院に行く前に、まず村の呪術師に相談する。その理由がわかった気がした。往復の交通費をかけて町まで行き、高い薬を買わされても効果がなければ高くつくのだ。その負担は大きかった。

 アブドは、その日、持ち合わせがなかったので10ブルだけを払った。
呪術師はアブドに言った。
「次は邪視にも効く飲み薬を渡そう。また日曜の朝早く来なさい。そのときに残りを払ってもらおう」

 その後も、アンバルの具合は良くならなかった。むしろ悪化しているようにも思えた。
 私が見舞いに行くと、すっかり頬がこけたアンバルは「全然よくならないわ」と生気のない顔で言った。食事もあまり喉を通らないようだった。

「もう町の病院に連れていったほうがいい」
 家を出るとき、私はアブドに少額のお金を渡して言った。

 アブドがアンバルをアガロの病院に連れていくと、寄生虫にやられて貧血状態になっていたことがわかった。処方された虫下しと貧血の薬を数日飲んでいると、アンバルの体調はみるみる回復していった。

 村では、体調が悪くなれば、いつでも気軽に病院に行けるという人はほとんどいない。みんな病状が悪化してから病院に行くので、手遅れになることもある。そうすると病院に行っても、お金がかかるだけで治らないといったイメージが広がる。悪循環だ。

 アンバルは、よく体調を崩す理由を、家が精霊ジンニの通り道になっているからだ、と考えていた。アンバルたちが暮らす集落は、村の中央を走る道から離れた森に囲まれた場所にあった。たしかにやや辺鄙な場所だった。

 あるときアンバルが真剣な顔で相談してきた。「道路沿いの土地に家を建てようと思うの。体調もずっと悪いし、いまの場所はとても不便だから。どう思う?」
 不幸や災難にあって家の場所を変えることは、村ではよくあることだ。

 私自身は、道路沿いはあまり好きではなかった。最初に間借りした家も道路沿いにあった。人の行き来が多くて落ち着かなかった。それに道路沿いの土地は価格が高騰して、わずかな土地で数千ブルもした。でも、体調のすぐれないアンバルの考えに水を差すのも悪いと思った。

「うん、気分を変えるにはいいのかもね」
「そうでしょ? 道路沿いだったら、電気も引けるし、いつかスーク(小商店)を開くことだってできるわ」アンバルのなかでは、もう答えは出ているようだった。

 翌年、2007年に村を訪れると、アンバル一家は、道路沿いの土地に小さな草葺き屋根の家を建てていた。アンバルは、しきりに新居に昼食を食べに来るよう言った。

「いつも助けてもらうばかりで、何もしてあげられないから、お礼がしたいの」
 私がときどきお金を渡したりすることを、心苦しく思っているようだった。

 2日後、ヤスィンと一緒に家を訪ねると、アンバルは家の床をきれいに掃いて待っていた。「もう少しで料理ができるから、ちょっと待っててね」アンバルは、いつもの笑顔でにこっとすると、台所のある裏の小屋に入っていった。

 料理ができるまでのあいだ、ヤスィンから昔の貧しかったころの話を聞いた。
「小学校のときは、朝早く薄焼きパンだけもって家を出て、隣町まで2時間くらい歩いていってた。ポケットのなかのパンが氷のように冷たくなってね。食欲もわかないから、ノートにはさんだままにして、帰りに食べてたよ」

 ヤスィンは、アンバルの家の居間でくつろぎながら、ぽつぽつと話しはじめた。
「お昼は、コーヒーを摘んで25セントが手に入れば、パンがひとつ買えた。50セントもあれば、紅茶も飲めた。いつもおなかがすいててね。勉強にも集中できなかったよ」

「アッバ・オリは、コーヒー農園からの給料があったんでしょう?」
「親父は現場監督から偉そうに命令されるのになじめなかったみたいで、すぐに怒って、決められた仕事もこなさないで家に帰ってきてたんだ。出来高制だったし、配給食糧の代金も引かれて給料はわずかだった。生活はいつも苦しかったよ」

 ヤスフの上にセイフという兄がいた。背の高い男だった。貧しい生活に嫌気がさし、モクタルと同じ1980年代後半に、村から逃げ出すように兵士となって戦地に赴いた。3カ月で1通の手紙が届いただけで、戦死して帰らぬ人となった。

「あのころは、まだアンバルも小さくてね。彼女に薄焼きパンをつくってあげてたのは、おれなんだよ。あの頃も、ヤスフは仕事もしないでぶらぶらしてて、おれが焼いたパンをとって行くこともあった。モクタルは、ちょうど結婚して、妻の実家の大きな家に住んでて、あまり家に来なかった。離婚した最初の奥さんは、土地もあって豊かな家の女性だったんだ」

 それまでヤスィンから子ども時代の話を聞くことはあまりなかった。彼らが苦しい生活をくぐり抜けてきたことを思うと、食べ物に困ったことなどない自分が彼らの世話になっていることに身が縮む思いがした。

 アンバルが昼食をもって奥から出てくる。「お待たせしました。ご飯できたわよ!」
 出された皿をみると、肉とジャガイモのシチューだった。村では、めったに目にすることのない料理だ。

「これも飲んでね」
 アンバルは、私のためにペプシ・コーラまで買ってきていた。前日にわざわざ町のマーケットに行くと言っていたのは、この日のために準備していたのだ。

 ヤスィンから貧しい頃の話を聞かされたばかりで、ほんとに申し訳ない気持ちになった。 痩せているアンバルに肉を食べるように促し、「ペプシは甘いから、少しで十分なんだ」と言って、ヤスィンにも飲むように勧めた。

 食後にアンバルはコーヒーを煎れてくれた。近所の人もコーヒーを飲みに来る。ンママの妹一家が隣に住んでいて、仲良くやっているようだった。ヤスィンがもってきたチャットをかみながら、アンバルが楽しそうに話している世間話に耳を傾けた。

 数年後、ディノの妻のラザがオマーンに出稼ぎに行ってまもなく、アンバルもオマーンに働きに出ることになった。

 じつは2011年にオマーンにいるラザを訪ねたとき、アンバルにも会いに行こうとしていた。ディノから、アンバルは体調がすぐれず、雇い主ともうまくいっていない、と聞かされていた。ドバイからアンバルの雇い主の携帯に電話すると、途中で一方的に電話を切られ、それから何度電話してもつながらなくなった。

 マスカットにいることだけはわかった。電話をかけつづけながら、私はドバイから車を飛ばして、マスカットに向かった。でも結局、電話は最後までつながらず、アンバルに会うことはできなかった。

 それからアンバルは体調が悪化して入院し、村に戻ってきた。だが、その3カ月後には今度はサウジアラビアへと旅立っていった。サウジアラビアでは、不法移民の取り締まりが強化され、エチオピア人が警察から暴力を受けているというニュースが流れていた。

(後編につづく)

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松村圭一郎(まつむら・けいいちろう)

1975年、熊本生まれ。立教大学社会学部・准教授。エチオピアや中東都市部を中心にフィールドワークを続ける。富の所有や分配、貧困や開発援助、海外出稼ぎの問題などを研究。主著に『所有と分配の人類学』(世界思想社、2008)、『基本の30冊 文化人類学』(人文書院、2011)。

『平日開店ミシマガジン』では「<構築>人類学入門」、KYOTO的では「エチオピア的」を連載した。

立教大学社会学部松村研究室

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