ヘンテコ医学史漂流記

第8回 透視も知識あってこそ

2015.05.21更新

 ヘンテコ医学史の第3回で出てきた湯島聖堂ですが「神農祭」とともに、もうひとつ、「鍼灸祭」という行事も催されています。新緑の眩しい五月、私は今年初めて参加しました。


 祭壇には、五つの掛け軸が掲げられ、神主さんが祝詞を奏上されます。黄色と白の掛け軸には、前回「黄帝内経」のところででてきた黄帝と岐伯の名前が見えます。
「神農祭」でもそうでしたが、「鍼灸祭」も会場は立ち見が出る大盛況でした。とくに若い鍼灸師さんが多かったのが印象的でした。自分たちの大先輩を「臨床の神様」として拝むという習慣は、東洋にはあっても西洋にはないはずです。
 ヨーロッパ世界は一神教ですから、医療関係者が死んで「聖者」とされることはあっても、「神」に列せられることはまずありません。ギリシャ神話ではアスクレピオスという医神がいて、その持ち物が世界保健機関(WHO)のマークになっていたりしますが、"アスクレピオス祭り"というのを現代にどこかの医学部でやった、という話はあまりきいたことがありません。

 ところが、私が大学院時代に通っていた北里研究所には、なんとコッホ神社という祠があります。これは、北里柴三郎が、自分の恩師であり、結核菌やコレラ菌を発見した偉大な細菌学者、ロベルト=コッホの死を悼んで立てた神社です。中にはコッホの遺髪がご神体として安置されているそうです。欧米人にはちょっと理解できない、ヘンテコな習慣に見えるかもしれませんね...

 さて、話が脱線してしまいましたが、黄帝と岐伯以外の、3つの掛け軸は誰を祭っているのでしょうか、それを説明しましょう。
 まず赤の掛け軸は、扁鵲(へんじゃく)で、紀元前七世紀~三世紀の春秋戦国時代に活躍した伝説の名医です。若いころに長桑君という仙人に出会い、弟子入りして医学を学び、人のからだを見ると、どこに病があるかを見通せる透視能力を身に付けていたと云われます。
 もう「透視」とか言う時点で、アヤシイ・ヘンテコだと言われてしまいそうですが、実は「透視」出来たとしても、病気が診断できるわけではありません。よく患者さんに胸のレントゲンを見せながら説明することがあるのですが、患者さんはたいてい、胃のあたりに大きな黒い塊を見つけて、オドオドしながら「これは何ですか...?」と訊いてきます。「いいえ、これは胃の中にたまった空気で、そのうちゲップになって消えてしまいます、それよりも...」肺の中に、半年前のレントゲンには映っていなかった、小指の先ぐらいの非常に小さな影を医者は心配していたりします。

 なにが言いたいかというと、「透視」できたとしても、背景となる知識や経験が豊富でないと、どこにどんな病気があるか、全然わからないことが結構あるのです。
「正常」をたくさん見て、「異常」もたくさん見て初めて、どこからが病気で治療したほうがいい状態なのかを評価できます。逆に、知識や経験が豊富な医師が、わずかな手掛りから明快に診断し、根拠をもってその見解を述べると、「この人は何もかもお見通しだ!」と周囲を驚かせるわけですね。

 中国最古の歴史書のひとつ、「史記」には、「扁鵲倉公伝」という章があり、扁鵲ともう一人の名医、倉公の事蹟について書かれています。倉公は扁鵲よりもう少し時代が下って前漢時代、紀元前3~2世紀の人です。もともと政府の倉庫を管理する役人であったことから倉公と呼ばれ、本当の名は淳于意といいます。一番右の青い掛け軸に書かれているのは彼の名前です。
 倉公は脈の診断にすぐれ、「史記・扁鵲倉公伝」に記載されている二十五症例の記録を見ると、脈だけでここまで診断できるのか? と驚くほど、患者の予後をピタリと当てています。ところが、診断は出来ても治療できない、ということも多かったようで、二十五例中十例ほど死亡しています。彼は治療できないと見るや、あっさり治療を断るので恨みを買っていたことも多かったらしく、一時は罪に問われて死刑寸前にまでなります。

 医者のツライところは、治らない患者さんに出会った場合で、いい加減な治療をするとたいてい、治療しなかったよりも結果が悪くなります。ですから倉公の態度はある意味誠実と言えるのですが、治らないから何もしない、というのでは責任放棄だ、と言われてしまうことが多いのです。
 現代では、まったく何もできない病気、手も足も出ない...というのは倉公の時代よりもずいぶんと少なくなったと言えるでしょうが、絶無になったわけではありません。2000年近く経った今でも、倉公と同じようなことに日々悩みながら治療しているわけです。

 さて、残るもう一人の名医、「玄晏先生」と呼ばれて慕われた皇甫謐(こうほひつ)は、さらに過酷な運命を背負った人物でした。次回はそこからお話を始めましょう。

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津田篤太郎(つだ・とくたろう)

1976年京都生まれ。京都大学医学部卒。

子どものころ、人間の模型図の腸のかたちが巨大迷路に似ていることに興味を持ち、解剖図を眺めるのが好きになる。

現在、聖路加国際病院リウマチ膠原病センター副医長。西洋医学と漢方の双方を生かす医療をめざしている。

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